7 踏み出す理由
「自由すぎるでしょ……」
ヒワは、ベッドの上で肩を落とす。それと同時、自室の扉が叩かれた。
『ヒワち~。具合はどうかね』
間延びした声はコノメのものだ。ヒワは理由なく布団を引き寄せて「まあまあ」と答える。すると、扉が静かに開いた。
「よっ。早退もぎ取ってきた」
コノメは得意げに笑って、部屋に入ってきた。左手に見覚えのない袋を持っている。
「本当にもぎ取ってきた……」
「割とあっさり許可もらえたよー。学校の方もおやすみ多いみたいでさ、学級閉鎖になってる教室もあるって」
コノメは気の抜けた声で報告しながら、ベッドの縁に腰を下ろす。
「ところでヒワ、食欲はあるね?」
「え? まあ、普通にあるけど……」
「じゃあ、これ食べようぜ」
首をひねったヒワの前で、コノメが手にしていた袋を開ける。中には、小ぶりなラスクが六枚ほど入っていた。
「〈コッチョロ商店〉のおばさんにもらったんだー。ガッツリ焼いてあるし、まだ食えるでしょ」
「あー……」
そういえば昨日、商店街でそんな話を聞いた。ヒワは納得して、さっそく袋に手を突っ込んだ姉を見上げる。
「いただきます」
「どーぞどーぞ」
コノメは、ラスクをぼりぼり食べながら答えた。ヒワもそっと一枚いただいて、口に運ぶ。
「あ、美味しい」
「ね。あー、でも、口の中ぱっさぱさ」
「牛乳かカフェオレ欲しくなる」
「いいね。カフェオレ入れてくるか」
まったりと会話しながらラスクをかじる。久しぶりの穏やかな時間の中で、ヒワは昨日から今日にかけての様々な出来事を思い出した。
〈穴〉。その一語が脳裏によぎる。
また頭が混乱してきた。世界の境目に穴が開く、ということ自体意味がわからない。それなのに、自分が世界を救えるだなんて到底思えないし、あの少年と一緒に魔物と対峙できる自信もない。
けれど。
ヒワは姉の横顔を盗み見る。
あの日、商店街にいたのがコノメだったら。そんなことを考えて――ぞっとした。
ヒワがぎりぎりまで魔物から逃げられたのは、ロレンスから対処法を聞いていたからだ。追い詰められたあの状況でエルメルアリアを呼べたのは――彼の言葉を信じるならば、ヒワだから、だ。
あの場にいたのがコノメだったら。ひどい怪我を負っていたかもしれない。最悪、助からなかったかもしれない。
黄緑色の瞳が潤む。両目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ヒワ?」
コノメがぎょっと目を剥いた。ヒワはその視線に気づいていたが、涙を止めることなどできなかった。必死で下を向いてラスクに集中しようとしたが、感情は理性の抵抗など容赦なく押しのけて、あふれ出してくる。
「ちょっとちょっと。怖いこと思い出した?」
「……そう、だけど……そうじゃない、っていうか……」
「どっちだよ」
ヒワが辛うじて答えると、コノメは目をすがめる。ラスクの欠片を口に放り込んで軽く手を払うと、ヒワの背中をさすった。
「昨日の買い出し、代わってやればよかったね」
そのぬくもりと、姉にしてはやわらかい声が、容赦なく胸を突く。ヒワはしゃくりあげて、それでもなんとか言葉をしぼりだした。
「ちがうよ……」
「ん?」
「ちがうよぉ……わたしでよかったんだよ……。コノメじゃなくて、よかった……」
後半は、ほとんど嗚咽だった。今度、コノメは何も言わずにヒワの背をさすり続ける。ヒワにとって、その無言が何よりもありがたかった。
※
その宵、ヒワはいつもより早く自室にこもった。具合が悪いのだと思ったらしく、家族は何も言わなかった。
カーテンを開けて、紺碧の窓をにらむ。拳を握って、細く息を吸った。
「――エルメルアリア」
腹に力を入れたつもりだったが、流れ出た声は思いのほか小さかった。家に人がいることを考えれば、このくらいでちょうどよいのだが。
返ってきたのは静寂だ。窓の外も内も、何一つ変わらない。ヒワが落胆の吐息をこぼしたとき。
「呼んだか?」
「うわっ!?」
突然耳元で声がする。空中で光が弾けた。尻餅をついたヒワの目の前に、エルメルアリアが現れる。
「ど、ど、どこから出てきたんですか!?」
「どこって言われてもな。契約してるから、呼ばれればどこにでも出てこれるぜ」
「……精霊人の体って、どうなってるんだろう……」
ヒワは思わず低い声で呟いた。それは、空中にいるエルメルアリアの耳には届いていない。彼はその場で上機嫌に一回転した。
「ついでに言うと、二時間くらいこの家の外に張り付いてた。人通りが多かったから、隠れてたけどな」
「そ、そうだったんですか? すみません」
「オレが勝手にやったことだし、気にすんな。人間観察楽しかったし」
からりと笑った少年は、ヒワの目線と同じ高さまで下りてくる。
「で、なんか用か? あ、契約の件、どっちにするか決まった?」
「あ、はい。その話と……あとは、お願いがひとつあります」
お願い、と復唱したエルメルアリアが小首をかしげる。ヒワは、力強くうなずいた。
「まず、契約は――保留で」
やたら力強い宣言に、エルメルアリアが固まった。時計の針の音が七回響いた後、「ふむ?」と呟いた彼は腕を組む。
「それで、お願いってのは?」
やや鋭い声で問われ、ヒワは少しばかりもたついてしまう。
「ああ。ええと、ですね。……まず、〈穴〉ってどこに開いてるのかわかってるんですか?」
「おう。細かい場所まではわかんねえけど、ざっくりした区域は判明してるぞ」
頬をかきながら尋ねると、エルメルアリアはなんてことないとばかりに答える。少女は、安堵して言葉を繋いだ。
「じゃあ、わたし、エルメルアリアさんと一緒にそこへ行きたいです。連れていってくれませんか?」
森の色を閉じ込めたような瞳が見開かれる。エルメルアリアが、ヒワの方にずいと顔を突き出した。
「いいのかよ。危険だぜ」
「はい」
ヒワは、一分のためらいもなく答えた。しかめられた少年の顔をじっと見つめる。
「昼間の話の意味は、正直あんまりわかってないし、いきなり世界を救えとか言われても困る、っていうのが本音です。でも、だからこそ――まずは自分の目で見たいんです。どこで何が起きていて、それがどれだけ深刻なことなのか、ちゃんとこの身で確かめたい。考えて、決めるのは、それからでも遅くないかなって思うんです」
ラスクの味を、不器用な手のぬくもりを、思い出す。
仮にヒワがここで契約を拒んだら、エルメルアリアの調査はふりだしに戻る。結果、世界の境目に穴が開いている状態が長引けば、また他世界の魔物が人の町に押し寄せるかもしれない。そうなったら今度こそ、大切な人が傷つくかもしれない。いや、昨日傷ついた人たちだって、誰かにとっての大切な人だ。
あんな怖い思いはさせたくない。家族にも、誰にも。
踏み出す理由は、それだけで十分だった。
「……わかったよ」
ヒワの様子を見て、何を思ったのか。エルメルアリアは苦笑して、両腕をほどいた。
「そんじゃ、ひとまずは契約続行の上、近場の〈穴〉の調査に向かうと。それでいいな?」
「はい。よろしくお願いします」
「あ、敬語とかなくていいぜ。オレ、堅苦しいのは苦手だから」
ひらひらと手を振って、エルメルアリアがそんなことを言う。呆気にとられたヒワは、けれどすぐに言い直した。
「わかった。よろしくね、エルメルアリア」
「おう、よろしく、ヒワ」
ヒワはうなずきつつも縮こまってしまう。初夏の風のような声で名前を呼ばれるのは、なんだかくすぐったかった。
彼女の内心など知らないエルメルアリアは、視線を天井に向けて思考と予定をまとめた。それが済むと、踊るように飛ぶ。
「それじゃあ早速、明日出かけるか」
「えっ!? あ、明日はちょっと……! さすがに学校行かなきゃ!」
ヒワが慌てて止めると、エルメルアリアは唇を尖らせる。
「あーもう。人間社会って面倒くせえな。休みはねーの?」
「あるよ。えっと……二日後」
「じゃあ、二日間待機だな」
エルメルアリアはそう言ったのち、これ見よがしにため息をつく。
「せめて、ヒワがソーラス院の学生だったらなあ。〈銀星の塔〉の名前出して、課題扱いにできたのに」
「素人で悪かったね」
ヒワは、飛び回る少年をにらんで呟く。そんなことができるのか、と内心驚いていたのは内緒だ。