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春風のサーガ  作者: 蒼井七海
第六章 表と裏のフォーリン・トリップ
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87 灯の下の影

 ノクスとゼンドラングは、空の半分が橙色に染まった頃に戻ってきた。いわく、血痕などは見つからなかったが、ゼンドラングがわずかに血の臭いを拾ったらしい。


「あれは人の血だったな」


 その言葉に、ヒワの内側は冷たくなった。しかし、当のゼンドラングは困ったように頬をかく。


「だが、これだけでは手がかりとしては弱いであろう?」

「そうですねえ。観光や研究目的で訪れた人が怪我をしただけ、という可能性もありますし」


 男性陣と精霊人(スピリヤ)は冷静だった。明日は、今日得た情報を取っかかりとして、もう少し深く調査しようという話に落ち着いた。


 夕食後、ヒワとエルメルアリアは客室に戻る。寝る支度を始めようとしたとき、部屋の扉が叩かれた。


「はい」


 ノクスがわざわざ訪ねてくるとは考えづらい。コーエンだろうか、と思いながら、ヒワは扉を少しだけ開ける。


 穏やかな表情の老婦人が立っていた。


「クラーラさん?」

「ヒワさん。お休みのところ、ごめんなさいね」


 心底申し訳なさそうに、クラーラが言う。いえ、とヒワは扉をもう少しだけ開けた。


「どうされたんですか?」

「いえね。ヒワさんたち、何かを調べていらっしゃったでしょう? その話をジェイにしたら、『もしかしたら役に立てるかもしれない』と言い出したんですよ。それで、少し話がしたいそうです」


 ヒワは目を丸くした。思いがけない展開に、頭がついていかない。返答に窮している間に、クラーラがにっこりと笑った。


「お茶代などはこちらで出しますから、老夫婦のお話に付き合っていただけませんか?」


 ――ヒワは、悩んだ。悩んだ末に、お誘いに乗ることにした。一応、荷物を持って出る。

『子供のふり』を延長することとなったエルメルアリアが、しかめっ面でヒワを見上げた。


「ほんとに行くのかよ?」

「うん。断るのも何だし……」


 ささやきに、ささやきで返す。ヒワが眉を下げると、エルメルアリアは顔を背けた。


「やばそうだったら、ゼンに魔力飛ばすぞ」

「わかった。お願いね」


 そんな内緒話をしながら、一階へ下りた。


 〈精霊姫の歌声〉には食堂だけでなく、夕方から開いている喫茶店のようなお店もある。大人の客が多いため、ヒワとしては近寄りがたかった。クラーラがふたりを案内したのは、そんな店である。ジェイも、店内で待っていた。


「こんばんは、ヒワさん。突然呼び出してすみません」

「あ、いえ……」


 ヒワは、勧められるままに座る。さりげないふうを装って、まわりを見た。彼女たち以外に客はいない。いつもなら、この時間でも二、三組ほどが談笑しているのだが。


 首をかしげつつも、老夫婦と向かい合う。『お話』とやらは、他愛もない話から始まった。飲み物が運ばれてきたところで、ようやくジェイが本題を切り出す。


「さて、ヒワさん。クラーラから聞きました。奇妙な事件や魔物について、調べていらっしゃるとか」

「はい」


 ヒワは、うなずく。一呼吸置いてから、尋ねた。


「何かご存知なんですか?」

「あなた方の求める情報を提供できるかどうかはわかりません。ですが、お役に立てるかもしれません」


 ジェイは、自分の荷物から紙束を取り出した。


「実は、私たち夫婦が『不思議な話』を求めて旅をしているのは、半分趣味、半分仕事なんですよ」

「半分仕事……?」


 ヒワは、そっと繰り返す。老夫婦が揃ってうなずいた。

 話しを続けたのは、やはりジェイだ。


「指揮術の普及によって失われた『精霊との対話方法』を研究しているのです。民間伝承などが、その手掛かりになることが多いので、そういった話を集めているのですよ」


 そのとき、ヒワの頭の中で、火花が散るような感覚があった。点と点がつながりそうな、もどかしさ。ひらめきの手前。だが、ひらめきには至らない。


 ヒワはグラスに口をつけてから、再び夫婦を見た。


「そうして集めた話の中に、わたしたちが求める情報があるかもしれない、ってことですか」

「はい」


 ジェイはにっこりとうなずく。わずかなの後、「ですが」と言葉を継いだ。


「この情報は、誰にでもお話しできるものではないのです。お伝えするには、条件があります」

「条件?」

「私たちのお手伝いをしていただきたいのです」


 店内は、空調がよく効いている。だというのに、周囲の空気が冷えたようだった。ヒワはテーブルの下で、バックパックに手を伸ばす。そうしながら、尋ねた。


「お手伝い、とは……具体的には、どういったものですか?」


 これには、クラーラが答えた。


「こちらが指定した研究材料などを集めて、持ってきていただくだけです。材料も、難しいものは指定しません。ラヴェンデル近辺でも手に入るものばかりですよ」

「……わたしたちは、ずっとヒューゲルにいるわけじゃありませんよ?」

「そうでしょうね。ですから、お手伝いは滞在期間中だけで構いません。手伝っていただけるということでしたら、私たちが持っている情報をお教えします」


 クラーラが、ちらと隣に目配せした。ジェイが持っている、紙束の方に。


 ヒワは、わざと顔をうつむける。


 二人の表情は穏やかだ。口調もやわらかく、ヒワたちに寄り添うような話し方をする。だが、その穏やかさに、優しさに寄りかかってしまったら、戻れなくなる。そう、彼女の直感が告げていた。


 ――今さら、かもしれない。本当は、お茶の誘いにも乗ってはいけなかった。しかし、後悔している暇はない。今からできることをやらなければ。


 ヒワは、そろりと顔を上げた。


「……すみません。わたし一人の問題じゃないので、仲間たちにも相談させてください」


 そう言うと、クラーラが眉を下げた。


「おすすめはしませんよ。その方々が『精霊との対話』なんて話をきちんと聞いて、冷静な判断をしてくださるとは思えません」

「大丈夫です。みなさん、理解のある方ですので」


 なんなら、隣で黙りこくっている子は『精霊との対話』の第一人者だ。そう言いたくなったのをなんとかこらえて、ヒワは席を立った。バックパックを手に取って、エルメルアリアを抱き上げる。


「お話を聞かせてくださって、ありがとうございました。――あと、お茶代はやっぱり自分で払いますね」


 逃げるように背を向ける。支払いをしにいこうとして――その場所に、店員の姿がないことに気づいた。


「しかたのない子」


 声がかかる。今までの穏やかさが嘘のような、冷たい声が。


「――『そちら』を選ぶというのなら、(いしずえ)になってもらうしかありませんね。ねえ、ジェイ?」

「そうだなあ。しかたない。ああ、しかたがない」


 老夫婦が、笑う。


 瞬間、エルメルアリアが、広げた手のひらに息を吹きかける。


 魔力が舞った。それを感じると同時、ヒワは駆け出す。


 扉に飛びつく。閉め切られていた扉は、すんなり前へ開いた。よろめくように外へ出たヒワは、凍りつく。


 白いローブをまとった人々が立っていた。進路をふさぐように。あるいは、ヒワたちを取り囲むように。


 ヒワは、一瞬迷って、無理やり通ろうとした。しかし、白いローブの人々は身を寄せ合って壁を作り、ヒワの体を押し戻し、まったく通してくれない。


 エルメルアリアが身を乗り出した、そのとき。足音と声がする。


「さあ、どうなさいます? 彼らは丸腰ですよ」


 クラーラの声。ヒワは、思わず固まった。老婦人がわざわざそんなことを言った意味が、理解できなかったのだ。しかし、腕の中のエルメルアリアは顔をしかめる。ヒワの腕を押しのけて飛翔した。色の移ろう瞳が、背後をにらむ。


「何が『精霊との対話』だ。笑わせる」


 ヒワも、そっと振り返った。クラーラが半歩前へ出る。


「時には交渉も必要でしょう?」

「交渉? 脅迫の間違いだろ」

「ふふ、なんとでも仰って。――現にあなたは、彼らや私たちに攻撃することをためらっている。違いますか?」


 エルメルアリアの顔が、わずかに引きつった。ヒワは驚いて、彼を見上げる。クラーラは、聞こえよがしに手を叩いた。


「そうですよねえ。天外界と天地内界、世界間の問題に発展しては困りますものね」


 心臓が高鳴った。ヒワは、その音を確かに聞いた。


 いつから、気づいていたのだろう。


「それだけじゃねえよ」


 エルメルアリアは、ヒワにしか聞こえない声で吐き捨てる。それから、振り返った。


「ヒワ。杖は……置いてきたか?」

「あ、ううん。一応、荷物の中に」


 ヒワは慌ててバックパックに手をかける。こんなことなら、いつものように装備しておくのだったか。いや、精霊指揮士(コンダクター)の杖を見せびらかしていたら、後ろの老夫婦に警戒されていた可能性もある。顔をしかめたヒワに、しかし相棒は笑いかけた。


「よし。それなら、出しとけ」


 それだけ言って、指揮者よろしく腕を振る。精霊たちが集い、場の魔力が高まった。エルメルアリアはその手を振り下ろそうとして――止まる。


 ぱっと振り返った。赤と緑が混ざり合った瞳が、契約者を映す。


「――ヒワ、伏せろ!」


 ヒワは立ちすくんだ。突然の指示に混乱して、体が動かない。寸暇をおかず、エルメルアリアが彼女の頭に飛びつく。


 鈍い音がした。硬い岩が砕けるような音。


 襲い来る衝撃で、ヒワの体は前へ傾いた。とっさに地面へ手をつく直前――エルメルアリアが跳ね飛ぶのを、見た。


「エラ!!」


 小さな体が廊下の壁に叩きつけられる。絨毯の上に落ちて、それきりわずかも動かない。ヒワはたまらず駆け出した。フックス夫妻のことも、白いローブの人々のことも、頭から吹き飛んでいた。


 揺らさないよう気をつけながら、エルメルアリアを抱き上げる。

 息はあるが、気を失っている。


 思考が凍る。視界がにじむ。奥底から押し寄せたまっ黒な恐怖が、ヒワを押しつぶそうとしていた。


「エラ……エラ! なんで――」


 そのとき、笛のような音が耳を突く。熱が頬をかすめる。ヒワの目の前で、エルメルアリアの体が茫洋と輝きだした。精霊が泣き叫び、魔力を彼に渡しているのだ。


「おや。予定が変わってしまいました」


 拍子を刻むように、靴音が響く。いつの間にか、ジェイがすぐ近くまで来ていた。どこに隠していたのだろう、鉄の棒を握っている。口角は上がっているが、瞳はまったく笑っていなかった。


「ジェイ、さん」

「すみませんね、ヒワさん。愛らしいお連れ様にこのような真似はしたくなかったのですが……あなた方のようなひとには、この方法が一番効くでしょう?」


 ジェイは棒を投げ捨てた。


「『彼』をこれ以上傷つけたくなければ、私たちと一緒に来てください」


 言うなり、エルメルアリアに向かって手を伸ばす。ヒワはとっさに後ずさりしたが、ほとんど意味をなさなかった。老人の指が白い首筋に触れた瞬間――ヒワの中で、何かが弾けた。


「――やめろっ!!」


 ヒダカ語で、怒鳴る。


 ジェイが目を丸くする。白いローブの群れがざわめく。どちらも、ヒワの瞳には映っていなかった。


「これ以上、エラに指一本でも触れてみろ! おまえらの腕を本気で噛んでやる! そんで指揮術暴発させてやる! 覚悟しろよ、この下郎!!」


 思いついた端から言葉を口に出し、まくし立てる。白いローブの人々は、多少なりともひるんだようだ。フックス夫妻も呆気にとられていた。しかし、ヒワが次の行動をするより早く、ジェイの顔に冷静さが戻る。


「東の(たみ)か。世界は広くて狭いものだな」


 アルクス語で呟くと、彼はヒワに顔を近づけた。鼻がくっつきそうなほどの距離で、ささやく。


「悪いが、かわいい脅しは通用しないよ。痛い目を見たくなければ、言うことを聞きなさい」


 一転、ヒワの喉は凍りついた。まばたきもできず、見たくもない男の顔を見続ける。


 ヒワがずるりとへたりこむと、ジェイも顔を離した。


「連れていきなさい。手荒な真似はしないように」


 白いローブの人々へ、鋭く命令を飛ばす。命じられた彼らは、目覚めたように動き出した。


 白色が視界を覆う。ヒワはただ、両腕に力を込めた。

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