64 変化とひと時のエピローグ
不思議な風が、草葉の香りを運ぶ。
早朝、運動と散歩を兼ねて家のそばを歩いていたヒワは、ふと顔を上げた。太陽が空に顔を出して間もない時分ゆえ、人の姿はほとんどない。犬の散歩をしている紳士淑女を見かける程度だ。
誘われたように上を見る。店舗と家を兼ねているらしき建物の屋根の上に、人の姿があった。体そのものは幼児ほどにも小さいが、体格は少年か少女を思わせる。若葉色の衣とプラチナブロンドの髪は、早朝の空によく映えた。
「エラ?」
声を張って呼びかける。と、少年――エルメルアリアがヒワを見た。助走もなしに浮き上がり、彼女のもとへ舞い下りる。
「よ、ヒワ」
「何してたの?」
「精霊どもと話してた」
エルメルアリアは言いながら、その場で宙返りする。
「どうも、北で精霊の様子がおかしくなってるらしい」
思ったより物騒な報告を聞き、ヒワは顔をこわばらせた。
「えっ。それ、まずいんじゃ……」
「ああ。〈穴〉と関係あるかもな。今のところ、〈塔〉から招集はかかってねえけど」
空をにらんだエルメルアリアの隣で、ヒワも表情を引き締める。
「なら、いつでも動けるようにしておかないとね。今日は詠唱の練習でもしようかな。精霊語の方」
「それなら付き合うぜ。ロレンスも呼ぶか?」
「迷惑じゃなければ……」
そんな会話をしながら、家の方へ歩いていく。集合住宅の共用部を抜け、スノハラ家の扉を開けたところで、コノメと鉢合わせた。顔を洗った直後らしい彼女は、二人に手を振る。
「おかえりー。ヒワち、エラくん」
「ただいま」
「おう、戻った」
二人も当然のように挨拶する。
最初こそ、精霊人に対して他人行儀に接していたコノメだが、二日でそれを放棄した。妹に引っ張られてか、今では愛称呼びだ。エルメルアリアも、カトリーヌに対するときのようには怒らず、渋々ながら受け入れた。『契約者の身内』ということで、妥協したのかもしれない。あるいは、怒っても無駄そうだとあきらめたか。
そのエルメルアリアが、くっと顔を上げる。
「いい匂いがするな」
「お母さんがパン焼いてるからね」
「あ、それなら手洗ってくる」
ヒワは小走りで洗面所に向かう。契約相手と姉も当然のようについてきた。
「ところで、エラくんってほんとにエルメルアリア?」
頭に巻いたタオルを外しながら、コノメが尋ねる。エルメルアリアは眉を上げた。
「あ? 言葉遊びでもしたいのか?」
「いやさあ。気になって色々調べてみたんだけど……調べれば調べるほど、〈天地の繋ぎ手〉と目の前の『おちびさん』が結びつかなくて」
「あー……それはわかる」
ヒワがつい同意すると、精霊人は眉間にしわを寄せた。彼を取り巻く風が、そよ風から強風に変わる。
「おうおう、いい度胸だな、そこの姉妹。試しに何を調べたか言ってみろ。実体験を聞かせてやるよ。国家機密に触れない範囲でな」
「えっ。なんかマジな話出てきそう。こわ」
「ロレンスが聞いたら卒倒しそう」
朝食前のかしましいやり取り。ヒワたちが王都から戻って以降、日常に加わった光景である。
※
朝食後。ヒワはロレンスに連絡を取ろうとしたが、その前に来客があった。慌てて外向きの格好に着替えて玄関へ行き――顔を輝かせた。
「あ、シルヴィー! 帰ってたんだ!」
「一昨日にね。久しぶり、ヒワ!」
ヒワの同級生にして友人のシルヴィー・ローザは、弾けるような笑みを見せた。バカンス帰りということもあって少し日に焼けているが、それ以外はいつもの彼女である。
「わざわざ挨拶に来てくれたの?」
「それもあるけど。ちょっと……訊きたいことがあってね」
「訊きたいこと?」
シルヴィーの笑みが引きつる。視線がよそへ流れた。ヒワは、きょとんとしてその変化を見つめた。間もなく、シルヴィーの後ろから少年が顔を出す。
「おはよ、ヒワ」
「お、おはよう。ロレンスも一緒だったの?」
「うん。シルヴィーにちょっと相談を持ち掛けたら、なぜかヒワも誘いたいって言うから」
「ん? 相談? なに、なんのこと?」
話が見えない。ヒワがうろたえていると、シルヴィーが突然顔を寄せてきた。たくましい手が両肩をがっちりつかむ。
「ねえちょっとヒワ。どう思う?」
「な、何が」
「ロレンスが。あのロレンスが、よ。『体力つけたいんだけど、何から始めたらいいかな』って言ってきたの!」
「…………ああ、なるほど」
ようやく事情を理解して、ヒワは乾いた笑みを漏らした。
要は、初めて〈穴〉を探しにいった後のヒワと同じである。体力不足を痛感し、それではいけないと思い直したのだ。その結果、頼った相手まで同じである。
「なんか……シルヴィーがわたしとロレンスを引き合わせた理由がわかった気がする……」
「いつの話してんの。ってか、その口ぶりは心当たりがあるね。あたしのいない間に何があったの? ロレンスの奴、変な虫にでも噛まれた?」
「お、大げさな」
「こっちは気が気じゃないんだよ。今夜にでも槍が降るんじゃないかって!」
シルヴィーは、猛然とヒワに詰め寄る。声こそ潜めていたが、鬼気迫る様子であった。
「……ねえ、なんかすごく失礼な会話してない? いや、いいんだけどさ……」
置いてきぼりのロレンスが、ぽつりと呟く。ヒワは聞こえなかったふりをして、ひとまずシルヴィーに向き直った。
「大丈夫、大丈夫。虫に噛まれたわけじゃないし、変なもの食べたわけでもない」
「ほんと?」
「ほんと。ただ……頑張りたい理由ができたんだと思う」
ね、と言うようにロレンスを見る。彼は、恥ずかしそうに黒髪をかき混ぜた。二人を見比べたシルヴィーは、何か言いたそうに腕を組む。しかし、おそらくはそれをのみこんで、うなずいた。
「そ。おかしくなったわけじゃないなら、いいや。ロレンスは弟子二号ね」
「二号って……一号いるの? あ、ヒワか」
シルヴィーは、その通り、とばかりに笑って『弟子二号』の肩に手を置いた。
「それじゃあ、気が変わる前に計画を立てちゃおう。『ロレンスでもできる体力づくり計画』」
「うわあ……目が本気だ……」
少し青ざめた少年をよそに、ヒワは家の中を指さした。
「うちで話す?」
「いや。騒がしくなったら悪いから、どっか広い場所に行こ」
「わかった。支度してくるから、ちょっと待ってて」
「了解。ゆっくりでいいからね」
拳を握ったシルヴィーに一礼して、ヒワは身をひるがえす。
「あんたの場合、柔軟体操を特に念入りにすること。あとは……そうだなあ。霊薬の材料の採集であんだけ長時間粘れることを考えると、やっぱ興味関心と結び付けた方が――」
外から聞こえる声に苦笑しつつ、ヒワはまず居間に戻った。台所の掃除をしていた母にシルヴィーたちと出かける旨を伝え、その足で部屋に行く。窓辺に座っているエルメルアリアに気づき、手を挙げた。
「あ、エラ。これからなんだけど――」
「大体聞こえてた」
エルメルアリアは屈託なく笑う。鳥よりも軽やかに、窓辺から飛び立った。
「楽しんでこい。ちょうど、オレの方も用事ができたし」
「用事?」
反問したヒワは、エルメルアリアの肩に釘付けになる。見たことのない銀色の鳥がとまっていた。案の定、彼はその鳥を見やる。
「〈銀星の塔〉から招集がかかった」
ヒワは、かろうじて叫び声をのみこんだ。鳥をつつく少年をまじまじと見やる。
「〈穴〉が見つかったの? それじゃ、わたしたちがのんびりしてちゃだめなんじゃ?」
「どうせ天外界に行って戻るまでに時間がかかるんだ。気にすんな」
「あ。それは、そっか……」
胸にうっすら靄がかかるのを感じつつ、ヒワは準備を整える。最後に肩掛け鞄をひっかけて、杖を持つと、改めて部屋を振り返った。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
おとぎ話の住人のような少年に見送られつつ、ヒワは家を出た。戸口で話し込んでいる友人二人に手を振る。
「お待たせ。行こっか」
「おー! いこいこ! ついでにさ、ヒワも意見聞かせてよ」
「……自分から言い出しておいて何だけど、すでに嫌な予感がする」
片方は目を輝かせ、片方は苦笑する少女たち。そして、後ろでため息をつく少年。いつも通りのような三人は、しかしそれぞれ小さな変化を経て集い、町へと繰り出していく。
そして、その遥か上空では、二人の精霊人が己の故郷へ向けて飛び立った。
ひと時の休息ののち、彼らは再び、数多の世界を救うための冒険へと踏み出していく。
(『春風のサーガ【第一部】』・完)
これにて完結です。最後まで見届けてくださった皆様に、心からの感謝を。
途中でストックが尽きてしまい、終盤は更新日時が実質不定期になってしまいました。戸惑った方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。
タイトルに【第一部】とついている通り、ヒワたちの冒険はまだまだ続きます。……が、今は一旦の幕引きということで。他の長編が完結するか、何かきっかけがあれば続きを書かせていただきます。(もし強い要望が寄せられたら、予定を繰り上げて続きに着手するかもしれません。褒められると踊っちゃう作者なので……)
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
2025年5月26日 蒼井七海