6 行き掛かりの契約
唖然としているヒワの頭上で、少年は蝶のように飛び回る。
「たくよー。昨日は大変だったんだぜ。精霊に尋ね歩いてあんたの家を特定して、転送して。それからとんぼ返りして、魔物の送還もほとんどひとりでやったんだからな。ま、人間の精霊指揮士が魔物どもをあらかた叩きのめしてくれてたから、送還自体はすぐ終わったけど。それでも精霊人一人でさばく量じゃねえって」
怒涛の愚痴を、ヒワは黙って聞いていた。口を挟む隙がなかっただけ、ともいえる。
その一方、わかったこともある。彼が決して神秘的なだけの少年ではない、ということだ。昨日から薄々察してはいたが――よくしゃべる上に、言葉づかいが荒い。加えてなんだか上から目線だ。
もしや、面倒な相手と関わりを持ったのではないか。そんな考えが脳裏によぎる。しかし、助けてもらったのは事実だ。先ほどから気になることを言っているし、尋ねたいこともある。ヒワは逃げ出したい気持ちを堪えて、口を開いた。
「あ、あの。質問、いいですか」
「んあ? なんだ」
愚痴を止めて下りてきた少年に、ヒワは恐る恐る問いかける。
「昨日から気になってたんですけど……契約って、なんの契約ですか」
少年は、大きな目をこぼれんばかりに見開いた。嫌な予感を覚えたヒワは、身じろぎする。
「何って、決まってるだろ。精霊人と精霊指揮士の契約だよ。そのくらい知ってんだろ」
少年は、心底呆れた様子で答える。嫌な予感があっさり的中した。ヒワは、頭が取れんばかりの勢いで首を振る。
「わたし、精霊指揮士じゃないです」
「はあ? オレと契約できる時点で精霊指揮士だろ」
「そんなこと言われても困ります。指揮術を使ったことも、学んだこともありません」
ヒワは強い口調で否定を重ねた。ロレンスから指揮術の話を聞いたことはあるので、まったくの無知ではないつもりだが、精霊指揮士でないのは本当だ。一方的に話を進められてはかなわない。
少年は、目と口を力なく開いて固まっている。しばらくそうしてヒワを見つめた後、頭を抱えた。
「あー……ちょっと待て。質問に答える前に、状況と情報を整理しよう」
「はい。お願いします」
やっとその気になってくれたか、とヒワは胸をなでおろした。彼女がベッドの上で姿勢を正すと、少年も敷布に足をつける。
「そういや自己紹介もまだだったな。オレは〈翠緑の里〉のエルメルアリア。いわゆる精霊人ってやつだ」
少年――エルメルアリアが、小さな拳で胸を叩く。ヒワはひとつうなずいて、名乗り返した。
「ヒワ・スノハラです。ジラソーレ高等学校の一年生です」
ぺこりと頭を下げると、エルメルアリアはなぜか顔をしかめる。
「オレの名前を聞いて何も反応しねえ奴は、初めて見たぜ」
「え?」
「あんた、まじで精霊指揮士じゃねえな。『その家系』ですらない素人か」
「さっきからそう言ってるじゃないですか」
ヒワがむっとして返すと、エルメルアリアはまた頭を抱える。先ほどよりも濃い落胆の色がにじみ出ていた。
「なんてこった……貧乏くじ引いた……」
「いきなり失礼なっ!?」
貧乏くじ呼ばわりされたヒワは、思わず声を荒げる。しかし、エルメルアリアは彼女の抗議をまともに聞いていなかった。重々しいため息をついた後、色の悪い顔をのろのろと上げる。
「まさか、天外界や精霊人まで知らないとか言わないよな……?」
「それくらいは知ってますよ。『世界はひとつじゃない』って話でしょう」
そう。『この世界』はひとつではない。
いくつもの『世界』がパイ生地のように重なって、あるいはそれらを覆うようにして存在している。エルメルアリアが口にした天外界というのも、違う世界の名だ。ヒワたちの世界よりも魔力が豊富で、精霊や魔物、精霊人と呼ばれる種族が暮らしている。ヒワがそのことを話してみせると、少年の眉間のしわが少し浅くなった。
「へえ。意外と把握してるじゃねえか」
「『多重世界理論』は精霊指揮士じゃなくても習いますからね」
大仰に胸を反らしたヒワは、しかしそこで顔をこわばらせた。再び浮き上がったエルメルアリアを目で追う。
「そういえば、えっと、エルメルアリアさん?」
「おう?」
「さっき、精霊人って言ってましたよね。ってことはひょっとして、天外界から来たってことですか」
「そうだけど?」
エルメルアリアは、少女の推測をあっさり肯定する。
天外界の住人など、めったにお目にかかれない。一生に一度会えれば幸運、というところだ。ヒワは、そんな相手と話しているという事実に震えた。
「な、な、なんでわざわざ……! 世界間の移動って、色々決まりがあるんじゃ……」
「んー。あー。ひと通り話しておくか。あんたとオレの契約にも関係あるし」
それを聞いて、ヒワは口を引き結ぶ。目の前の精霊人が、間接的ながら最初の疑問に答えようとしてくれていることを知って、背筋が伸びた。
ひらりと飛び上がったエルメルアリアは、ヒワの顔の前で静止する。わずかなぶれも、乱れもない。右手の人差し指を立て、円を描いた。
「実は今、この『多重世界』でどえらい問題が起きててな」
「ど、どえらい問題……?」
「そう」
白くて細い人差し指が、天井を指す。
「世界と世界の境目に、いくつも〈穴〉が開いてるんだ」
――ヒワにとってそれは、理解しがたい言葉だった。言われたものを想像しようとして上手くいかず、顔をしかめる。
「あ、穴……? どういうことですか? 世界の境目に穴ってあくものなんですか?」
至極当然の疑問に対して、エルメルアリアはかぶりを振った。
「原因も原理も、まだわかってない。つーか、それを探ってる余裕がねえんだ。目の前の問題の対処に追われててな」
ヒワは最初、首をかしげた。しかし、遅れて言葉の意味を理解する。思い出すのは、昨日の商店街の惨状。天の果てから現れた魔物たちの姿だ。
「世界の境目に〈穴〉が開いたせいで、簡単に世界を行き来できるようになっちまった。精霊人も――魔物もな。というわけで、この天地内界にほかの世界の魔物が流れ込む事件が、あちこちで起きている。昨日の連中は、天外界の魔物だ」
今、もっとも〈穴〉の影響を受けているのは、ヒワたちが今いる天地内界と、エルメルアリアが住む天外界だ。というわけで、この二世界の王や首長、そして一部の精霊指揮士が対応を話し合った。結果、天外界から天地内界へ、えりすぐりの精霊人が派遣されることになった。
「オレは派遣されてきたうちの一人ってわけだ。任務は大きく分けて二つ。ひとつは天外界から出てきた魔物を送り返すこと。もうひとつは、各地の〈穴〉を調査して、可能であればふさぐこと」
己の顔を指さして得意げに語ったエルメルアリアはしかし、すぐに表情を引き締める。
「ただ、ひとつ難点があってな」
「……難点?」
「精霊人は、よその世界では全力を出せねえんだ」
――人でありながら精霊の性質を持ち、人間のそれとは質の異なる指揮術を扱える精霊人。しかし、その力を他世界で振るうときには制限がかかる。それは世界を乱さないために必要な仕組みだが、緊急時には厄介な足枷となってしまう。
「魔物の大群を送り返すのにも、〈穴〉を調べるのにも、この制限は邪魔だ。だから、一時的にでも解除できる状況を作らなきゃならない」
「何か方法があるんですか?」
身を乗り出して尋ねたヒワは、しかしそこで息をのむ。思わず枕を抱きしめた。エルメルアリアはその様子を見て、「わかったか」と不敵に笑った。
「精霊人がこの世界で制限から逃れる方法は、ひとつ。精霊指揮士との契約だ。精霊人の魔力を精霊指揮士に結び付けて、そいつの支配下に入る。そうすると、契約者が制限を解いたときだけ精霊人は全力を出せる、って寸法だ」
「それが……契約」
ヒワは、無意識に唾をのむ。ふと、以前聞いた指揮術の『契約』の話を思い出した。魔物を一時的ないし半永久的に使役するために行う儀式だったはずだ。それを精霊人に応用しているのだ、と気づいた瞬間、彼女の裡で赤黒いものがざわざわとうごめいた。無数の触手を伸ばし、胸の中をくすぐるそれは、吐き気となって表れる。
顔をしかめたヒワをよそに、エルメルアリアは軽い調子で呟いた。
「てなわけで、こっちに派遣された精霊人の大半は、まだ契約者探しに奔走してるだろうな。オレはまあ……運よく見つけたといえば見つけたが……」
「見つけた相手が、精霊指揮士見習いですらない素人だった、と」
「その通り」
乾いた応酬の後、二人揃ってため息をつく。
しばし額を押さえたヒワは、すがるようにエルメルアリアを見上げた。
「その契約って、解除できないんですか……?」
「できるぜ」
「できるんですか!?」
だめで元々、というつもりで尋ねたことをあっさり肯定されて、ヒワは思わず身を乗り出した。
エルメルアリアは、気乗りしない様子で語る。
「お互いが合意したうえで、決まった儀式を行えば契約解除。オレにかかれば難しいことじゃない」
「じゃあ――」
「ただし、そうなるとオレは、制限がかかった状態のままこの仕事をこなさなきゃならなくなる。それじゃ効率が悪すぎるし、不測の事態に対処できない」
エルメルアリアが宙返りした。プラチナブロンドの髪とつややかな緑の衣が舞い踊る。その姿に、ヒワは戸惑いの目を向けた。
契約者など、また探せばいいではないか。ヒワのそんな思いが顔に出ていたようで、エルメルアリアは空中で不満げに頬杖をついた。
「オレと契約できる精霊指揮士は、そんなに多くねえんだよ。百年に一人見つかればいい方だ」
「ひゃっ……!?」
百人の間違いではないか。ヒワは思わず尋ねそうになったが、結局、問いをのみこむ。エルメルアリアの表情は真剣だ。
「こちらとしては、やっとの思いで結んだ契約を解除したくはない。たとえ相手が素人でもな」
柳眉を寄せた彼は、再びヒワの目の前まで下りてくる。
「と、いうわけで。オレとあんたで世界を救おうじゃないか」
「無茶言わないでください!」
ヒワが反射的に怒鳴ると、エルメルアリアは唇を尖らせて目を逸らした。その姿はまるきり子供である。
「別に魔物の大群に突っ込めとは言わねえよ。制限の解除とかけ直しだけしてくれればいい。そうしたら、オレがちゃっちゃと仕事を終わらせてくる」
ヒワは、うっと声を詰まらせる。ここで妥協案を出されると断りづらい。威嚇する犬のようにうなっていると、遠くで扉の開く音がした。弾かれたように顔を上げる。
「あっ、やばい。コノメ帰ってきたかな」
「家族か?」
「姉です」
ヒワが端的に答えると、エルメルアリアは「ふむ」と唇に指をかける。かと思えば、軽やかに反転した。
「じゃ、オレはいったん商店街の様子を見てくる。その間に契約を続けるかやめるか、考えといてくれ」
「え? いや、ちょっと――」
ヒワは思わず緑の衣に手を伸ばした。直後、エルメルアリアは光に包まれて消える。少女の五指は、虚しく空を切った。