60 騒動の後始末
2025.5.27……シーン追加
〈穴〉がふさがった後、広場は一時静まり返った。そして、すぐに歓喜の声で満たされる。今まで杖を向けていた相手がいなくなっていたことを確認すると、人々は拳を突き上げ、あるいは隣の人と抱き合って、安堵と達成感を分かち合う。
ヒワは、彼らの様子を黙って見守っていた。しかし、すぐに世界が傾く。自分がへたり込んだのだと気づいたのは、頭上から声がかかったときだった。
「終わったな、嬢ちゃん」
年かさの精霊指揮士がにっと笑う。ヒワも、悪童のようにほほ笑み返した。
「はい。手伝ってくださって、ありがとうございました」
「いいってことよ。面白いものが見られたしな」
感情渦巻く中にあって、名も知らぬ精霊指揮士は落ち着いている。今までと変わらぬ調子で呟いて、ヒワの頭をやや乱暴になでた。彼のそばでは、カルロやナルーをはじめ、最初にヒワの話を聞いた人々が立ち尽くしていた。
「すごい……本当に魔物がいなくなっちゃった」
「なんか、とんでもないものを目撃しちゃった気がする」
「ほんとに。精霊人の制限が解ける瞬間なんて、見れると思わないじゃんね」
「つうかさ。魔物、吸い込まれてなかったか? なんなんだ、あれ」
「わからない。でもまあ、今は――」
気の抜けた様子で語り合っていた人々は、それから一斉にヒワを見る。かと思えば、いきなり頭をなでたり肩を叩いたりしてきた。
「え、え? えっと……?」
うろたえているヒワに、彼らは清々しい笑顔で語りかける。
「功労者に祝福を!」
「お疲れ様ー!」
「君が発言してくれなかったら、大変なことになってたかもしんないからね」
その輪はじわじわと広がり、気づけばヒワは先輩たちに頭をぐちゃぐちゃにされていた。髪留めだけは死守しつつも、どうしたものかと途方に暮れる。
そんなところへ、エルメルアリアが戻ってきた。彼もまた、嬉しそうである。ヒダカ語の詠唱が初めて成功したときと同じくらいに。
「終わったぜ、ヒワ!」
「――うん。お疲れ、エラ」
ヒワは笑って手を挙げる。エルメルアリアは当然のように、己の手を差し出した。優しいハイタッチの後、ヒワは髪を整えながらあたりを見回す。
「でも、まだ安心できないよね」
「そうだな。〈穴〉に吸い込まれなかった奴が残ってるかもしれない」
「――そういうことなら、もう一仕事するか」
年かさの精霊指揮士が当然のように言って、手の中で杖を回す。
「余力のある奴は、魔物を探してふん縛る。はい、解散!」
彼が号令すると、実務経験のある精霊指揮士たちは一斉に散っていった。さすがに切り替えが早い。
「魔物を見つけたら、あんたらに知らせればいいのか?」
「おう。天外界への門は、オレたちしか開けないからな」
「なるほどねえ。じゃ、また来るわ」
年かさの精霊指揮士もまた、ひらひらと手を振って去っていく。地面に座ったままみんなを見送っていたヒワに、今度は白い手が差し出された。銀灰色の髪の青年が無言で見下ろしている。
ヒワは戸惑いつつも、その手を取った。
「わ、すみません」
青年は、無言でうなずき、ヒワを引っ張り上げる。そこへ、泡をまとった人魚が戻ってきた。
「あら。あのおじさまは行ってしまったのね。『告げ口』はよかったのかしら?」
「……余計なことを言うな、マール」
やっと口を開いたルートヴィヒを、エルメルアリアがじろりとにらむ。
「ご安心を。少なくとも、てめえがヒワにナイフぶん投げたのは見えてたぞ。あの状況じゃなかったら、王都の端まで吹っ飛ばしてたとこだ」
小さな拳が、さらさらの髪に覆われた頭を軽く叩く。ルートヴィヒはわずかに眉を寄せ、路地の方へ足を向けた。
「マール。まだ魔物の残党がいるかもしれないそうだ。狩りにいくか」
「あっ! てめえこら、逃げる気か」
「うふふ。わかりました。いきましょ」
憤慨する精霊人と、それを黙殺する青年を見比べて、マーリナ・ルテリアがころころと笑う。その上で、二人に向かって優雅に一礼した。
そのまま歩き出したルートヴィヒはしかし、広場を出る前に振り返る。
「ヒワ」
「は、はい!」
いきなり名前を呼ばれたヒワは、ほとんど反射で返事をする。ルートヴィヒは、一度目を伏せてから、しっかりと彼女を見た。
「確かに、いきなりナイフを投げたのは軽率だった。反省している」
「い、いえ。今となっては、止めてもらってよかったと思ってます」
「……そうか」
空白の後。再び、唇が動いた。
「次からは、先に声をかけるようにする」
声をかけた後にナイフを投げるということか。ヒワは思ったが、疑問を口にする前に、ルートヴィヒたちは行ってしまった。所在ないヒワは、杖を収めてなんとなく指の体操をする。
「ったく。相変わらず、よくわかんねえ連中だな」
「あはは……。まあでも、今回は手伝ってくれたし……敵ってわけじゃない、と思いたいよ」
どうだかな、とエルメルアリアは唇を尖らせる。不満げに飛び回っていたが、あるときぴたりと止まった。ヒワも、穏やかな炎のぬくもりが近づいてくるのに気づく。
果たして、広場に見覚えのある三人が現れた。
「二人とも、お疲れー」
「ご無事で何よりです、ヒワ様。エルメルアリアも」
「こっちも終わったみたいね!」
フラムリーヴェとカトリーヌが、壊れた石畳や瓦礫を避けながら歩いてくる。ロレンスは、契約相手に抱きかかえられていた。
「みんな! 無事でよかったあ……」
「よ。なんとかなったな」
ヒワは、半泣きになりながらも笑みをこぼす。エルメルアリアはいつもの調子で飛んでいき、フラムリーヴェと拳を合わせていた。
洟をすすったヒワは、戦乙女を――正確には、彼女に運ばれている少年を見つめる。
「ところで、ロレンスはなんで抱っこされてるの? まさか、怪我――」
「いや、うん。気にしないで。走りすぎて動けないだけだから」
「走っ……ロレンスが? 走ったの? ほんとに?」
ヒワは思わず前のめりになる。すると、ロレンスはこちらを見るなとばかりに手を突き出した。頬がうっすら赤くなっている。
カトリーヌはそれを見てくすりと笑ったが、フラムリーヴェは悔しそうに唇を噛んでいる。
「それだけではないのです。足に少々、火傷を……」
「火傷? 火の吐息でも食らったのか。平気か?」
エルメルアリアが少年をのぞきこむ。彼は小さくうなずいた。
「平気、平気。かすっただけだし。そのうち治るでしょ」
確かに、ロレンスの右足首には包帯が巻いてある。本人は言葉通りに平然としているが、フラムリーヴェは「私がついていながら」と、珍しく縮こまっていた。
人が出ていくばかりの広場に『彼』がやってきたのは、そんなときだ。
「ここにいたか」
聞く者の姿勢を正させるような、重みのある声。ヒワにとっては馴染みのない音だった。そしてまた、声の主も見覚えのない男性だ。しかし、すぐに友人の面影を見出して振り返る。ロレンスは明らかに目を泳がせていた。そして、それ以外の面々は、それぞれに驚きを露わにする。
エルメルアリアが緑の瞳をきらめかせる。
「エリゼオ。久しぶりだな。また老けたか?」
「……お久しぶりです、エルメルアリア殿」
ヒワは、ぎょっとして男性を見つめてしまった。エリゼオは無遠慮な挨拶にも表情を変えず、低頭する。それから、五人を順繰りに見た。
「どうされたんです、副支部長? 何か言伝でもございますか?」
カトリーヌが好奇心を隠そうともせず尋ねる。エリゼオは、「いや」と首を振った。
「愚息に言っておかねばならないことがあったのでな。探していた」
ロレンスの肩が跳ねる。ものすごく逃げ出したそうだったが、しぶしぶ顔を上げた。
「……なんでしょう」
「第一に。先刻、執務室から無断で飛び出したことについてだが――」
うっ、と少年と精霊人が同時にうめいた。エリゼオは気にすることなく続ける。
「状況と現場での働きを鑑みて、特別に不問とする」
二人の肩から力が抜ける。ヒワはその様子を興味深く見ていた。一方、エリゼオはそんな少女に一瞥もくれず話を繋ぐ。
「第二に。フラムリーヴェ殿との契約と、〈穴〉の調査への参加続行を認める」
ロレンスとフラムリーヴェが目をみはった。協会支部での出来事を知らないヒワたちは、思わず顔を見合わせる。
「でも、さっきは――」
「――ただし、調査の過程と結果は必ず報告しろ。定期連絡のついでで構わん。以上だ」
淡々とそう告げて、エリゼオは息子から顔を背ける。そのまま、颯爽と去っていった。
ヒワは、口を半開きにして濃紺のローブを見送る。
「い、行っちゃった……。まだ挨拶してないのに……」
困惑しているヒワのもとに、エルメルアリアが飛んでくる。彼は空中で膝を抱えて、「年取っても忙しねえな」などと呟いた。
その後ろで、ロレンスが深いため息をつく。
「……相っ変わらず、こっちの話は聞きやしないんだから」
「ですが、活動継続の許可は頂けましたよ。認められた、と解釈してよいのではありませんか」
苦虫を噛み潰したような表情のロレンスに、フラムリーヴェが力強く言う。ロレンスは「どうなんだろう」と低く呟いていた。
気まずい空気が五人の上を流れる。それを打ち払わんとばかりに、カトリーヌが手を叩いた。
「とにかく! ロレンスのお呼び出しについては、一件落着ってことでいいのかしら?」
「まあ……一応そうなる、のかな」
少年は、釈然としない、といわんばかりの表情でうなずく。カトリーヌはそこを追及せず、もう一人の『後輩』を振り返った。
「となると、次はヒワね!」
「うわあああ嫌なこと思い出したああああ」
ヒワは、頭を抱えて天を仰ぐ。この瞬間まで、定例会議のことなど頭から吹き飛んでいた。
一気にしおれた少女を、精霊人たちが困ったように見下ろす。とりあえず、エルメルアリアが彼女の背中をさすった。
フラムリーヴェが顎に指をかける。
「定例会議……この状況で、通常通り行うのでしょうか」
「さあな」と、エルメルアリアが頭を傾けた。
「でも、ヒワへの聴き取りはやるんじゃないか? ジラソーレからわざわざ来てるわけだし。派手に指揮術使っちまったし」
契約相手の何気ない言葉が、ヒワを打ちのめす。黒い頭は、ますます地面に近づいた。
「ううー……そんなつもりはなかったんです……」
「ここで弁解してどうするのさ」
ロレンスが呆れて眉を下げる。一方、カトリーヌとエルメルアリアは拳を握った。
「大丈夫よ! 実績がひとつ増えたわけだし、協会のおじ様たちも粗雑には扱えないはずだわ」
「そうだそうだ! なんてったって、王都を救ったんだからな。胸張ろうぜ!」
慰めとも激励ともとれる言葉は、傷だらけの身心をそっと撫ぜる。ヒワは不安を抱えたまま顔を上げ、曖昧に笑った。
※
複雑に入り組んだ路地の奥。赤子をあやすに似た、優しい旋律が流れる。そこに身をひそめていた大きな虫の魔物たちは、あっという間に眠りについた。
「『フリヤール』」
ルートヴィヒは、淡白に詠唱する。虫たちの周囲を氷で固めると、一息ついた。
「ヒワさんたちに知らせにいかなくちゃね」
強力な子守唄を歌ったマーリナ・ルテリアが、笑い含みの声で言う。ルートヴィヒは、ためらいつつも「そうだな」と答えた。――胸中を察したのか、青い人魚は鈴を転がすような笑声を立てる。
ルートヴィヒは、ため息をのみこんで、踵を返した。
――刹那。静電気に似た、それよりも冷たい痺れが首筋を走る。
ルートヴィヒは、とっさに抜剣した。白銀の刃が薄暗がりを撫ぜる。それよりも濃い闇が、どこからかにじみ出た。衝突する。火花が弾ける。すさまじい衝撃を受けて、ルートヴィヒはほんのわずか、後ずさった。
「何者だ」
誰何の声に、明確な答えはない。ただ、建具の軋む音を思わせる笑い声が、生ぬるい風に乗って流れてきた。
「あれれ? 防がれちった。ま、いっか。自慢の奴もぶちのめされちゃったみたいだし、退散退散っと」
声は、すぐ近くで聞こえているようでいて、どこから響いているのか判然としない。顔をしかめるルートヴィヒのそばで、マーリナ・ルテリアが眉を上げた。
「この魔力……精霊人? でも、何か――」
精霊人、の一言を聞いた瞬間、ルートヴィヒは息を詰める。剣を握り直し、駆けた。すぐ前の民家の壁を蹴り、屋根の上まで跳躍する。
「ルートヴィヒ!」
マーリナ・ルテリアもすぐさま追ってきた。
屋根の上に立ったルートヴィヒは、素早く周囲を見回す。――しかし、どこにも人影らしきものは見当たらなかった。
「マール。何か感じるか」
「魔力の残り香のようなものはあるわ。けど……出所はわからない。ごめんなさい」
「……いや、いい。仕方がないだろう」
ルートヴィヒは、うなだれる人魚を慰める。しかし、吹雪を閉じ込めたような瞳は、王都の町を鋭く見つめ続けていた。