第1章 ― 緋燈ノ禍(ひとうのまが) ―
この『帝都幻影譚』は、**明治時代の帝都・東京を舞台にした、“怪異×スリラー×人間ドラマ”**を描く物語です。
文明開化の影で、街に潜む“見えざるものたち”――
表の歴史に記されることのなかった“都市の記憶”や“忘れられた怪異”たちが、静かに蠢き始めます。
主人公・柊一馬は、霊を“視る”力を持った青年。
そして彼の先輩、滋丘嘉人は、理知と霊術を操る陰陽師。
彼らが出会う最初の怪異は、“記憶を焦がす灯火”――《緋燈ノ禍》。
謎と仄かな不安、そして微かに見え隠れする黒い意志……
これから少しずつ、都市と怪異と人の因縁が絡み合っていきます。
明治三十七年 葉月 帝都東京―
夕刻の帝都に、異様な静けさが満ちていた。
それは日が沈んだからではない。“何か”が、街の呼吸を奪っていた。
柊一馬は、陸軍省裏の資料局を出て、坂の上から下町を見下ろしていた。
狭い路地に密集した瓦屋根の隙間から、淡く紅い煙が立ち昇っている。
しかし、それは炎の気配ではなかった。――霊気に近い。記憶の残り香のようでもあった。
「……また、出たようですね」
背後から静かに声がかかる。祓士長・滋丘嘉人。
長身の男は、片眼鏡を直しながら、手帳に何かを書き記していた。
「三件目です。いずれも夜の同時刻。“紅い仮面の火影”を見たという証言があります。だが、火災も、死傷者も出ていない」
「ただの幻覚にしては、残る痕がある。異臭……鬼灯を焼いたような匂いだと?」
「そう。“魄”が焦げたような臭いに近いと証言する者もいる」
一馬は眉をひそめる。
「魄……魂の、肉体に近い側面……」
「そう。“心の残滓”が焼かれているのだ。これは、ただの怪異ではない。“緋燈ノ禍”の可能性がある」
その名を耳にし、一馬の胸に冷たい風が吹いた気がした。
緋燈ノ禍――旧陰陽寮の禁書『火影録』に記される怪異。都市の底に澱んだ想念が、記憶の灯を喰らうことで実体を得る。
「見る者の記憶を焦がす“禍種”……」
「かつて、江戸の末期にも現れたとされている。“仮面をつけた灯火”が記憶を焼き、消された者たちは、誰にも思い出されなくなった」
一馬は目を閉じ、集中する。
脳裏に、赤黒い靄が広がる。焦げたような空気の歪みの中、女の影が一瞬、現れては消えた。
「……誰かが、ここで“忘れさせられた”。その人の記憶を、焼かれたような感覚です」
滋丘はすぐに動いた。
掌に符を滑らせ、地面に素早く結界の図を描く。
「これは術ではない。“都市の情念”そのものが形を取ったものだ。だが……誰かが“導いて”いる気配がある」
その瞬間、下町の一角から女の悲鳴が上がった。
「ひ、人が……! 火の影が……!」
二人はすぐさま駆け出す。
そこには、蒼白な老婆が崩れ落ち、震える手で家の奥を指していた。
障子の向こう、仄かな紅い光。ゆらりと浮かぶ、灯籠のような影。
「――あれは……緋燈ノ禍……!」
紅く膨らんだ火の実のような身体。仮面のような顔。
揺れる炎の羽衣が、畏れと共鳴するように静かに舞っている。
「視られたか…」
一馬は即座に祓符を構え、浄火の札を放った。
紅蓮の火花が迸り、怪異に命中する。
「……消えた、か?」
だが、煙が晴れたとき、そこに“火影”の姿はなかった。
「逃げたのではない。“戻った”のだ。主の元へ」
滋丘の声は低く沈んだ。
「これは偶発ではない。“誰か”が意図的に、帝都に火種を撒いている。怪異を、媒介として」
(――怪異を使って、“記憶”そのものを操作しようとしている?)
その夜、一馬は夢を見た。
帝都の夜空に、黒い月が浮かんでいた。
その下を、無数の火影たちが行進していた。
仮面をつけたまま、誰にも見られることなく、記憶の中を彷徨うように。
そして、その中心に立つ、黒衣の男。
彼は、確かに一馬の名を呼び――告げた。
「幽世を開け。“黒禍”は、すでに扉の向こうにいる」
――目覚めると、一馬の手のひらには焦げた紙片が残されていた。
それは、あの夜に使ったはずの浄火符。
だが、そこに書かれた文字は、変質していた。
《幽界顕現》
その意味を、一馬はまだ知らない。
だが――確かに、この夜から、帝都の輪郭は変わり始めていた。