第1章 ― 緋燈ノ禍(ひとうのまが) ― 第2話
帝都・浅草の朝は、煤けた陽光の中に始まった。
しかしこの街に、夜は完全には明けない。
人の記憶と怨念が折り重なって沈殿した場所では、日輪さえも、完全に届かない。
柊一馬は、煙草を一本くゆらせながら、目の前の路地を眺めていた。
昨日“緋燈ノ禍”が現れた長屋には、誰の姿もなかった。焼け跡もなければ、報道もされていない。
まるで、最初から“何もなかった”かのように街は日常を繕っていた。
「記憶を焦がされた場所は……跡すら残らないのか」
呟きに、背後から別の声が返った。
「それどころか、“その人”が存在していた記憶さえ、失われる場合もある」
現れたのは、滋丘嘉人だった。
彼は一馬の隣に立ち、昨夜の“符”を見せた。紙片には黒い焦げ跡が残り、中央には文字が変質して刻まれていた。
《幽界顕現》
「この符文、“禁符”に近い構造をしている。だが、明治以降に記された形ではない。――時代が合わん」
「じゃあ、誰が……?」
「“帝都そのもの”が書き換えている可能性もあるな」
一馬は眉をひそめた。
“都市が怪異を記述する”――そんな馬鹿げた理屈が、今の帝都では妙に腑に落ちてしまう。
明治三十七年、帝都・東京。列強の近代化に追いつくため急速に整備されたこの街では、あらゆる矛盾が地面の下に押し込められてきた。
「神祓隊本部から通達があった。“緋燈ノ禍”と類似した痕跡が、他にも見つかっている」
「他にも……?」
「上野、芝、谷中……そして、本郷。全て旧武家屋敷や寺町に近い。共通点は、“記憶”に縛られた場所ということだ」
そのとき、煙の向こうから一人の青年が現れた。
軍服を着ているが、どこか所在なさげにうつむき、歩き方にもぎこちなさがある。
「……君は、俺を……知ってるのか?」
その言葉に、一馬の心臓はひとつ、強く跳ねた。
目の前の男――確かに見覚えがある。訓練所で肩を並べた記憶、演習で笑い合った場面、けれど――名前だけが思い出せない。
「……すまない。君は……誰だった?」
「それが、俺も……分からないんだ」
軍服の襟元は乱れ、手の指先は震えている。
だがそれよりも異様だったのは、彼の“影”だった。
靴の下に伸びるはずのそれは、光の角度に反して揺れ、時折、紅い灯が脈打つように光っていた。
「滋丘さん……あれは……」
「緋燈ノ禍の痕跡だ。完全に取り込まれる一歩手前だな」
「放っておけば、“記憶ごと”消える……?」
「いや。記憶どころか、“存在”そのものが都市から消去される。“名前”とは、人を結ぶ最後の鎖なのだ。鎖が断たれれば、誰もその人を語れなくなる。まるで、最初から存在しなかったかのように」
一馬は、拳を握りしめた。
思い出せない名を、必死に探るように。
「……どうして、君がこんなことに……」
「分からない……でも、昨日までは、確かにあったんだ。家も、家族も……妹が、いたような気がする。……笑っていた、顔が……でも、声が……」
青年は頭を抱え、膝をついた。
その周囲に、赤黒い“燈火”の残滓が揺れ始める。
「来るぞ……!」
滋丘が符を構え、空間に防護の結界を展開する。
一馬は青年の傍に膝をつき、その背に手を添えた。
「俺は、お前を覚えてる。まだ全部じゃない。でも……何かが、俺の中にある。“名前を忘れるなんて異常”だと、直感が言ってる」
青年の呼吸が、少しだけ落ち着いたように見えた。
その瞬間だった。
空間が“反転”した。
何の前触れもなく、まるで世界そのものが一拍、裏返ったように。
耳ではなく、骨で聞くような音が、一馬の身体の奥を貫いた。
――パァン。
爆音というには静かすぎる。
だが、空気が裂ける“圧”だけが、確かに存在していた。
一馬の足元がわずかに浮き、肺の奥で呼吸が反転する。
その刹那、地面から立ち昇るように、紅い仮面が現れた。
仮面を中心に、灯籠の火のような“羽衣”が揺れ、まるで音の波紋の中に浮かんでいるかのようだった。
一馬は条件反射で身構えたが、その音は既に“耳に届いた後”だった。
本能だけが、危険を告げていた。
「来たぞ……!」
滋丘の低い声と同時に、紅い灯火が青年の影に染み込むように滑り込んでいく。
仮面の下、焦げた“顔のない顔”が、じわりと影を侵蝕していく。
「一馬、結界外すなよ! やつは、“名を媒介に侵食する”!」
滋丘が叫んだ。
だが同時に、緋燈ノ禍がすっと仮面を傾け、青年の影に滑り込む。
次の瞬間、青年が叫んだ。
「やめろ……俺を……俺を、残してくれ……!」
それは、魂そのものが叫んだ声だった。
一馬は懐から、自らの“名札”を取り出した。
軍に支給された識別札――“柊一馬”と刻まれた真鍮板。
それを、青年の手に無理やり握らせる。
「名前を忘れるな! お前にも名がある! それが“お前自身”を証明するんだ!」
青年の手が震えた。
だが、その瞬間、影の中の紅い灯が、一瞬だけ静止した。
滋丘がすかさず札を放つ。
結界符と緘符が複合し、紅い影を縫い止める。
「――祓!」
光が爆ぜる。
緋燈ノ禍は、一瞬だけ仮面を割り、焼けたような“顔のない顔”を覗かせると、空気の層へ沈むように消えた。
静寂。
その場には、一馬と滋丘、そして青年の三人だけが残されていた。
だが、一馬は気づいていた。
(これは……祓えたんじゃない。“去った”だけだ)
緋燈ノ禍は、追跡をやめたのではない。
“名を忘れた者”を見つけるまで、また現れる。
そして――都市には、“名の忘れられた者”が、既に何人もいる。
「滋丘さん……“名前”ってのは……俺たちが思う以上に、“存在”の中核なんですね」
「その通りだ。“名前”がある限り、誰かが思い出せる。“祓い”の鍵とは、単なる術じゃない。記憶を繋ぎとめる意志なんだよ」
一馬は、青年の手に握られた識別札を見つめた。
「この人の名前、取り戻してみせます。絶対に。たとえ、誰も覚えてなくても」
その言葉に、滋丘はほんの僅か、口元を緩めた。
「……良い目になったな。一馬。――いよいよ、都市の“底”に潜る覚悟ができたようだ」