75 迫る闇(2)
〈穴〉の名残も消えた後。ヘルミたちは周辺を見てまわった。魔物の残党の送還ついでに、リリアレフィルネの言う『痕跡』を探すためだ。しかし、精霊人たちから見ても、目新しいものはなかった。
「ヘルミー。そろそろ制限かけていいよー」
リリアレフィルネが宙返りしながら手を振る。「了解」と笑ったヘルミは、軽く杖を振った。
「『イリュ・ドゥーテ・クランダル・カータラ』」
あっさりした詠唱を紡ぐ。と、魔力が少し薄らいだ。リリアレフィルネは一瞬目を閉じた後、柔軟体操のような動きをする。
「……なあ、いつまでここにいんだよ。何も見つからねえじゃねえか」
「魔力の質も濃度も変わらんしなあ」
岩や地面を観察していたノクスたちが、ぼやく。それを聞いて、ヘルミも苦々しく髪をいじくった。
「そうだねえ。今日のところは、これで切り上げるか。進展があったんだかなかったんだかわからないけど……」
彼女の言葉に、それぞれがうなずいたり、返事をしたりする。
人間たちが踵を返した、そのとき。
臓腑を凍らせるような寒気が駆け抜けた。
誰もがつかの間、固まる。いち早く動いたのはヘルミだった。とっさに振り返った彼女は、ノクスの方へ杖を向ける。
「『ミーレル・シルーリャ』!」
青年の背後で白い閃光が弾けた。闇色の泥のようなものが飛び散り、塵となって消える。狙われていた彼は、背中を押されたように飛びのいて、並び立つ岩から距離を取る。ヘルミは彼の元へ駆け寄って、いっとう大きな岩へ杖を向けた。
「――誰だ」
確信を持って、問う。ねっとりとした、昏い魔力を肌で感じながら。
応えはない。それでも気は抜けない。ヘルミは杖を構えたまま、精霊人たちの様子をうかがった。二人とも驚いた様子で岩の方を見ている。ゼンドラングの頬に汗が伝った。
漂う魔力は強大だ。なのに、魔力や精霊のささやきに敏感な彼らが、今の今まで気づかなかった。当然、契約者たちもだ。
恐ろしい予感にヘルミが身震いしたとき。
岩陰から、闇がにじみ出してきた。
それはあっという間に人の形を取り、歩み寄ってくる。――いや、実際は最初から『人』だった。だが、この場の者たちには、闇が形を成したようにしか思えなかった。
「あーあ。また見つかっちった。〈白百合の舞姫〉に制限かかったのが嬉しすぎて、ちょーっと油断しちゃったよ」
陽気な声。饒舌だ。なのに、周囲の空気は冷えるばかり。
その『人』は、ひたひたと歩き、ヘルミの前で止まった。黒い瞳が彼女の顔をのぞきこむ。舐め回すような視線に対し、彼女は何も反応できなかった。
「面倒そうな奴から仕留めるつもりだったけど、まあいいや。予定変更だ。美人の死体を独り占めするのも、悪くない」
不気味なほどに白い手が、伸びる。
彼女の口から、苦悶の声が漏れた。
息が止まる。すべてが冷える。心臓をえぐられる。痛みはない。
死んだ。
ただ、そう認識した。
「――ヘルミ!!」
甲高い悲鳴が響く。瞬間、ヘルミは息を吸った。
呼吸ができる。血は温かい。そう認識した瞬間、体の感覚が戻ってきた。
とっさに足を振り上げる。敵をわずかに押しのけると同時、杖を突きだした。
「『フリヤール・ゼスタ』!」
無我夢中で詠唱する。凍てつく刃が、闇色の人に殺到した。彼は漆黒の目を見開いて、腕で顔をかばう。乱れのない足取りで数歩下がると、子供のように嗤った。
「馬鹿だねえ。こんな至近距離でそんな術を撃つなんて。ごらんよ、僕に一撃も入らなかったのに、自分はひどい有様だ」
長く伸びた爪が、前に出る。ヘルミは言われて初めて、焼け付くような痛みを覚えた。右腕から胸の周辺にかけて、衣服が不規則に裂けて、爪痕のような裂傷が走っている。大量の汗と一緒に、血がしたたり落ちた。
呼吸が荒い。脈が速い。拍動するごとに、血が抜けていっているようで。ヘルミはふらついた。そのまま倒れなかったのが奇跡だった。
「貴様っ!!」
激したリリアレフィルネが躍り出る。魔力が急速に熱を帯び、虹色の光線が敵を狙った。彼は「おっと」と呟いて飛びのく。着地の瞬間、その足もとが勢いよく盛り上がった。――いつも陽気なゼンドラングが、今は無言で相手をにらみつけている。彼の隣で、黄色い輝きが弾けた。
「『フラーネ』!」
怒号に等しい詠唱。そして生まれた炎は、精霊指揮士の胸中を表しているかのようだった。火炎を前に、闇色の人は「おおー」とのん気な歓声を上げる。彼が手を振ると、炎が消えた。
「なっ――」
「やれやれ。本気の同胞二人が相手じゃ分が悪い。今日のところは撤退、撤退、っと」
言うなり、闇色の人は手を叩く。すると、盛り上がった岩土が砕けた。彼は俊敏に一行から距離を取ると、けたけた笑いながら文字通り飛んでいく。
ノクスがとっさに踏み出した。
「てめえ! 逃がすか――」
「待て、ノクス」
飛び出しかけた彼を、大きな手が止めた。ノクスは、肩をつかんできた契約相手をにらみつける。にらまれた側は、静かな表情で首を振った。
「追うな。あれはあまりに危険だ」
ノクスは怒りに任せて口を開く。しかし、彼が何かを言う前に、ゼンドラングの「それに」という声が続いた。太い指が斜め前を示す。
そこには、杖を持ったままへたり込んだ女性と、彼女の右腕をのぞきこむ精霊人の姿があった。
「あの状態のヘルミを置いてはゆけぬだろう」
ノクスは声を詰まらせる。くしゃりと顔を歪めて、かたい地面を蹴りつけた。
一方、ヘルミはうつろな目で地面を見ていた。謎の人物が去ってすぐ、リリアレフィルネが飛んできて、裂傷だらけの体を治してくれた。しかし、自分を包み込んだ柔らかな光も、みるみるうちに傷がふさがった腕も、彼女には見えていなかった。
焦点が定まらない。体に空気が入ってこない。汗ばかりが吹き出して、衣服と岩を湿らせる。
小さな手が、震える背中をさする。ヘルミは口を動かそうとした。ありがとう、大丈夫だと伝えたかった。けれど、声は出ない。ひきつった音と空気が漏れ出るだけだ。
「『フィエルタ・アーハ』」
不機嫌そうな、けれど静かな声が落ちる。
杖を構えた青年が、ヘルミたちの周囲に結界を張っていた。彼は、隣の大男に目配せする。
「怪しいのが来たらぶっ飛ばすぞ、ゼン。内界の魔物だろうがなんだろうが、構うな」
「おうよ、任せておけ!」
契約者の呼びかけに、ゼンドラングは陽気に応じた。
どれほど、そうしていただろう。幸い派手な襲撃などはなく、安寧の時が流れた。ようやく、ヘルミの錯乱状態も落ち着いてくる。呼吸も冷や汗も、謎の人物と相対した直後よりはいくぶんかましだ。
「……ごめん、みんな。最後の最後で、足引っ張った」
ヘルミはかすれ声を絞り出す。未だ動悸がしていて、胸が痛い。それでも、これだけは言っておかねばならないと思った。
謝罪を向けられた三人は、劇的な反応をしなかった。リリアレフィルネが、契約者の肩を抱く。
「謝ることじゃないよ」
「そうだな。あれに目をつけられて、命があるだけ大したものだ」
「――ちょっとゼン、その言い方はかえって不穏じゃない?」
リリアレフィルネが同胞をじろりとにらむ。ゼンドラングは「すまん、すまん」と言いつつ豪快に笑っていた。
相変わらずな精霊人たちを、ノクスが一瞥する。彼はそのまま身をひるがえし、ヘルミの隣まで歩いた。そこへ、どっかりと腰かける。
「……俺は、さっき、動けなかった」
低い声がささやいた。ヘルミは、どうにか顔だけを彼に向ける。
「動いたら殺される、って思った。だから、ゼンたちが動き出すまで何もできなかった。……けど、おまえは違った。あの状況で術を撃てるのは、すげえよ」
そっぽを向いて語るノクスは、これまでで一番穏やかな表情をしていた。ヘルミはそれを見て、無理やり口角を上げる。
「なあに、ノクス? 慰めてくれてるの?」
「慰めなもんか。……褒めてんだよ、心から」
ぶっきらぼうな返答に、ヘルミは軽く目をみはる。胸のあたりに手をやりつつも、かすかな笑声を立てた。
「なかなかどうして、嬉しいもんだね」
青年は、しかめっ面で鼻を鳴らした。




