74 指揮術の理想形
ヘルミは最初、偶然かと思っていた。だが、違う。初戦で感じた驚きと違和感は、偶然でも気のせいでもなかった。
「『レヴレム』!」
叫ぶと同時、ノクスは杖を振り上げる。今度は二条の雷が落ちて、異端の獣の群れを撃つ。運よく雷から逃れたものたちが、怒りを全身にたぎらせて殺到した。ノクスはさざ波ほどの動揺も見せない。
細い音を立てて、杖が風を切る。
「『カルヤ』『ルフ』!」
ごく小規模の吹雪が来る。魔物たちは、青年に食らいつく前に、白い風にのみこまれた。
ヘルミは、自分に群がってくる魔物たちを淡々と仕留めながら、それを観察している。まだら模様の熊たちを氷漬けにしたところへ、甘い香りをまとった精霊人がやってきた。
「〈銀星の塔〉の名の下に、権限を行使する。門よ開け、魔の者どもを彼方へ還したまえ」
冷ややかなことばに門が応える。
リリアレフィルネは、送還を終えると、契約者のもとに舞い下りた。
「何考えてるか、当ててあげようか。彼の詠唱が気になってるんでしょ」
「……ご名答」
ヘルミは軽く肩をすくめる。
間もなく、ノクスたちの方も静かになった。サウナを満喫した後のように額をぬぐっているゼンドラングに、ノクスが湿っぽい視線を注いでいる。
ヘルミは「お疲れ様」と二人を労ってから、青年の方を見た。
「ところで、ノクス。あの詠唱でよく術が暴発しないね」
「あ? 暴発?」
ノクスはわかりやすく眉をしかめた。が、すぐにヘルミの言いたいことを察したようだ。杖を手元で回しながら、口を開いた。
「ガキの頃はしょっちゅうしてたけどな。今はさすがに加減できる」
「加減って……そう簡単にできることじゃないよ」
ヘルミが頬を引きつらせていると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「んだよ。馬鹿にしてんのか?」
「いや、むしろ褒めてる。心から」
真剣な声音で返すと、青年の眉間のしわが少し薄くなる。
目を泳がせたノクスは、重く黙り込んでしまった。他の三人に背を向けて、大股で歩き出す。
ヘルミは、精霊人たちと目を合わせる。それから、青年を追って歩き出した。
――詠唱は簡潔に。細かい指示は、杖の動きとイメージで。指揮術の基本だ。だがそれは、「言うのは容易いが実行するのは難しい」ことでもある。
例えば、『雷』一語だけでは、雷雲を呼んで雷を落とすのか、杖の先に雷の力を集めて放つのかが判然としない。さらに、威力や規模も精霊たちに伝わりづらい。
それを補うのが、杖による指示と、精霊指揮士の想像力だが、精霊の声を直接聞くことが叶わない人間には限界がある。だから詠唱に形容詞をつけたり、短文にしたりして術を安定させるのだ。
一方ノクスは、そういった工夫を捨てている。詠唱は最低限、あとは杖の動きと己の想像だけで魔力を動かし、術にする。基礎を極めに極めたやり方だった。ある意味、指揮術の理想形である。
ヘルミのような精霊指揮士から見れば、誇るべき才能だ。だが、本人の感じ方はまた違うのかもしれない。
髪のひと房を指ですくい、後ろに払う。それからヘルミは歩幅を広げた。青年に追いつくと、努めて穏やかに声をかける。
「ノクス。気分を害したなら謝るよ」
榛色の瞳がちらと動いた。唇が小さく開く。
「そんなんじゃねえ。ババアに褒められたのが気色悪かっただけだ」
「……言うねえ坊ちゃん。気を遣って損した」
ヘルミは一転、眉をひそめた。青年の背中を思いっきり叩く。「いって!」という叫びを無視して、彼の隣に並ぶ。
「ほーら構えて。次のお客様がお見えになったよ」
「てめえに言われなくてもわかってら」
杖を掲げたヘルミをにらんで、彼も倣う。二人の人間は、精霊人たちが生温かい視線を注いでいることに気づかない。
どんよりとした魔力が揺らめく。リリアレフィルネの尖った耳が、わずかに動いた。
人々が見つめた道の先から現れたのは――イタチか狸のような動物だった。
「……あ?」
ノクスがひっくり返った声を出す。彼の後ろで、ゼンドラングが目陰をさした。
「あれは――イタチか?」
「半分正解。イタチの仲間、クズリだね。このあたりにはよくいる」
「ということは、野生の獣か?」
野太い声を聞きながら、ヘルミはクズリを観察する。近くの針葉樹林から出てきたのだろうか――その考えを、精霊指揮士の直感が否定した。
「みんな、構えを解かないでよ」
「うん。こいつは――」
リリアレフィルネが飛んできて、契約者を守るように立つ。
その、次の瞬間。
クズリの体毛の色が変化した。茶色を基調としたものから、青を基調としたものへ。さらに、両目が茫洋とした光を帯びる。魔力をまとった冷気が、靄のようにクズリのまわりを漂った。
天地の魔力が躍る。精霊たちはご機嫌なようだ。ヘルミは舌打ちしたいのを堪えて、片手を防寒着のポケットに突っ込んだ。かたわらで、ノクスもいらだたしげに杖を握りしめている。
「なんだよこれ。魔物じゃねえか」
「高度な擬態だね。これだから、『ヒョウケツクズリ』は厄介なんだよ」
言いながら、ヘルミはポケットから物を引っ張り出す。そして、それをクズリに見せつけるように掲げた。
「ほーれ。氷の森へお帰りよ」
手の中にあるのは、黒々とした金属の板だ。表面には古いオタヴァ語と、防御結界を示す幾何学模様が彫られている。
青いクズリが、びくりと全身を震わせた。一方、何も知らないノクスとゼンドラングは怪訝そうにそれを見る。
「……なんだそれ?」
ヘルミは口角を上げて、青年を見た。
「『氷の森へ行くときは、鉄鋼の護符を忘れるな』――ってね」
「本当にそんなもんでアレが退散すんのかよ?」
刺々しい視線の先では、今なおクズリが震えている。護符を――それから、もしかしたら精霊人も――警戒しているのは間違いない。正常なヒョウケツクズリなら、これで人間側が背中を見せなければ、そのうち諦めて逃げていく。
が、今回はそうならなかった。
クズリが牙をむき出しにする。滅茶苦茶な弦楽器の演奏のような音が、その場に響いた。顔をしかめたゼンドラングが拳を打ち合わせる。
「内界の魔物だ。戦わずに済めばそれでよし、と思っておったが……そうはいかぬか」
「まあまあ。もうちょっと待って、ゼンさん」
臨戦態勢に入ったゼンドラングを、ヘルミは手と護符で制する。もう一方の手で杖を振った。
「『ヤーナ・ヤーナ・スピルード』『アールム・ファーゼム・アールム・ファーゼム』」
詠唱が終わると同時、護符が淡く光り出す。目をみはっている男たちをよそに、ヘルミはそれを持つ手を振り上げた。
「鉄鋼の護符はね――こうやって使うんだよ!」
叫びとともに、護符を投げた。鉄鋼の板は、彼女とクズリの間の地面に叩きつけられる。その瞬間、光があふれ、けたたましい音を立てて護符が砕け散った。
凄まじい勢いで金属片が飛び散る。それをまともに浴びたクズリは、魔物特有の悲鳴をまき散らしながら逃げ出した。
ふさふさの尾が遠ざかる頃、光も収まる。後に残されたのは護符の破片とやり切った表情の女性が一人。そして、呆然としている他の面々だった。
「……人間は面白いものを作るな」
ゼンドラングがうめくように言う。ヘルミは笑声を立てた。
「ぜひ、アタシらのご先祖様に言ってあげて。あと、護符の破片回収するから、ちょっと待ってて」
我に返ったノクスが、気だるげに体を揺する。
「回収すんのか」
「当然。護符の後始末も精霊指揮士の仕事だよ」
言って、ヘルミは目に見える範囲の破片を集めはじめた。
その後ろで、精霊人たちが話し出す。
「リリよ。怖い顔をして、どうした?」
「……ゼン。あのクズリが出てきたくらいから、魔力の質が変わってない?」
「ふむ。……言われてみれば、ちと臭い気はするな。〈穴〉の影響か?」
「それを加味しても、何か変だ。ヒョウケツクズリの様子も普通じゃなかったし」
ヘルミは黙々と破片を集め、護符が入っていた袋へ戻していく。そうしながらも、二人の会話を聞き逃さなかった。
さて、あとは――と小さく呟いて、上半身を起こす。そのとき「おい」と声がかかる。背後にノクスが立っていた。
「これでいいのか?」
彼はぶっきらぼうに言って、右手を広げる。手袋に覆われた手のひらには、金属片の山が乗っていた。
ヘルミは思わずまばたきして、金属片と青年の顔を見比べる。
「手伝ってくれたの? 休んでてよかったのに」
「――精霊指揮士の仕事なんだろ」
答える声は小さい。しかし、対面の女性の耳にはしっかり届いていた。
「ありがと。助かったよ」
ヘルミはほほ笑んで感謝を述べる。ノクスの手から破片を受け取り、護符の袋へ戻した。
「さて。人の手で回収できる分は、あらかた拾ったかな。それじゃあ――」
袋の口を閉めて荷物へねじ込むと、次は手帳とペンを取り出す。そして、周囲の魔力を探っている相棒を振り返った。
「リリ。さっきの魔力の話、詳しく聞かせて」
リリアレフィルネは、弾かれたように顔を上げる。それから「了解」とあでやかに笑った。




