間章Ⅱ-4 投影の果て
氷嚢を作ったり部屋の明るさを調整したり、一連の対応をした後で、二人は寝室を出た。エルメルアリアの体のことを思えば近くで様子を見ていた方がよいのだろうが、心のことを思えば一度距離を置いた方がいい。
ひとまず、客間に戻る。それから、ステアルティードは台所に行った。お茶と茶菓子を持って戻ってくる。フラムリーヴェは、先ほどと同じソファでそれを受け取った。ステアルティードが自分のカップを持って対面に座る。
「……申し訳ありません。盗み聞きをしてしまって」
フラムリーヴェが謝罪すると、彼は苦笑してかぶりを振った。
「とんでもない。割って入っていただけて、助かりました。一対一だとどうにも熱くなってしまう」
「それだけ気にかけておいでなのでしょう」
ステアルティードは肩をすくめた。
「気にかけている……と言うのでしょうか、これは。自己満足のようにも思えます」
ずいぶんと自虐的だ。フラムリーヴェは眉を寄せたが、それを指摘しはしなかった。代わりに、別のことを尋ねる。
「先ほどの、医院の話。本当でしょうか」
「……嘘ではないと思います」
声が沈む。ステアルティードは、静かにカップを置いた。
「実は、最近、考えていたことがあるのです。先ほどの話に関連して」
「考えていたこと?」
「はい。聞いていただけますか」
フラムリーヴェは、一も二もなくうなずく。「かたじけない」と言ったステアルティードは、人差し指をぴんと立てた。
「まず――今から話すことは、あくまで私の憶測です。誰にも確認を取っていません。そのことを念頭に置いてください」
用心深いな、と思いつつも、フラムリーヴェは再びうなずく。
ステアルティードが息を吸った。
「一部の精霊人は……エルメルアリアに〈銀星の主〉を重ねているのではないか、と思うのです」
静かな声が、テーブルに落ちる。フラムリーヴェは目を細めた。
「〈主〉を? どういうことです?」
ステアルティードはうなずいて、続けた。彼女の反応を想定していたように。
「〈主〉も、〈塔〉の頂上に座す前は、我々と同じいち精霊人でした。その頃からかなり精霊に近く、あらゆる指揮術を使いこなしておられたといいます。そのお力でもって、多重世界の平和と指揮術の発展に貢献したそうです。才覚あふれる人物だったと、記録に残っています」
どこかの誰かの話を聞いている気分だ。フラムリーヴェは、寝室のある方を見る。ステアルティードも、同じ方を振り返った。
「〈主〉のかつての姿を多少なりとも知る人々が、エルメルアリアにその影を見出すのは当然のこと。実際、彼は〈主〉の後継者とも目されています」
「それが、何か問題なのですか?」
人に他者の影を重ねるのは、珍しいことではない。先ほどのエルメルアリアもまた、ステアルティードを通して別の誰かをにらんでいた。おそらくは――〈塔〉の老人たちを。
広い客間にゆっくりと、お茶の香りが満ちていく。
ステアルティードが目を伏せた。
「それ自体は問題ではありません。ただ……行き過ぎて、エルメルアリア本人に継続的な悪影響をもたらすようであれば、大問題でしょう。例えば……治癒の話」
治癒、と聞いてフラムリーヴェは黒い肩を震わせた。動揺をごまかすように、カップに口をつける。
事務官の青年は、気づいていないのか気にしていないのか、話を続ける。
「元々、精霊寄りであればあるほど、傷病の治りは早いものです。自前の魔力が豊富ですからね。その上、精霊に好かれていて魔力を渡してもらえるような人は、さらに治りが早くなる。〈主〉などは、どんな怪我でも一晩経てば治る、といわれています。誇張はされているでしょうが」
フラムリーヴェは無言であった。相手がわかりきったことを話しだした意味をはかりかねたのである。しかし、遅れて、頭の中で情報が繋がった。
氷塊が滑り落ちるかのように、背筋が寒くなる。
「『エルメルアリアも同じだ。だから医院での治療など必要ない』と考える者がいる……?」
「おそらく」
ステアルティードの声は乾いている。フラムリーヴェにも、彼の気持ちがよくわかった。
その考え方を持つ者が、医院の中にいたならば。エルメルアリアが言ったようなことがまかり通っていても、おかしくない。
「馬鹿げている。本当に治療が不要なら、こんなことにはなっていないでしょう」
フラムリーヴェは、つい語気を強めた。それでも、ステアルティードは冷静に「まったくもってその通りです」とうなずく。
「しかし、貴殿のように考えられない方々がいらっしゃるようなのです。例えば、私の上司など」
彼の上司――筆頭事務官だ。そうかもしれない、とフラムリーヴェは思ってしまった。
彼らがエルメルアリアを〈主〉と重ね、人扱いしていないのならば、色々と納得がいく。いってしまう。
どうせあいつは一人で何でもできる。精霊が力を貸してくれる。――だから危険な仕事を一人でやらせてもいい。
どうせ怪我なんかすぐに治る。――だから治療しなくていい。
より精霊に近い人だ。〈主〉と同じ、特別で神聖な人だ。自分たちとは違うんだ。――だから、同じようにしてはならない。人扱いしなくてよい。
それは、なんて――なんて無邪気で、おぞましい考え方だろう。
「あんまりではないですか」
フラムリーヴェは、低くうめいた。頭がかっと熱くなる。だが、すぐに深呼吸して熱を冷ました。ステアルティードの前置きを忘れてはならない。
「もし、この『憶測』が真実だとしても――俺は彼らだけを責められません」
ステアルティードがぽつりと言った。めったに曇ることのないその顔が、曇るどころか翳っている。
「俺も元々、そちら側の精霊人でしたからね。〈天地の繋ぎ手〉を賛美し、都合のいい幻想を作り上げて、勝手に期待していた一人です。……いや、今もそうかもしれない」
フラムリーヴェは押し黙る。何も言えるはずがない。〈天地の繋ぎ手〉の名を知っていて、『そちら側』でなかった者などいないのだ。
紅色の水面をにらみ、過去と現在に思いを馳せる。そのとき、なぜか思い出したのは、小さな精霊人と初めて会った日のことだ。
『会合は嫌だったけど、あんたと話せたのはよかったよ』
決して遠くない記憶の声が、きゅっと胸を締め付けた。




