9 嫌なやつ
ヒワは、エルメルアリアの姿だけを見ていた。
周囲に狐以外の魔物が集まってきていることにも、振り返った彼が目を剥いたことにも――口を開きかけたことにも、気づかなかった。
無我夢中で前へ出て、小さな体に体当たりをかます。炎をまとった狐が飛びかかってくると同時、二人揃ってごつごつとした地面を転がった。黒い火の粉が二人の真上を通り過ぎ、少女の黒髪の先を少し焦がす。
「いっ……たぁ……」
岩場に打ち付けた体の痛みに耐えて、ヒワは起き上がろうとした。しかし、その前に精霊人が彼女の下から抜け出す。彼が気合の声とともに放った風が、黒い炎をまとった狐を周囲の魔物もろとも吹き飛ばした。
「あ、ありがと――」
「いいから、じっとしてろよ!」
エルメルアリアは、ヒワのお礼を怒声でさえぎった。彼女が固まっているうちに飛び出して、次々と魔物を薙ぎ払った。心なしか、攻撃が先ほどまでより荒々しい。
さすがに魔物の群れは数を減らしていた。強い精霊人への恐れが出てきたのか、逃げ出そうとする個体もいる。エルメルアリアは、それらすべてを容赦なく仕留めた。最後の一体、鹿と狼を混ぜたような魔物に無数の竜巻をぶつけて気絶させると、彼はその場で『門』を開いた。
「――魔の者どもを彼方へ還したまえ」
エルメルアリアがことばとともに手を叩くと、大量の魔物たちが崩れて光となり、門の向こうへ吸い込まれていく。彼らもまた、天外界に還されたのだ。
門が消え、ようやく周辺に敵の気配がなくなると、エルメルアリアは疲れた表情でヒワの方へ戻った。彼女が口を開こうとしたとき、その額を力いっぱい叩く。
「っだぁ!」
先ほどとは質の違う悲鳴が渓谷にこだました。額を押さえたヒワは、目をすがめて精霊人を見上げる。一方、その精霊人も目尻をつり上げていた。
「こんの馬鹿! なに自分から魔物の群れに飛び込んできてんだ、死ぬ気か!」
「だ、だって。きみの後ろに魔物が――」
「気づいてたに決まってんだろ! 余計なことすんな!」
「よ、余計なことって」
続きの言葉に詰まったヒワは、唇を震わせる。そんな彼女を見下ろして、エルメルアリアがあからさまにため息をついた。
「素人なら素人なりに自分の身を守れよ。それができないんなら動くな。それか帰れ」
彼の言葉は、内容だけ切り取れば正論である。ヒワも、そのことはわかっていた。しかし、かっと湧き上がってきた怒りが、理性や罪悪感を押しのける。
「――んだよ、それ」
本人も気づかないうちに拳を握っていた。感情の制御を忘れ、相手をにらみつけていた。
「助けようとしたのに、そんな言い方ないよ!」
金切り声が、立ち並ぶ岩の間に響き渡る。エルメルアリアは一瞬目をみはったが、すぐに剣呑な顔で少女をにらみかえした。
「助けてほしいなんて頼んだ覚えはない。できもしない、頼んでもいないことを自分からやっといて怒鳴るな」
「――最っ低!」
ヒワは先ほどより一段高い声で叫ぶ。なぜ自分がこれほどいら立っているのか理解できないまま、小さな少年に目を向けた。
「もういい。〈穴〉探しは一人でやる。見つけても教えてなんかやらないから」
「はあ? 一人で見つけたってあんたじゃどうにも――」
「うるさい」
エルメルアリアの言葉をさえぎって、大股で歩き出す。その後聞こえてきた声も、すべて無視した。
※
「もう、なんなのあいつ! なんなのあいつ! あったまくる!」
沸騰した水のように湧きあがる怒りを吐き出しながら、ヒワは渓谷沿いを進んでいる。憎たらしい精霊人に追いつかれたくないがためにわざわざ走っていた。体力を消耗するだけだということはわかっていたが、今は胸中の熱に突き動かされている。
「自分がなんでもできるからって偉ぶっていいわけじゃないっつーの! 契約? 冗談じゃない!」
思い浮かんだことをそのまま吐き出しながら、いくつかの岩をまたいで越える。それを繰り返しているうち、だんだんと歩みが遅くなり、しまいには立ち止まった。
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。にじんだ汗を拳でぬぐったヒワは、肩を落とした。
「……なに、してんだろ。わたし」
本当なら、今日は普通の休日のはずだった。宿題を片付けて、家の近くを散歩するか家でごろごろしながら本でも読むか、先日会えなかった友人に会うか。そんな、なんでもない時間を過ごしていたはずだった。
しかし、現実は奇妙で、残酷だ。ヒワは今、名前しか知らなかった渓谷沿いの岩場で、孤独に怒りを吐き出している。傍から見ればひどく幼稚で、八つ当たり的な怒りだということも自覚していた。それが余計に、彼女の心を空虚にする。
雷雲のような不安が押し寄せる。それをごまかそうと、足を前に出す。突き出した岩を避けて進む。しかし、怒りという爆発的な力がなくなってしまった今となっては、その動きは重たく、頼りなかった。
にじんだ涙をぬぐって顔を上げる。せめて格好だけでも前向きにと思ったからなのだが、その決意も長続きしなかった。突然吐き気がこみ上げてきたのである。
「……嫌な感じ」
胸をさすりながら呟いたヒワは歩いていた。無意識のことだった。
「何か、こっちから流れてくる、ような」
きょろきょろとあたりを見回しながら歩くこと、しばし。ヒワはふと思い立って、渓谷をのぞきこんだ。
「……谷の方?」
しかし、谷底を凝視しても、変わったものは見つからない。川の跡であろう筋が延々と続いているだけだ。
ヒワがため息をつくと同時、遠くから濁った悲鳴のような音がする。肩を震わせたヒワは、反射的にかがみこんだ。何も襲ってこないとわかると、恐る恐る立ち上がる。
「そうだ、今は魔物がうじゃうじゃいるんだった」
しかも、無力な少女を守ってくれる精霊人はいない。自分から突き放したからだ。その事実が、また彼女の心を沈ませた。「ほんとに、何やってんだろ」と呟いて、とぼとぼ歩みを再開する。
そのとき、視界が急に暗くなった。
ヒワは、怪訝に思って上を見た。――次の時、その顔が凍りつく。
彼女の背丈の一・五倍はあるであろう巨大な山羊が、じっと彼女を見下ろしている。どこからどう見ても、そこらで飼われている山羊ではない。緑の体毛に覆われ、目は不気味な色の光を放っていて、挙句、わずかに開いた口からは紫色の涎らしきものが滴っていた。
いつの間に出てきたのだろう。そんな当然の疑問はしかし、一瞬で吹き飛んだ。
山羊の魔物が荒々しく鼻を鳴らす。木よりも太い前足が、緩慢に持ち上げられた。
ヒワは考えるより先に走り出す。耳元で、ぶおっ、と低い音がした直後、轟音とともに地面が揺れた。よろめき転んだヒワは、無理やり立ち上がって走り出す。
山羊はすぐに追ってきた。両目を怒りと興奮に細め、何度も威嚇の声を上げて。ヒワは山羊の表情をうかがう余裕などないが、その絶叫と地鳴りのような足音だけはしっかりと聞こえている。
「やああああ! 何こいつうううう!」
少し前の愚痴と似たような言葉を、そのときとは全く違う声色で奏でながら、ヒワは全力疾走した。しかし、単純なかけっこで人間が魔物にかなうはずもない。あっという間に両者の距離は縮まった。
足音と鼻息、そして巨体の圧を背中に感じ、ヒワはか細い悲鳴をこぼす。無我夢中で岩陰に身を隠したが、それでも山羊は追ってきた。さらに、背後から別の獣の声がする。金属音や機械音が混ざったような独特の音は、彼女をあざ笑うかのように、遠ざかったり近づいたりを繰り返した。
山羊の顔が間近に迫る。死を覚悟した。それでも、すべてをあきらめたわけではなかった。一歩一歩、ゆっくりと下がりながら、鞄に手を伸ばす。昨日姉に好奇の目を向けられながら準備した『秘密兵器』が、こんな形で役に立とうとは。
ヒワは、必死に悲鳴をのみこんで後退する。魔物と己の距離をはかっている、つもりだった。しかし、何歩目かで唐突に地面がなくなった。
「――え」
いや、違う。自分が宙に浮いたのだ。そうと気づいたときには、ヒワの体は渓谷の下へと投げ出されていた。