53 父子の対話
2025.6.1……描写修正
精霊指揮士協会アルクス王国支部。この国の精霊指揮士なら一度は訪れるであろう場所に、ロレンスも数度目の来訪を果たした。
ロレンスは、思ったよりも落ち着いていた。というのも、案内人のミケーレがかなり緊張していたので、逆に冷静になってしまったのである。
受付でミケーレと職員が話している間、ロレンスは広間をながめる。白と灰色ばかりのように見えて、観葉植物があったり壁にタペストリーがかかっていたりと、案外色彩豊かだ。一方で、人の出入りが激しい割に物音がしない。
「ここは、あまり変わっていませんね」
すぐ隣でフラムリーヴェがささやく。彼女の言葉は、ロレンスの内心を代弁してもいた。
「お二人とも」
ミケーレが戻ってくる。見ている方の力が抜けそうな笑みを浮かべた彼は、上を指さした。
「副支部長は二階の執務室にいらっしゃるそうです。ご案内しましょうか」
「いえ、大丈夫です。執務室なら、場所わかるので」
親切心からの提案を、ロレンスはやんわりと断る。元々ヒワを迎えにきていたミケーレに、自分の案内をさせるのが申し訳なかったからだ。ミケーレは態度を変えず「そうでしたか。では、ご武運を」と一礼して去っていった。会釈で応えたロレンスとフラムリーヴェは、連れだって歩き出す。
協会支部の見た目は変わらない。だが、ロレンスにとっては変わった点もあった。すれ違う人々に、ちらちらと見られることだ。隣にいる精霊人が原因なのはわかりきっている。エリゼオと会うのなら、と、いつもの鎧姿になっているので、余計に目立っているはずだ。見習いが精霊人と契約するなど前代未聞――いつかのカトリーヌの言葉を思い出して、ロレンスは少し身を縮めた。
執務室は二階のやや奥まったところにある。視線に気づかないふりをしながら二階に来たロレンスは、目的の扉の前に立った。木製の扉の真ん中に『在室中』の札がかけられている。
浅く、深呼吸。意識して背筋を伸ばし、三度、扉を叩く。
『はい』
すぐに返答があった。聞き覚えのある声が動揺を誘う。ぐっとこらえて、ロレンスは口を開いた。
「ロレンス・グラネスタです。エリゼオ・グラネスタ副支部長のお呼び出しに応じて参りました。こちらでよろしかったでしょうか」
『――間違いない。入りなさい』
今度は、少ししてから返事があった。かすれ声で「失礼します」と返したロレンスは、金色の把手に手をかける。出入りの動作を少しでもしくじれば叱責を賜ることは確実だ。緊張で、手が汗ばんでいた。
何台もの机が並ぶ部屋に、しかし活気はない。みな出払っているのか、出払わされているのか。在室しているたった一人の人は、窓際の席で何かの資料に目を通していた。彼は、ロレンスが扉を閉めると同時、立ち上がる。
「来たか、ロレンス。……フラムリーヴェ殿も」
「お久しぶりです。エリゼオ卿」
フラムリーヴェは、いつもと変わらぬ調子で挨拶をした。エリゼオ・グラネスタが小さくうなずく。
「ご無沙汰しております。最後にお会いしたのは十年前でしたかな」
にこりともせず言った彼は、二人の前に来ると、その顔をじっと見つめる。かすかな吐息が、冷えた空気を揺らした。
「確かに、契約が成立している。かの〈浄化の戦乙女〉が愚息を選ぶとは……何が起きるかわからんものだな」
ロレンスは息をのむ。この短い時間で契約が見破られるとは思っていなかった。
エリゼオは息子の様子を気にするふうでもなく、静かに切り出す。
「ロレンスよ。〈銀星の塔〉や会員の精霊指揮士からすでに報告は受けているが……おまえの口から改めて説明してもらおう。いつ、どのようにして、フラムリーヴェ殿と契約した?」
「――はい」
想定内の質問だ。ヒワではないが、その答えはすでに用意して、口に出す練習すらしていた。ロレンスは、早口にならないよう気をつけながら答えた。
「およそ二か月半前、彼女が私の前に現れて、契約を持ちかけてきました。〈穴〉の件は、そのときに聞きました。当初は精霊人の契約者となる自信がなかったので、一か月ほど『お試し期間』と称して共に行動し、その後、契約続行を決めて今に至ります」
幸い、緊張で我を忘れる前にすべてを話し終えることができた。さらに、フラムリーヴェが天外界で下された指令の具体的な内容と、ロレンスを見つけ出すまでの出来事を補足する。それを聞いたエリゼオはわずかに顎を動かして――ロレンスをにらんだ。
「なぜ、すぐに報告しなかった」
これもまた、訊かれるだろうと思っていたことだ。ロレンスは父から目を逸らさぬよう、顔じゅうに力を込める。
「その必要がないと判断したからです。相手が精霊人であれ魔物であれ、指揮術における契約とは、当事者同士の合意によって成立するもの。そこに社会的な制約はなく、協会に報告する義務もない。そうですよね」
「そこらの魔物相手の契約であれば、そうだ。だが、今回は話が違う。世界規模の異常に対処するための手段だ。その『対処』に関わっている組織に報告するのは当然のことであろう」
「ならば、〈銀星の塔〉への報告だけでも十分ではありませんか。〈穴〉のことは逐一あちらに伝えていますし、先の会合では関係者と顔を合わせてもいます」
「〈銀星の塔〉は精霊人の統治機構だ。おまえは精霊人ではなく人間だろう」
ロレンスは言葉に詰まった。父の言うことはもっともだ。だが、その物言いに対して、苛立ちにも似た反発心が沸き起こる。唇を噛んだロレンスの前で、エリゼオがあからさまなため息をついた。
「まあ、いい。今回の件で精霊人と契約した者に、報告義務を課していないのは確かだ。まして、おまえは協会に属しているわけではない。極秘事項ゆえ慎重になった、との見方もできる。精霊指揮士としては及第点と言ったところだろう」
「っ、なら――」
勢い込んで口を開いたロレンスを、エリゼオは手で制した。まだ話は終わっていない、と言わんばかりに。
「今度は協会の人間としてではなく、父として尋ねる。――なぜ黙っていた?」
エリゼオの眼光が、先ほどまでより鋭くなったようである。ロレンスは、後ずさりしそうになるのをなんとか堪えた。それでもさすがに、相手の顔を直視するのは難しい。
白いタイルをにらみ、呼吸の回数を数える。息苦しい沈黙の果てで、小さく拳を握った。
「……精霊人と契約した、なんて言ったら、あなたは絶対に怒るでしょう。兄たちより前に出るな、余計なことをするなと」
「当然だ。未だ見習いのおまえに、〈浄化の戦乙女〉の契約者など務まらん」
冷たく断言したエリゼオの両目が細る。眉間のしわが、いっそう深くなった。
「たったそれだけの理由で連絡を怠ったのか。くだらんな」
「……それだけ?」
父の一言を聞いたとき、ロレンスの中で何かが弾けた。炎よりも赤く、夜よりも暗いそれは、熱を発して全身を駆け巡り、満たす。
「なんで、わからないんですか。あなたがそういう態度をとるせいだって」
握りこぶしに力を込めて、抑えきれなくなったものを、音と一緒に吐き出した。
「いつもいつも兄たちばかり気にかけて。たまにこっちを見たかと思えば高圧的な説教ばかり。あれはだめ、これもやるなと頭を押さえつけておいて……こんなときだけ父親面か。そんな人に何を話せるっていうんだ!」
烈しい声が、ひと気のない執務室に響き渡る。肩で息をしていたロレンスは、父の顔が険しくなったのを見て、無意識のうちに身を固くした。右手を持ち上げかけたエリゼオはしかし、息子の隣を見て動きを止める。紫水晶の瞳が、剣のごとき輝きを放っているのを見つけたのだ。
結局、エリゼオは動かなかった。行き場をなくした右手を腰に当てる。
「おまえの感情など関係ない。親の庇護下にある以上、重大なことは知らせるべきというだけの話だ。そして、それを知った今、あえて言う。余計なことはするな」
「なぜ、ですか。私が実務経験のない見習いだからですか」
「そうだ」
「今まで、四つの〈穴〉をふさいで、魔物たちを送還したんですよ。それでも実績の証明にならないと?」
「それはフラムリーヴェ殿やエルメルアリア殿の功績だろう。おまえごときが一体、何の役に立ったというのだ」
ロレンスは、無意識のうちに息をのんだ。口を開いたり閉じたりして、結局何も言えずに押し黙る。装飾もごまかしもない言葉は現実を突きつけ、少年をしたたかに殴りつけたようだった。
執務室には、窓からまばゆいほどの陽光が差し込んできている。だというのに、室内は真冬以上に冷え切っているようであった。うなだれた息子を見下ろしたエリゼオは、刺繍の入ったローブをさばき、彼に背を向ける。
「……精霊人と契約したこと自体を責めはしない。責めようのない、呪いのようなものだからな。
だが、これ以上〈穴〉の調査と対処には関わるな。おまえが戦場に出たところで、フラムリーヴェ殿の足を引っ張るだけだ」
命令は、冷たく響いて降りかかる。
ロレンスは、ただ黙していた。反論の言葉は思い浮かばない。反論する気力もない。自分が間違っていたのだ。いつものように無関心を装って、ただ言うことを聞いていればいい。そう己に言い聞かせて、唇を震わせた。
そのとき、金属のこすれる音が響く。
「お待ちください。それは困ります」
凛とした声は、二人の意識を強烈に惹きつけた。青い視線がたった一人に集中する。
控えめに挙手したフラムリーヴェが、踏み出す。それを見て、エリゼオが軽く目をみはった。
「どういうことです、フラムリーヴェ殿」
「そのままの意味です。ロレンスが今後の任務に同行しないのは困ります」
エリゼオは今度、眉を寄せる。意味が解らない、とその目が語っていた。
「何が困ると言うのです。制限の解除とかけ直しさえ、正常に行えれば問題ないでしょう」
「そうでもありません。長時間、制限を解除した状態を保つということは、そのぶん内界に与える影響が大きくなるということです。精霊たちを興奮させてしまいますし、人間の中には彼らの様子に敏感な者もいます。精霊と親しい我らとしては、これを無視することはできません。制限を解除するのは短時間、なるべく〈閉穴〉の瞬間のみに留めるのが理想的でしょう。そのためには、契約者の同行は必須です」
ロレンスは、フラムリーヴェが指摘していることの意味に気づいた。ルートヴィヒたちを意識しているのだ。どこにも属していない彼らのことをうかつに話すわけにはいかないので、存在を伏せてはいるけれど。
エリゼオが、考え込むように黙る。フラムリーヴェはその間に畳みかけた。
「それに――私は一度も、ロレンスに足を引っ張られたと感じたことはありません。彼の指揮術による補助や状況判断は正確で、とても助かっています。私一人であれば、〈閉穴〉までにもっと時間がかかっていたでしょう。そばにロレンスがいればこそ、目の前の戦いに集中できるのです」
ロレンスは、呆然と相棒の横顔を見つめていた。考えてみれば、お互いをどう思っているかを真剣に語り合ったことなどない。彼女の自分への思いを聞いたのは、初めてだった。
契約者の視線に気づいていないのか、気づいていて知らぬふりをしているのか。フラムリーヴェは、冷たい面に驚きの色をにじませた男性と、毅然として向き合う。
「確かに、ロレンスは見習い精霊指揮士です。不安もあれば、心配もするでしょう。しかし――あなたはひとつ、重要なことをお忘れですよ。エリゼオ卿」
「……なんでしょう?」
うっそりと聞き返したエリゼオに、フラムリーヴェは胸を張ってみせる。
「ロレンスは、私が見つけ、私が選んだ契約者です」
その声は、戦場における指揮官の一声のようであった。あるいは、それを上回るかもしれない――そう思わせるほどの強さがあった。
呆気にとられるロレンスの横で、フラムリーヴェはまっすぐに立つ。
前を見ている双眸は、一見すると何の感情も宿していないかのようだ。だが、静けさの奥には、確かに熱があった。〈浄化の戦乙女〉の選択に口を出すのか、それほどの覚悟があるか。そう、一喝するかのような。
エリゼオもまた、そんなフラムリーヴェをひたと見つめる。
二人は少しの間、意志の刃を交わすように向き合った。音のない対決はしかし、思いがけない形で打ち切られる。突然目を見開いたフラムリーヴェが、窓の方をにらんだのだ。
「フラムリーヴェ?」
ただならぬものを感じ、ロレンスは呼びかける。直後、頭を真横から貫かれるような痛みを感じてよろけた。ほぼ同時、エリゼオも振り返る。
一秒にも満たない空白の後、轟音とともに部屋が揺れた。調度品がカタカタと音を立て、紙が乱舞し、筆立てなどの軽い物が次々と倒れる。
悲鳴を上げてつんのめったロレンスを、フラムリーヴェがとっさに支えた。同時、最も大きな揺れは去り、その余韻だけが残る。扉の向こうから悲鳴じみた叫び声が幾重にも連なって聞こえた。
地震ではない。強いて言えば、落雷の衝撃をうんと大きくしたようだった。そして、外から花の香りのように染み込んでくるものがある。――魔力だ。
あることに思い至ったロレンスは、とっさに駆け出した。落ちた物を蹴飛ばしながら走り、窓に飛びつく。
「ロレンス! 何を――」
厳しい父の声を振り切って、窓を開けた。熱と魔力を帯びた風が顔を圧して、焦げたような臭いを鼻に押し込んでくる。
外に広がる光景は、ロレンスが予想した通りのものであった。天から地に降る、異質な魔物たち。羽や浮遊の力を持つ者は空にとどまり、人間の町を睥睨する。彼らのそばの空は裂け、狭間から色とりどりの光と闇がのぞいている。
「これは、〈穴〉か!」
ロレンスは父の言葉に答えず、飛びのいて窓から離れる。そして、杖を構えた。
「『ドード・ルフ』!」
精霊たちの鬨の声は、人間の耳には届かない。代わりに、濃さを増して渦を巻く魔力が、それを伝えた。
暴風が巻き起こる。それは確かに魔物の方へ飛んだが、彼らにぶつかる前に力を失い、大気に溶けた。
ロレンスは歯噛みする。見習いごときの指揮術では、魔物の元まで届かない。それならば――と口を開いたとき、先ほどの父の言葉が耳の奥でこだました。
昏いことばが喉を締めつける。彼はそれでも息を吸い、声を絞り出した。
「フラムリーヴェ!」
「――お任せを」
笑みをはらんだ声が応える。炎色が舞い踊る。炎熱をまとって飛び出した戦乙女は、空に手刀でも叩きこむかのように、腕を振った。放たれた熱波によって空が歪み、空気が弾ける。一瞬後、沸き立っていた魔物たちが揃いも揃って跳ね飛んで、ぐったりと力を失った。しかし、〈穴〉と思しき裂け目からは、次から次へと魔物が出てくる。
「悠長に撃ち落としている暇はなさそうです。行きましょう、ロレンス」
「……うん」
逡巡したのは、ほんの一瞬。強くうなずいたロレンスは、再び窓辺に駆け寄った。フラムリーヴェは彼を抱きかかえると、窓枠に足をかける。その体勢で、室内を振り返った。
「途中退室となり申し訳ありません、エリゼオ卿。緊急時ゆえ、どうかご容赦ください」
エリゼオは、さすがに唖然として二人を見上げていた。しかし、フラムリーヴェは彼の返事を聞くことなく、窓枠を蹴る。飛び出した精霊人の腕の中で、ロレンスは杖を構え直した。
※
息子と精霊人が去ってすぐ、エリゼオは驚きから立ち直った。身をひるがえし、虚空を指で弾く。すると、回転する星型の光が現れた。協会から貸与されている伝霊だ。識別番号を小さく唱えて星を弾くと、それはいずこかへと飛んでいく。ほどなくして、虹色に輝く隼が現れた。隼――伝霊の持ち主の声が響く。
『副支部長か』
「はい、インヴェルノ支部長。お忙しいところ、申し訳ありません」
『いいや。ちょうどよかった。外の状況は見えているね?』
「はい」
『当座の指令を伝える。職員へ伝達してくれ。それが済んだら、支部長執務室まで来るように』
「承知いたしました」
その後、支部長が淡々と指示を伝える。エリゼオはそのすべてを正確に記憶した。
『では、頼んだよ』という一言を最後に音声が途切れる。隼が消え、入れ替わりに星型の光が戻ってきた。
エリゼオは、己の伝霊をしまうと、足早に執務室を出た。