50 決意と想いの衝突
その日の夕食の席で、ヒワは家族に王都へ行くことを話した。当然、母もコノメも驚きを露わにする。目を丸くした母は、すぐに眉を下げた。
「子供だけで、王都に? さすがに無茶じゃない?」
「えっと……わたしたちだけじゃないよ。現役の精霊指揮士が一緒だし。ロレンスの知り合いの人も、ついてきてくれるって。その人は大人だよ」
「うーん。それなら大丈夫、かな」
母は言いつつも、憂いを顔に浮かべている。そこで、煮魚を箸でつついていたコノメが目をきらめかせた。
「精霊指揮士って、もしかして今朝来た人? えっと、カティさん」
「そうそう」
「ああ。パヴォーネ・コーダで知り合ったっていう」
カトリーヌのことは、夕食前にすでに共有していた。そのときの話を思い出したのか、母の顔が少しほころんだ。
ヒワは一時安堵して、汁物に口をつける。味噌が手に入る目途が立たないため、塩味の野菜スープだ。一息ついた妹の方へ姉が顔を寄せた。
「またロレンスくんの課題に付き合うの? 最近仲いいよね、君ら」
「う……うん。仲はあんまり変わらないと思うけど」
ヒワは言葉を濁して、茶碗を置いた。
家族に説明するための「王都へ行く理由」はロレンスやカトリーヌと一緒にいくつか考えている。しかし、今はなぜか、それらがすっと口に出せなかった。突然かかった霧が言葉を見えなくしてしまっているようで。
「ヒワ」
ぎこちなく煮魚へ手を伸ばしたとき、対面から声がかかる。母が、じっと彼女を見ていた。
「何か、隠してない?」
箸を持つ手が止まる。コノメがきょとんとした様子で顔を上げた。一方のヒワは、つい目を逸らす。
「え、と……」
答えなければ。そう思うのに、言葉が出なかった。沈黙と心の隙間に、母の言葉が染み込んでくる。
「今に限った話じゃない。ここしばらく、黙っていることがあるでしょ。――私たちに話せないようなことをしているの? ロレンスくんに何か言われてる?」
「違う! ロレンスは悪くない。むしろわたしが――」
わたしが巻き込んだようなもの。そう言いかけて、ヒワは慌てて言葉をのみこんだ。
王都行の理由を正直に話せば、ヒワが精霊指揮士まがいの活動をしていることも明かさなければならなくなる。それはエルメルアリアとの契約に繋がり、最終的に〈穴〉の話に行きついてしまう。それだけは、何としても避けねばならなかった。
〈穴〉のことは関係者以外に話してはならない。最初の頃、エルメルアリアにそう言い含められた。しかも、彼が勝手に言ったのではなく、〈銀星の塔〉からの指示だ。その指示が撤回されていない以上、ここで打ち明けるわけにはいかない。
母と姉の視線が突き刺さる。ヒワはうつむいて箸を置いた。ひきつる喉をなだめて、泣きそうな自分を叱咤して。どうにか口をこじ開ける。
「……確かに、お母さんにもコノメにも、どうしても話せないことがある。でも、犯罪に手を出したとか、誰かに脅されてるとか、そういう話じゃない。今回、王都に行くのだって。それだけは信じて」
凍りつきそうになる頭を回転させ、なんとかそこまで言った。
恐る恐る顔を上げる。母は険しい表情のままだ。
「本当にそう言い切れる? 思い込んでるだけじゃないの?」
「そんなことない」
「理由は?」
「だから、話せないんだって」
「それじゃ、何がなんだかわからないよ」
堂々巡りだ。ヒワは反論を考えるのも嫌になって、しかめっ面のまま食事に手をつけた。そんな彼女をコノメが箸をくわえて見つめ、母は何やら考え込んでいるふうだった。
ヒワが米をかき込んだところで、母が「ねえ」と切り出す。しかし、ヒワは答えずに席を立った。「ごちそうさま」と言い残して食卓を離れる。
「あっ。こら、ヒワ! まだ話は――」
母が珍しく声を荒げた。ヒワは反応しないように努める。何度か呼びかけられたのも無視して、部屋に駆け込んだ。
※
扉を開け閉めする音が響く。ヒワの動作にしては乱暴だと、コノメはぼんやり思った。母が愚痴っぽく呟くのを聞きながら、とりあえず食事を再開する。
「まったく。ヒワがあんなにへそ曲げるなんて、いつ以来だか……」
「中一以来じゃない? 不登校になりかけてた頃」
雑に返して、コノメは野菜スープに口をつける。そのとき思い出したのは、ヒワがパヴォーネ・コーダにへ行く直前のやり取りだった。居間に忘れられていたノートを返しにいって、植物を置いたのかと尋ねたときだ。
「へそ曲げてるっていうより、無理やり一人で抱え込んで空回りしてるように見えるけどね」
コノメが呟くと、母は目を瞬いた。
「それじゃ、余計まずいじゃない」
「どうだろうねー。むしろ、私らが口出さない方がいいんじゃない? 少なくとも、ロレンスくんは味方みたいだし」
「……コノメ。何か心当たりがあるの?」
母が低い声で問うてくる。
次いでコノメの脳裏に浮かんだのは、今日見たばかりの妹の部屋。正確には、そこに置いてある鞄からのぞいていた物だ。しかしコノメはそのことを口に出さず――
「さあ? わかんない」
それだけ答えて、残り半分の煮魚を征服しにかかった。
※
部屋に逃げ込んだヒワは、勢いよく扉を閉める。思いのほか大きな音が響いて、心臓が飛び跳ねた。
自分で立てた音に驚くなど、滑稽にもほどがある。ヒワはため息をついて、ベッドに身を投げ出した。
「ヒワ」
上から声が降ってくる。ヒワは弾かれたように顔を上げた。
窓辺に小さな少年が座っている。いつもは輝いているようにすら見える髪や衣が、少し色褪せている気がした。
エルメルアリアは、黙ったままのヒワを見つめる。その瞳が、わずかに揺らいだ。
「悪い」
かすれた謝罪は、少女の胸を深くえぐる。ヒワはとっさに体を起こした。
「エラは悪くないよ。わたしが上手くやれなかっただけで――」
「上手くやらなくていい」
何かを押し殺したような声が、さえぎる。窓から下りたエルメルアリアは、ヒワのもとまでやってきて、目の前に座った。
「嘘をつくのなんか、上手くならなくていい。ヒワはそのままでいい。この件に関しては、嘘をつかせてるオレたちが悪いんだから」
エルメルアリアは、努めて優しく語りかけてくる。だが、その声には、顔には、ヒワの知らない苦渋の色がのぞいていた。ヒワは、無意識のうちに敷布をきつく握る。
「わたし、やめないよ」
エルメルアリアが首をかしげる。怪訝そうな彼を見据え、ヒワは改めて宣言した。
「天外界の魔物の送還も、〈穴〉をふさぐことも、エラとの契約も。――絶対、やめないから」
そのとき、エルメルアリアがどんな表情をしていたのか、ヒワにはわからない。顔は見ていたはずなのに、表情は霧がかかったように認識できなかった。ただ、直後に彼が手を伸ばしてきたのは、わかった。
小さな手が頭をなでる。
「そりゃあよかった」
笑い含みの声は、しかしどこか痛々しく響いた。
※
列車が走る。古びた線路の上を、力強く走る。そのたび、お世辞にも快適とはいえない震動が車内に伝わった。
ルートヴィヒは、その振動に眉をひそめつつも、ひとり車窓の外をながめていた。徒歩での旅に慣れている彼は、めったに列車や魔動車を利用しない。今、珍しく列車に乗っているのには、理由があった。
ややして、駅への到着を告げる車内放送が響く。ほどなくして列車が減速し、止まった。それなりに大きな駅らしく、かなりの数、人が入れ替わる。ルートヴィヒは変わらず窓の外をながめていたが――近づく人の気配に気づき、顔を上げた。
「すみません。相席よろしいですか?」
低く、温かみのある声がかかる。ルートヴィヒはちらりと通路側に顔を向けた。黒髪を短く切りそろえた男が立っている。質素なシャツとズボン、その上から薄手の上着を羽織っており、いかにも重そうな鞄を持っていた。衣服に染みついてしまっているのか、かすかに獣の臭いがする。それだけは気になるが、自分の邪魔をしてくる相手ではなさそうだ。そう思い、ルートヴィヒは小さく顎を動かした。
「構わない」
「ありがとうございます」
男はどことなく不器用さを感じる笑顔を見せる。鞄を上の棚に上げると、対面の席に腰かけた。ルートヴィヒに気を遣っているのか、揃えた両足を自分の方へ引き寄せる。
ちょうどその頃、列車が再び走り出した。二人は二駅分ほど無言の時間を過ごした。三駅目を出たあたりで、ごそごそと音がする。ルートヴィヒが向かいを見ると、男は地図を広げていた。王都の地図だ。彼はそれを熱心に指でなぞっていたが、あるときふと顔を上げる。
「あ、すみません。うるさかったですかね」
視線を感じたのだろう。肩をすくめる彼に、ルートヴィヒは「いや」と言った。
「行き先が一緒だと思ってな」
すると、男は黒茶の目を輝かせる。
「あなたも王都に行かれるんですね。観光ですか? それとも、ご家族がいらっしゃるとか?」
「家族ではないが。人と待ち合わせている」
素っ気なく答えると、男は「そうでしたか」とほほ笑んだ。
ルートヴィヒの言葉は本当だ。待ち合わせの相手は、マーリナ・ルテリアである。
サーレ洞窟で世界の境目に開いた〈穴〉のことを知った後、彼女は故郷の水底界に戻った。その間、ルートヴィヒはひとり人々の頼みごとを引き受けながらパヴォーネ・コーダ周辺を行ったり来たりしていた。
そして先日、マーリナ・ルテリアから指揮術を用いて連絡があった。水底界の現状を把握したこと、自身の家の周辺は大きな被害を受けていないこと、すぐに戻っても支障はなさそうだということ。それを聞いたルートヴィヒは、彼女と話し合って、王都で落ち合うことにした。その近郊にある泉に、世界を繋ぐ門が開くと聞いている。慣れぬ列車を移動手段に選んだのは、指定の日までに確実に王都へ辿り着くためだった。
「……そちらは、王都に何をしに行くんだ?」
今度は、ルートヴィヒが男に尋ねた。これといって思惑はない。ただ、多少は話に乗った方がいいかと思っただけだ。
男は変わらず人の好さそうな笑顔で答える。
「学会主催の講演会を聴きにいくんです。毎年一回は出席しなきゃいけないやつで」
「学会……」
ルートヴィヒは、ささやきに近い声で彼の言葉を繰り返す。
学者だろうか。一瞬、そんな考えが浮かぶ。だが、すぐに自ら否定した。どちらかといえば医者の類だろう。――今は上の棚にある鞄の中から、かすかに消毒液と薬品の臭いがした。彼に染みついている臭いのこともある。
あれこれと推測が浮かぶ。ルートヴィヒはそのすべてを、吐息とともに追い出した。旅の途中、ほんのひと時居合わせた人間のことを詮索したとて、何にもならない。
「……他人の長話を聴くのが義務とは、なんとも窮屈だな」
「ははは。まあ、あれもあれで勉強になりますから。悪くないものですよ」
ルートヴィヒが質問の代わりに呟くと、男は穏やかに笑って地図を畳んだ。
列車が走る。この国の都へ向けて。