87 灯の下の影
ノクスとゼンドラングは、空の半分が橙色に染まった頃に戻ってきた。いわく、血痕などは見つからなかったが、ゼンドラングがわずかに血の臭いを拾ったらしい。
「あれは人の血だったな」
その言葉に、ヒワの内側は冷たくなった。しかし、当のゼンドラングは困ったように頬をかく。
「だが、これだけでは手がかりとしては弱いであろう?」
「そうですねえ。観光や研究目的で訪れた人が怪我をしただけ、という可能性もありますし」
男性陣と精霊人は冷静だった。明日は、今日得た情報を取っかかりとして、もう少し深く調査しようという話に落ち着いた。
夕食後、ヒワとエルメルアリアは客室に戻る。寝る支度を始めようとしたとき、部屋の扉が叩かれた。
「はい」
ノクスがわざわざ訪ねてくるとは考えづらい。コーエンだろうか、と思いながら、ヒワは扉を少しだけ開ける。
穏やかな表情の老婦人が立っていた。
「クラーラさん?」
「ヒワさん。お休みのところ、ごめんなさいね」
心底申し訳なさそうに、クラーラが言う。いえ、とヒワは扉をもう少しだけ開けた。
「どうされたんですか?」
「いえね。ヒワさんたち、何かを調べていらっしゃったでしょう? その話をジェイにしたら、『もしかしたら役に立てるかもしれない』と言い出したんですよ。それで、少し話がしたいそうです」
ヒワは目を丸くした。思いがけない展開に、頭がついていかない。返答に窮している間に、クラーラがにっこりと笑った。
「お茶代などはこちらで出しますから、老夫婦のお話に付き合っていただけませんか?」
――ヒワは、悩んだ。悩んだ末に、お誘いに乗ることにした。一応、荷物を持って出る。
『子供のふり』を延長することとなったエルメルアリアが、しかめっ面でヒワを見上げた。
「ほんとに行くのかよ?」
「うん。断るのも何だし……」
ささやきに、ささやきで返す。ヒワが眉を下げると、エルメルアリアは顔を背けた。
「やばそうだったら、ゼンに魔力飛ばすぞ」
「わかった。お願いね」
そんな内緒話をしながら、一階へ下りた。
〈精霊姫の歌声〉には食堂だけでなく、夕方から開いている喫茶店のようなお店もある。大人の客が多いため、ヒワとしては近寄りがたかった。クラーラがふたりを案内したのは、そんな店である。ジェイも、店内で待っていた。
「こんばんは、ヒワさん。突然呼び出してすみません」
「あ、いえ……」
ヒワは、勧められるままに座る。さりげないふうを装って、まわりを見た。彼女たち以外に客はいない。いつもなら、この時間でも二、三組ほどが談笑しているのだが。
首をかしげつつも、老夫婦と向かい合う。『お話』とやらは、他愛もない話から始まった。飲み物が運ばれてきたところで、ようやくジェイが本題を切り出す。
「さて、ヒワさん。クラーラから聞きました。奇妙な事件や魔物について、調べていらっしゃるとか」
「はい」
ヒワは、うなずく。一呼吸置いてから、尋ねた。
「何かご存知なんですか?」
「あなた方の求める情報を提供できるかどうかはわかりません。ですが、お役に立てるかもしれません」
ジェイは、自分の荷物から紙束を取り出した。
「実は、私たち夫婦が『不思議な話』を求めて旅をしているのは、半分趣味、半分仕事なんですよ」
「半分仕事……?」
ヒワは、そっと繰り返す。老夫婦が揃ってうなずいた。
話しを続けたのは、やはりジェイだ。
「指揮術の普及によって失われた『精霊との対話方法』を研究しているのです。民間伝承などが、その手掛かりになることが多いので、そういった話を集めているのですよ」
そのとき、ヒワの頭の中で、火花が散るような感覚があった。点と点がつながりそうな、もどかしさ。ひらめきの手前。だが、ひらめきには至らない。
ヒワはグラスに口をつけてから、再び夫婦を見た。
「そうして集めた話の中に、わたしたちが求める情報があるかもしれない、ってことですか」
「はい」
ジェイはにっこりとうなずく。わずかな間の後、「ですが」と言葉を継いだ。
「この情報は、誰にでもお話しできるものではないのです。お伝えするには、条件があります」
「条件?」
「私たちのお手伝いをしていただきたいのです」
店内は、空調がよく効いている。だというのに、周囲の空気が冷えたようだった。ヒワはテーブルの下で、バックパックに手を伸ばす。そうしながら、尋ねた。
「お手伝い、とは……具体的には、どういったものですか?」
これには、クラーラが答えた。
「こちらが指定した研究材料などを集めて、持ってきていただくだけです。材料も、難しいものは指定しません。ラヴェンデル近辺でも手に入るものばかりですよ」
「……わたしたちは、ずっとヒューゲルにいるわけじゃありませんよ?」
「そうでしょうね。ですから、お手伝いは滞在期間中だけで構いません。手伝っていただけるということでしたら、私たちが持っている情報をお教えします」
クラーラが、ちらと隣に目配せした。ジェイが持っている、紙束の方に。
ヒワは、わざと顔をうつむける。
二人の表情は穏やかだ。口調もやわらかく、ヒワたちに寄り添うような話し方をする。だが、その穏やかさに、優しさに寄りかかってしまったら、戻れなくなる。そう、彼女の直感が告げていた。
――今さら、かもしれない。本当は、お茶の誘いにも乗ってはいけなかった。しかし、後悔している暇はない。今からできることをやらなければ。
ヒワは、そろりと顔を上げた。
「……すみません。わたし一人の問題じゃないので、仲間たちにも相談させてください」
そう言うと、クラーラが眉を下げた。
「おすすめはしませんよ。その方々が『精霊との対話』なんて話をきちんと聞いて、冷静な判断をしてくださるとは思えません」
「大丈夫です。みなさん、理解のある方ですので」
なんなら、隣で黙りこくっている子は『精霊との対話』の第一人者だ。そう言いたくなったのをなんとかこらえて、ヒワは席を立った。バックパックを手に取って、エルメルアリアを抱き上げる。
「お話を聞かせてくださって、ありがとうございました。――あと、お茶代はやっぱり自分で払いますね」
逃げるように背を向ける。支払いをしにいこうとして――その場所に、店員の姿がないことに気づいた。
「しかたのない子」
声がかかる。今までの穏やかさが嘘のような、冷たい声が。
「――『そちら』を選ぶというのなら、礎になってもらうしかありませんね。ねえ、ジェイ?」
「そうだなあ。しかたない。ああ、しかたがない」
老夫婦が、笑う。
瞬間、エルメルアリアが、広げた手のひらに息を吹きかける。
魔力が舞った。それを感じると同時、ヒワは駆け出す。
扉に飛びつく。閉め切られていた扉は、すんなり前へ開いた。よろめくように外へ出たヒワは、凍りつく。
白いローブをまとった人々が立っていた。進路をふさぐように。あるいは、ヒワたちを取り囲むように。
ヒワは、一瞬迷って、無理やり通ろうとした。しかし、白いローブの人々は身を寄せ合って壁を作り、ヒワの体を押し戻し、まったく通してくれない。
エルメルアリアが身を乗り出した、そのとき。足音と声がする。
「さあ、どうなさいます? 彼らは丸腰ですよ」
クラーラの声。ヒワは、思わず固まった。老婦人がわざわざそんなことを言った意味が、理解できなかったのだ。しかし、腕の中のエルメルアリアは顔をしかめる。ヒワの腕を押しのけて飛翔した。色の移ろう瞳が、背後をにらむ。
「何が『精霊との対話』だ。笑わせる」
ヒワも、そっと振り返った。クラーラが半歩前へ出る。
「時には交渉も必要でしょう?」
「交渉? 脅迫の間違いだろ」
「ふふ、なんとでも仰って。――現にあなたは、彼らや私たちに攻撃することをためらっている。違いますか?」
エルメルアリアの顔が、わずかに引きつった。ヒワは驚いて、彼を見上げる。クラーラは、聞こえよがしに手を叩いた。
「そうですよねえ。天外界と天地内界、世界間の問題に発展しては困りますものね」
心臓が高鳴った。ヒワは、その音を確かに聞いた。
いつから、気づいていたのだろう。
「それだけじゃねえよ」
エルメルアリアは、ヒワにしか聞こえない声で吐き捨てる。それから、振り返った。
「ヒワ。杖は……置いてきたか?」
「あ、ううん。一応、荷物の中に」
ヒワは慌ててバックパックに手をかける。こんなことなら、いつものように装備しておくのだったか。いや、精霊指揮士の杖を見せびらかしていたら、後ろの老夫婦に警戒されていた可能性もある。顔をしかめたヒワに、しかし相棒は笑いかけた。
「よし。それなら、出しとけ」
それだけ言って、指揮者よろしく腕を振る。精霊たちが集い、場の魔力が高まった。エルメルアリアはその手を振り下ろそうとして――止まる。
ぱっと振り返った。赤と緑が混ざり合った瞳が、契約者を映す。
「――ヒワ、伏せろ!」
ヒワは立ちすくんだ。突然の指示に混乱して、体が動かない。寸暇をおかず、エルメルアリアが彼女の頭に飛びつく。
鈍い音がした。硬い岩が砕けるような音。
襲い来る衝撃で、ヒワの体は前へ傾いた。とっさに地面へ手をつく直前――エルメルアリアが跳ね飛ぶのを、見た。
「エラ!!」
小さな体が廊下の壁に叩きつけられる。絨毯の上に落ちて、それきりわずかも動かない。ヒワはたまらず駆け出した。フックス夫妻のことも、白いローブの人々のことも、頭から吹き飛んでいた。
揺らさないよう気をつけながら、エルメルアリアを抱き上げる。
息はあるが、気を失っている。
思考が凍る。視界がにじむ。奥底から押し寄せたまっ黒な恐怖が、ヒワを押しつぶそうとしていた。
「エラ……エラ! なんで――」
そのとき、笛のような音が耳を突く。熱が頬をかすめる。ヒワの目の前で、エルメルアリアの体が茫洋と輝きだした。精霊が泣き叫び、魔力を彼に渡しているのだ。
「おや。予定が変わってしまいました」
拍子を刻むように、靴音が響く。いつの間にか、ジェイがすぐ近くまで来ていた。どこに隠していたのだろう、鉄の棒を握っている。口角は上がっているが、瞳はまったく笑っていなかった。
「ジェイ、さん」
「すみませんね、ヒワさん。愛らしいお連れ様にこのような真似はしたくなかったのですが……あなた方のようなひとには、この方法が一番効くでしょう?」
ジェイは棒を投げ捨てた。
「『彼』をこれ以上傷つけたくなければ、私たちと一緒に来てください」
言うなり、エルメルアリアに向かって手を伸ばす。ヒワはとっさに後ずさりしたが、ほとんど意味をなさなかった。老人の指が白い首筋に触れた瞬間――ヒワの中で、何かが弾けた。
「――やめろっ!!」
ヒダカ語で、怒鳴る。
ジェイが目を丸くする。白いローブの群れがざわめく。どちらも、ヒワの瞳には映っていなかった。
「これ以上、エラに指一本でも触れてみろ! おまえらの腕を本気で噛んでやる! そんで指揮術暴発させてやる! 覚悟しろよ、この下郎!!」
思いついた端から言葉を口に出し、まくし立てる。白いローブの人々は、多少なりともひるんだようだ。フックス夫妻も呆気にとられていた。しかし、ヒワが次の行動をするより早く、ジェイの顔に冷静さが戻る。
「東の民か。世界は広くて狭いものだな」
アルクス語で呟くと、彼はヒワに顔を近づけた。鼻がくっつきそうなほどの距離で、ささやく。
「悪いが、かわいい脅しは通用しないよ。痛い目を見たくなければ、言うことを聞きなさい」
一転、ヒワの喉は凍りついた。まばたきもできず、見たくもない男の顔を見続ける。
ヒワがずるりとへたりこむと、ジェイも顔を離した。
「連れていきなさい。手荒な真似はしないように」
白いローブの人々へ、鋭く命令を飛ばす。命じられた彼らは、目覚めたように動き出した。
白色が視界を覆う。ヒワはただ、両腕に力を込めた。




