8 モルテ・テステ渓谷
翌日から二日間、ヒワはいつものように学校へ行った。シルヴィーにはひどく心配されたが、詳しい話をしたら余計心配されそうなので、笑ってごまかした。彼女が学生の務めを果たしている間、エルメルアリアはジラソーレやその周辺を下見して回ったり、情報を集めたりした。
もちろん、時間を見つけて二人で打ち合わせもした。常に飛んでいる小さな少年を誰かに見られては騒ぎになるので、ヒワの家族や知り合いに見つからないよう、細心の注意を払わなければならなかった。
「そういえば、近場の〈穴〉ってどこにあるの?」
出発前日の夕方。荷造りのため大きめの鞄を引っ張り出したヒワは、それをながめているエルメルアリアを振り返る。窓辺に腰かけている彼は、顎に細い指を引っかけた。
「ああ。一番近いとこだと、モルテ・テステ渓谷のあたりだな」
「へー……って」
軽く受け流しかけたヒワはしかし、顔を引きつらせる。
「めちゃめちゃ遠いじゃん! 片道三時間かかるんですけど!?」
明日中に帰れるだろうか、と頭を抱えるヒワをよそに、エルメルアリアはのん気な態度で続ける。
「心配すんなよ。移動だけなら一瞬で済むから」
「どういうこと? ……何する気?」
嫌な予感がする。ヒワが頭を抱えたまま問うと、エルメルアリアは得意げに顎を反らした。
「そんなの――飛ぶに決まってんだろ?」
※
「なんとなくそんな気はしてたけど! これは無茶だって!」
翌朝。澄み渡った朝の空に、ヒワの絶叫が響き渡る。
彼女は今、空を飛んでいた。もちろん、エルメルアリアの力によって、である。契約者を空へ導いた精霊人は、彼女の手を引いて前を飛んでいた。
「手ぇ離すなよー。天外界ほど融通きかねえからな」
「落ちるってことね! 了解!」
やけ気味に叫んだヒワは、繋いだ手に力を込める。エルメルアリアの小さな片手が唯一の命綱だ。
「よーし。出力は安定してるな。精霊の機嫌も上々」
そのエルメルアリアは自分の体と周囲の様子を確かめて、楽しそうに呟く。青白い顔の契約者を振り返って、告げた。
「このままモルテ・テステに飛ばすぞ。口閉じてろ」
「え――」
ヒワが確認を取るよりも先に、エルメルアリアが宙を蹴る。二人は一気に加速した。近くを飛んでいた鳶が、驚いて逃げていく。ヒワは飛び出しかけた悲鳴をこらえて、必死に口を結んでいた。
数分後、二人は南方の渓谷を見下ろしていた。深い谷の岩壁や底には茶色い筋が走っていて、周囲には人の頭ほどの大きさの岩がいくつもそそり立っている。その奇岩地帯のさらに外側には、森が広がっていた。
「おおー。こりゃなかなか、おもしろい眺めだな」
悠々と地上の風景を楽しんでいるエルメルアリアの横で、ヒワはぜえぜえと息をしていた。肺が破れそうだったが、止まってしばらくそうしていると、なんとか呼吸も落ち着いてくる。
「この渓谷のどこかに……〈穴〉が、あるってこと……?」
「〈塔〉の観測結果を信じるならそうなるな。とりあえず、地上に下りるか」
ヒワが息継ぎしながら問うと、エルメルアリアはちらと目配せしてくる。ヒワの手を握ったまま、ゆっくりと下りはじめた。ぐるりと地上を見回し、奇岩地帯の中にひらけた場所を見つけると、そこへ向かって空を蹴る。
たっぷり十分使って着地すると、ヒワは一度背負っていた鞄を下ろし、荷物を確かめた。点検を終え、水分補給も済ませた彼女が鞄を背負ったところで、再び飛んでいたエルメルアリアが下りてきた。
「こっからずっと西に行ったところに、妙な魔力反応がある。オレが見た穴の気配と似てるから、多分あたりだろうな」
「わかった。じゃあ、その魔力を追いかけてみようか」
ヒワは何気なく答えて、すぐ頬を引きつらせる。
「……って言っても、魔力を追うのはきみ任せになるけど」
「そりゃ精霊指揮士と契約してても同じことだ。この天才・エルメルアリア様に任せとけ!」
少年は胸を張って、小さな拳で叩く。ヒワはそんな精霊人をほほ笑ましく見上げると「よろしく」と手を合わせた。
連れだって歩き出す。岩だらけのこの地は、見た目以上に歩きにくい。ヒワは何度も凹凸に足を取られ、そのたびエルメルアリアに呆れたような視線を向けられた。にらみかえしたくなるのをこらえて、足もとに意識を集中する。
「そういえば、エルメルアリア。さっき『オレが見た穴』って言ってたけど……見たことあるの? 世界の境目に開いた穴、っていうの」
新たな凹凸を乗り越えながら、思い出したことを尋ねる。そばで飛んでいるエルメルアリアは、顔をしかめてうなずいた。
「ああ。天外界でな。思い出すだけで寒気がしてくるぜ」
「ええ……寒気がするような見た目なの……?」
急に見たくなくなってきた。ぎゅっと目を細めたヒワは、行く手に転がる岩を避けてひと息つく。
「いつまで歩けばいいんだろう」
「魔力反応はまだまだ遠いぜ」
「うえー……すでに疲れた……」
「愚痴る体力があるなら歩け歩け。こんな調子だと日が暮れちまうぞ」
エルメルアリアが上からせっつく。ヒワは、幼子のように頬を膨らませ、今度こそ彼をにらんだ。
「なんだよー。自分は空飛んでるくせに、えらそうなこと言うなよー」
「そっちこそ、楽してるって決めつけんな。飛行だって体力と魔力を消耗すんだぞ?」
じゃあなんで飛んでるんだよ、という反論まがいの質問をのみこんで、ヒワはしぶしぶ足を動かす。しかし、そこから十歩もいかないうちに、服の襟を後ろから引っ張られた。「ぐえ」とうめいたヒワは、少し詰まった声で文句をこぼす。
「ちょっと、いきなり何す――」
「しっ。黙って下がれ」
ささやく少年の表情は、刃のように鋭い。ヒワは息をのんだ。動揺していたが、正面を見て状況を察した。
視界の先に、いくつかの黒い影。獣のようだが、野生の獣にしては形がおかしい。その上、見ているだけで体が震えてきた。
ヒワは、いつかのように、正面を見たまま一歩ずつ下がる。入れ替わりにエルメルアリアが前へ出た。そのとき、むこうの影が速度を上げて近づいてくる。あらゆる動物を掛け合わせたような異形。純粋な攻撃性が音になった吠え声。それは――魔物のものだ。しかも、ヒワの知らない魔物ばかりである。
「そりゃそうか。〈穴〉が近いなら、おまえらもいるよな?」
身構えたエルメルアリアが挑発的に呟く。その意味がわかったのかどうなのか、魔物たちは彼を激しく威嚇した。ヒワは、小さな背中に憂いの視線を注ぐ。
「あ、あの、制限は――」
「この程度なら解かなくていい。それより、そこ動くなよ」
言うなり、彼は腕を振り上げた。その姿勢のまま、魔物の接近をじっと待つ。彼らの顔が見えるようになったとき、空気を斬るように腕を下ろした。
激しい風が巻き起こる。砂塵を巻き上げ茶色い渦となった風は、魔物たちを包み込んだ。渦の中からおぞましい悲鳴が響いたが、エルメルアリアは一顧だにしない。商店街でやったのと同じように輝く門を開き、魔物たちをその内に放り込んだ。異形の者らが光の粒となって消える。
ヒワはやはり、その光景に見入っていた。魔物の姿がなくなって、あたりが静まり返っても、しばらく立ち尽くしていた。
「おいヒワ。さっさと進もうぜ」
「――あ、うん」
エルメルアリアの呼びかけて我に返った彼女は、どぎまぎとうなずいて歩き出す。つい精霊人の方を盗み見たが、悠々と隣を飛ぶ彼は、すっかり生意気な少年に戻っていた。
その後、何度も魔物に遭遇した。しかも、その数はだんだんと増えていった。〈穴〉に近づいている証拠なのだろうが、ヒワとしては気が気ではない。一方のエルメルアリアは、涼しい顔で魔物たちを『送還』していった。
「ね、ねえ。ちょっと気になるんだけど……」
「どした?」
人の頭を思わせるような岩が立ち並ぶ渓谷の縁を行く、その道中。ヒワは緊張でこわばった喉を震わせ、エルメルアリアに声をかけた。今しがた二十を超す魔物の送還を終えた精霊人は、世間話でもしているかのような調子で振り向く。
「天外界の魔物って、もしかして、こっちの魔物より凶暴なの?」
エルメルアリアが、きょとんとした表情で目を瞬いた。ほどなく、何かに納得した様子で手を叩く。
「ヒワ、内界の魔物を見たことがあるのか?」
「うん。何回か。遠目からだけど」
天地内界にも、魔物と呼ばれる動物はいる。膨大な魔力を体内に蓄えることができる、凶暴であらゆる他種族を食らうなどの性質は天外界のモノたちと同じだ。ただ、ヒワがここ数日で遭遇した魔物ほどに狂乱して暴れるモノは少ない。気取られないように近づけば観察できるほどだ。
ヒワがあの日から感じていた違和感を口にすると、エルメルアリアは宙をながめながら話す。言葉を選んでいるふうだ。
「より凶暴、っつーか……天外界の方が、単純に精霊の数が多くて、そのぶん魔力も濃いからな。魔物も元気になりやすいってのはあるかもしれない」
「元気、かあ」
ヒワは思わず眉を寄せる。話に聞き入る契約者を見て、エルメルアリアが口の端を持ち上げた。
「凶暴性で言うなら、『地下魔界』の魔物の方がやべえぞ。何せ連中の故郷、弱肉強食の世界で生きてた奴らだからな。ものが違う」
声を落として語られたのは、洒落にならない内容だ。ヒワは青ざめて、思わずエルメルアリアの衣を握る。
「こ、怖いこと言わないでよ! そいつらが出てきたらどうしようとか思っちゃうじゃん!」
「実際、地下魔界と天外界の境目に〈穴〉が開いてたらまずいんだよな。そのへんの観測も急いだほうがいいと思うなあ」
「っていう割に緊張感がないように見えるけど?」
少女は、まじめくさって腕組みする精霊人をにらみつける。にらまれた方はふわりと飛んで、契約者の手から逃れた。
「だってオレ、観測する立場じゃねえし」
やる気がないのか、線引きをきちんとしているだけなのか。判断に困ったヒワは、それ以上言い返さずに歩き出す。エルメルアリアも、何事もなかったかのようについてきた。
それから五分もしないうちに、再び魔物の一団と遭遇した。今度は、ヒワたちが逃げ隠れするより先に、向こうに気づかれてしまった。
ひるんだヒワをかばうように、エルメルアリアが前へ出る。彼は一瞬敵影に目を走らせると、舌打ちした。
「ちと数が多いな。――ヒワ、そこの岩陰に隠れてろ」
細い指が、後方の大きな岩を示す。ヒワは返事をする代わりに、大急ぎで従った。彼女が岩陰でひと息つくと同時、空気が不自然にうねる。
ヒワは慌ててエルメルアリアの方を覗き見た。
先頭集団を吹き飛ばしたエルメルアリアは、その風の勢いで空高く飛んだ。群がる魔物を睥睨し、両手を高く上げた。一瞬後、振り下ろす。魔物たちの足もとがぼこぼこと盛り上がり、変形した岩や土が彼らの足を拘束した。当然、魔物たちはそれを振りほどこうと暴れ回る。彼らの攻撃と震動によって飛び散った岩の破片は、エルメルアリアの導きによって浮かび上がり、新たな刃として降り注いだ。
そこらじゅうから吐き気を催す悲鳴が上がる。その中で、一段低い音を捉えたエルメルアリアは、素早く横に飛んだ。彼のすぐそばを黒い影が横切る。影――鳥の魔物は、すぐさまとんぼ返りした。
二度目の突撃をかわしたエルメルアリアは、その勢いで反転する。
「精霊! 援護頼む!」
叫ぶと同時、彼は鳥の真上に飛び、その背に足を叩きこんだ。魔力によって重さが倍増したかかと落としを食らった鳥は、警笛のような声を上げて墜落する。
着々と魔物を仕留めていくエルメルアリア。ヒワはやはり、その光景に目を奪われていた。同時、自分がすっかりお荷物になっていることを自覚し、暗澹たる気持ちになる。
魔物は次々やってくる。香色の道が開ける気配はなかった。エルメルアリアはまだ涼しい顔だが、戦闘が長引けば消耗することに変わりはない。
「かといって、わたしじゃ手出しできないし……」
ヒワが頭を悩ませていると、視線の先のエルメルアリアが高度を下げた。一気に群がってきた魔物を、熱風と岩土を駆使して動けなくしていく。
彼がひときわ大きな異形を吹き飛ばしたとき――ヒワが隠れているのとは別の岩陰から、細身の狐が忍び足で出てきた。ふとそちらを見たヒワは、ぎょっとする。その狐は、炎のようなものをまとい、鋭い牙をむき出しにしていた。どう見ても魔物である。
狐たちは、エルメルアリアの背後に忍び寄ると、一気に加速した。狙われた当人は、振り向かない。
「――危ない!」
すべてを見ていたヒワは、叫ぶ。考えるより先に飛び出していた。