61 エルメルアリアの契約者
精霊指揮士協会・アルクス王国支部。その二階にある会議室で、定例会議は行われる。ここで話し合われるのは大抵、指揮術研究への予算配分や、会員たちから寄せられた相談・陳情への対応策、この先の活動方針などである。
だが、この日の会議は様子が違った。もはや定例会議という名の緊急会議である。理事たちは緊張した顔を突き合わせ、壊れた町を見下ろしながら、やるべきことを話し合っていた。
被害者の救済や町の修復は、精霊指揮士協会の領分ではない。軍や警察からの要請を受けて手伝うことはあっても、自分たちから首を突っ込むことはしない。協会に求められるのは、第一に防御結界の修復の主導。第二に上空に突然出現した裂け目――〈穴〉の正体を解き明かすこと。そして第三に、居合わせた使い魔の様子がおかしくなった原因を究明することだ。
大人たちは、あれこれと意見を交わしている。眉間のしわが増えることはあっても減ることはなく、会議室の空気は張り詰めていく一方だ。会議のはじめから呼び出されてしまったヒワは、息をひそめて様子をうかがっている。話の内容はほとんど理解できないが、昨日の出来事が異常事態なのだということをしみじみと実感していた。
「――せっかく〈穴〉の調査と対処を行っている精霊指揮士を呼んでいるんだ。意見を聞いてみてもいいんじゃないかね?」
喧々囂々、着地点の見えない話し合いの中で、一人の理事がいきなりそんなことを言い出した。金色の髭をなでながら、ちらとヒワたちの方を見る。言葉とは裏腹に、負の感情がたっぷり含まれたまなざしであった。
肩をこわばらせたヒワの隣で、エルメルアリアが腕を組む。
「と言われてもな。〈穴〉の正体なんてのは、こっちが知りたいくらいだ。オレたちの任務は確かに〈穴〉と他世界の魔物への対処だけど、〈銀星の塔〉が解析をするための時間稼ぎをしているってのが現状だしな」
一部を除いた理事たちが気まずげに顔を見合わせる。素人の小娘に鬱憤をぶつけようとしたら、当代最高の精霊指揮士に淡々と言い返されてしまった。そんな心情が、顔色にありありと表れていた。
彼らの様子を冷ややかに見ていた男――エリゼオ・グラネスタがエルメルアリアに話を振る。
「使い魔の様子がおかしくなった件については、把握しておられなかったのですか」
「ああ。あんなのは初めて見た。今までの現場に使い魔がいなかったから、影響に気づかなかっただけかもしれねえけどな」
「内界の魔物はいたのでしょう」
「いたな。怯えて逃げ隠れしたり、威嚇したりすることはあっても、あんな盛大に暴れることはなかった」
「原因にお心当たりは?」
「ない。普通に考えれば、他世界の魔物の魔力と凶暴性に当てられた可能性が高いけどな。ただ、ほぼすべての使い魔に影響が出ていたことや、みんながみんな凶暴化していたことを考えると、断定はできねえ。あれはむしろ――理性を吹っ飛ばす指揮術をかけられた、とでも言われた方がしっくりくる」
「ふむ……」
エリゼオが、口もとに指をかけて考え込む。ほかの理事たちもうすら寒そうに黙り込んだ。
「さしあたり、〈穴〉の調査は引き続き進めていくしかありません。加えて、使い魔に影響が出る可能性があることを周知しましょう」
理事たちは無言でうなずいた。相貌には複雑な感情がにじんでいるが、それをぶちまけることはない。
具体的な対応策をいくらかまとめた後、灰色の髪の男性がふっくらとした手を叩く。支部長であり今回の議長でもある、マッテオ・インヴェルノだ。
「では、次の話に移るとしよう。――遠路はるばるお越しいただいたお嬢さんを、いつまでも待たせるのは申し訳ない」
やわらかな語り口のおかげか、明るい声色のおかげか、嫌味な感じはしない。ただ、その一言は間違いなく、ヒワにとって開戦の喇叭と同じである。
机を囲んでいる人々の視線が、一斉にヒワへと集まった。彼女は背筋を伸ばし、意味もなく両手を重ねる。
インヴェルノが、わざとらしい咳ばらいをして切り出した。
「ヒワ・スノハラ殿。当協会の招集に応じていただき感謝する」
拒否権なんてないじゃないですか――と言いたいのをこらえて、ヒワはうなずいた。一見優しげな支部長は、にっこりとほほ笑んで続ける。
「これより、聴き取り調査を始めるが、よろしいかね?」
はい、と答えたヒワの横で、エルメルアリアが手を挙げた。
「この調査、オレが口出ししても構わないか?」
彼が問うと、会議室の空気がより引き締まる。
インヴェルノが丸みのある顎をなでた。
「そうですね……基本的には彼女に答えていただきたいですが、それが難しい場合は構いません」
「そうか。なら、指揮術の専門的な話や〈銀星の塔〉が関わることは、オレが答えよう」
「それはぜひ、お願いします」
インヴェルノは笑顔を崩さない。が、何人かの理事はやりにくそうに身じろぎした。
まずは、協会が調べたと思われるヒワの情報の確認。次いで、なぜ「精霊指揮士に準ずる活動」を始めたのか、という質問が飛んだ。どちらも、言い出したのはエリゼオである。ヒワは最初の確認の時点で頭が真っ白になっていたが、なんとか商店街での襲撃事件のことを思い出して、正直に話した。
ヒワが言葉を重ねるごとに理事たちがひそひそささやき合い、剣呑な空気が広がっていく。話が一段落すると、理事をけん制するように見渡したエリゼオがまとめた。
「つまり……何も知らないままエルメルアリア殿と契約し、その結果、〈穴〉の調査を始めた、と?」
「はい。でも、一緒に調査することを決めたのは、わたしです。エルメルアリアは……制限の解除とかけ直しだけしてくれればいい、とも言ってくれていました」
エリゼオの眉がわずかに跳ねる。その理由を知らないヒワは、何かまずいことを言っただろうか、と身構えた。
「大きな危険を伴うことだ。にもかかわらず、わざわざ調査に出向いているのは、なぜです?」
ヒワは言葉に詰まる。逡巡したのち、口をこじ開けた。
正直に話した結果、大人たちがどう受け取るかはわからない。笑われるかもしれない。馬鹿げていると怒るかもしれない。かといって、上手い嘘など思い浮かぶはずもなく。結局、思ったままを吐き出した。
「……あの日、商店街にいたのは、本当に偶然だったんです。たまたま買い出しに行けるのが家族の中でわたしだった、っていうだけで。それで、あんなことになって……生き延びることはできたけど、怖い思いもたくさんして。正直、あんな恐ろしい魔物、二度と見たくないとも思いました。でも、それ以上に、家族が傷つくのが嫌だったんです。わたしの家族や、あの場に居合わせた人みたいに、戦うすべを持たない大切な人が傷つくことの方が、怖いって、思ったんです。
百年に一人いるかもわからない、エルメルアリアの契約者が、わたしだっていうんなら……そのわたしにしかできない、彼と一緒じゃないとできないことを、きちんと協力してやりとげたい。そう思って、同行を申し出ました」
ヒワが言葉を紡ぐ間、理事たちの表情はほとんど動かなかった。だから、彼らが何を考えているかは、外からではわからない。唯一、インヴェルノだけは目を細めた。そして、エリゼオは静かにうなずいた。
「なるほど、よくわかりました」
その声からも、やはり感情は読み取れない。本当にこれでよかったのか。ヒワはのみこみきれない靄を抱えたまま、口を閉ざした。
理事の一人が手を挙げる。つややかな黒髪をなでつけた、いかにも堅物そうな男性だ。インヴェルノが発言を許可すると、彼はあからさまにヒワをにらみつける。
「これまで、協会に一切の通達なく活動を行っていたのはなぜですか?」
「そ、れは……えと、協会と精霊指揮士の関わりの深さを、よく知らなかったからです。みなさんに不信感を抱かせてしまったことは、申し訳なく、思っています」
カトリーヌたちとの練習の成果が出た。しかし、理事たちの反応は芳しくない。困っているか呆れているかのどちらかである。質問した男性などは、わざとらしく腕を組んでいる。
ヒワが縮こまったところで、エルメルアリアが身を乗り出した。
「これについては、オレと〈銀星の塔〉の責任でもある。オレたち精霊人は、〈塔〉への報告を義務付けられてはいるけど、協会にもいちいち話を通せとは命じられていない。だから、ヒワのことも、こっちから協会に知らせる必要はないと判断した」
理事たちが顔を見合わせる。インヴェルノが「まあ、そうですな」とのんびりうなずいた。
「そもそも、我々は精霊指揮士の活動を支援し、指揮術のよきところを広めるための団体に過ぎない。認定制度などを設けてはいるが、それだって法的拘束力のあるものではない。成り行きで『こちら側』に来た者に、いきなり暗黙の了解をわかって動けと言うのはいささか厳しすぎる。ひとまず、今回招集に応じてくれただけでも十分だと私は思うが、皆はどうかね」
支部長の投げかけに対する反応は、様々だった。顔を見合わせる者。しかつめらしくうなずく者。そして――怒ったように口を開く者。
「新人だからと言って、そのような甘い対応で済ませるのはいかがかと思いますぞ。ただの精霊指揮士ならともかく、精霊人の契約者です。契約によるものとはいえ、大きな力を得た以上、責任感を持って行動してもらわねば」
そうだそうだ、と何人かが同調する。一方で、反対意見を述べる者も同じだけいた。
「しかしだな。ならば一体、どのような対応をするというのだ。罰則を定めているわけでもなし」
「それに、元は見習いですらない民間人ですよ。事の重大性がわからないのも致し方ない。いちいち厳しく咎めていては、かえって会員が委縮しかねません」
再び会議室が騒がしくなる。
昂った人々を、しかし重々しい一声が静めた。
「静粛に」
エリゼオである。またしても気まずそうに口をつぐんだ理事たちに対し、彼は淡々と言い募った。
「具体的な対応の議論は、後でもできます。今は聴き取り調査を優先すべきでしょう」
理事たちは不服そうだったが、一応はうなずいた。
そして、聴き取り調査が再開する。
「契約以前に指揮術に触れたことはなかったんですね?」
「えっと……友達に精霊指揮士見習いの子がいるので、少し話を聞くことはありました。でも、自分から学んだことはなかったし、ましてや使おうなんて思ったこともないです」
「親族に精霊指揮士の方はいませんか?」
「いない、と思います。わたしの知っている範囲では」
「会員の方から、あなたが奇妙な詠唱をしていた、という話を聞いていますが、これはどういうことでしょう」
「あ、それは……」
「それはオレが提案した詠唱だな。説明してもいいけど、長くなるぜ」
「……今はやめておきましょう。この聴き取り調査の目的から外れてしまいます」
理事から飛ばされる質問に、ヒワが答えていく。話が本筋から逸れそうになったときはエリゼオが修正する、というやり取りが続いた。
ヒワは、冷静になれ、と己に言い聞かせていたが、それだけで本当に心が凪ぐのなら苦労しない。詠唱の話が出る頃には、緊張のあまり五感が麻痺しかけていた。人々の表情や動作すらも、見えているが見えていない。質問内容を拾うので精いっぱい、という状態だ。
そんな中、ある理事が手を挙げる。支部長と同年代らしい、くすんだ金髪と青い瞳を持つ男性だった。
「貴殿は、今後どうしていくおつもりですか?」
彼の質問は最初、漠然としていた。ヒワは状況を忘れてぽかんと口を開ける。
「どう……というのは……」
「〈穴〉の調査および、エルメルアリア殿との契約を続行したいとお考えですか?」
男性の声色が硬くなる。ヒワはそれに気づかず、前のめりになってうなずいた。
「はい。もちろんです」
「我々が『許可できない』と言っても?」
「……え?」
声が震える。氷の塊が背中を滑り落ちたかのように、体が冷える。我知らず喉を鳴らしたヒワは、ついエルメルアリアを横目で見た。
会議室の中は、照明を灯しておらず、やや薄暗い。だからか、彼の瞳は微妙に赤く見えた。宝石のようなその瞳が、ひたとヒワを見つめ返す。
言葉はない。それでも、彼の声が伝わってくるようだった。
正面を見る。心臓が早鐘を打つ。やはり、人々の顔はわからない。その中でヒワは、ゆっくりと口を開いた。
「――そう、言われたとしても。活動も、契約も、続けたいです」
誰かがうなる。ヒワは、さらに言葉を重ねた。
「さっき、支部長さんが仰いましたよね。協会は、精霊指揮士の活動を支援し、指揮術のよきところを広めるための団体に過ぎないって」
「ええ。その通り」
これは、支部長自らが改めて認めた。ヒワは、感謝の意も含めて小さく顎を動かす。目もとにぐっと力を入れた。
「だとしたら、みなさんの言うことをわたしが拒んだとして、何かしらの罰を与えられることはない、ですよね。だったら――」
質問を始めた男性が、彼女の言葉に被せてくる。
「確かに、仕組み上はそうです。しかし、〈穴〉の件に関しては、我々と〈銀星の塔〉が指揮を執っています。ある程度、我々の意向に従ってもらわなければ困ります」
「――だとしても。ヒワを降ろすに足る理由が、今のところないんじゃないか? 〈塔〉はそんなこと言ってきてねえし」
からりとした声が割って入る。男性は眉を寄せ、ヒワは弾かれたように振り返った。エルメルアリアが、悪戯っぽくほほ笑んでいる。視線に気づいたのか、少しだけ瞳が動いた。ほんのわずか、口もとをほころばせ、ヒワは前を向きなおす。
「確かに、〈穴〉はよくわからないものだし、ほかの世界の魔物は危険です。本来、わたしみたいな見習い以下の人間が首を突っ込むことじゃない、っていうのもわかっています。でも――それでも、わたしはエルメルアリアの契約者です。今のわたしはそれに納得しているし、彼だって……」
エルメルアリアが胸を張る。見ていなくても、ヒワにはそれがわかった。頭の中で三つ数えて、締めくくる。
「エルメルアリアが――エラが認めてくれている限り、わたしも任務を降りるつもりはありません」
ふ、と肩から力が抜ける。あれだけ騒いでいた心臓が、少しだけ落ち着く。視界が開けて、色や形もぽつぽつと戻ってきた。
ヒワは、細く息を吸って、吐いた。「長々話してすみません」と頭を下げると、質問をした男性は戸惑ったように、いや、と言った。
爽やかな風が吹いた。それまで着席していたエルメルアリアが、飛び上がったのだ。
「一応言っとくけど。オレも、ヒワが嫌だと言わない限りは、ほかの奴と契約する気はないからな。そんな相手、見つからないだろうし」
理事たちがざわめく。エルメルアリアは人々の様子を歯牙にもかけず、続けた。
「途中で契約解除になった場合、オレはこの任務から降りることになる。そうなったら困るのはあんたらだろ」
「……承知しております」
金髪の男性が、ばつが悪そうに吐き捨てる。それを一瞥したエリゼオが、エルメルアリアを見上げた。
「その点は、念頭に置いておきましょう」
彼に続いて、支部長が朗らかに切り出す。
「では。実際の対応についてはこれからこちらで話し合います」
「なんだ、オレらに聞かせないつもりか」
「いや何、厳しい意見も出てくるでしょうからな。あまり長時間になると、スノハラ嬢にはお辛いでしょうし」
エルメルアリアは、不満げに鼻を鳴らす。ヒワは思わず胸のあたりをつかんだ。――せっかくほぐれた緊張が、ぶり返してきそうである。