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春風のサーガ【第一部】  作者: 蒼井七海
第一章 春と風のプロローグ
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5 爪痕

 それから何がどうなったのか、ヒワは知らない。目が覚めたら自室のベッドで寝ていた。


 ほら、やっぱり夢だった。そう思おうとしたが、青ざめた母が自分の手を握っているのに気づくと、淡い期待を自分で打ち消した。


 姉のコノメもそこにいた。といっても、彼女は動揺している母に代わって、こまごまと動き回っているようだ。


 夢と(うつつ)を行き来して、未だにどちらにいるのかわからない。さ迷う中で、ヒワはお使いに関わる重大事項を思い出した。


「買ったオレンジ、魔物に投げつけちゃった。ごめんなさい」


 彼女が寝ぼけたままで「重大事項」を口にすると、母はとうとう声を上げて泣き出した。そんなことはいい、と強い口調で言いながら手を握ってくる母を、戸惑いながら見ていた。


 母が落ち着いた後で、ヒワは今に至るまでの経緯を聞いた。


 まず、普段より早めに帰宅したコノメが商店街の騒ぎを知った。妹が買い出し担当だったと思い出した彼女は、慌てて家を飛び出した。すると、玄関前に買い物袋を抱えたヒワが倒れていた。コノメは驚きつつも妹を家に運び込んで母に連絡した、という流れである。


 もちろん、商店街から自力で帰ってきた覚えは、ヒワにはない。とすると、あの神秘的な少年が何かしたのだろう。


 ヒワは目視で彼の姿を探したが、どこにも見つけられなかった。家族に尋ねても、沈んだ声で「知らない」と言われただけだ。恐怖のあまり幻覚を見たとでも思われているのかもしれない。余計な心配をかけるのは嫌なので、少年のことを追及するのはあきらめた。


 だるさは残っていたものの、肩と手の傷はなぜか治っている。なので、ヒワはすぐにベッドから起きて居間で過ごした。そして夕食の後、体を拭くことすらせず泥のように眠った。


 翌朝、ヒワはいつものように出かける支度を始めた。制服に袖を通す頃には、パンと珈琲コーヒーの香りが漂ってくる。鞄を持ってよたよたと居間に出ると、なぜかコノメがしかめっ面を向けてきた。


『――ソーラス院附属指揮術研究所によると、天外界(てんがいかい)に生息する魔物の可能性が高いということです。国は専門の調査チームを立ち上げ、各地の精霊指揮士コンダクターと連携して原因の究明を進めるとともに――』


 去年の暮れに導入したばかりのラジオから、淡々とした女性の声が流れている。ヒワは最初、なんの話かわからなかった。しかし、遅れて気づく。昨日の事件が報道されているのだ。


「やっぱり大変なことになってる」

「学校やってんのかな、これ」

「何も連絡ないから、やってるでしょ」


 てきぱきと朝食を用意している母。彼女を見上げて、コノメが新聞を弄ぶ。「ちぇー」と唇を尖らせた長女に苦笑した母は、けれどすぐにため息をついた。


「ヒワがなんともなくてよかったわよ」

「そうだね。……ってかヒワ、学校行く気?」


 姉に呼びかけられたヒワは、ふと顔を上げた。新聞を開いたり畳んだりしている彼女を見つめ、目を瞬く。


「うん、行くよ。どこも悪くないし」

「いやいや、でもさ――」


 コノメはじろりと妹をにらんだ。


「――それ、学校用の鞄じゃないでしょ」

「へ?」


 指摘され、ヒワは自分の手もとを見下ろす。通学鞄を持ってきたつもりが、そこにあったのは休日の外出に使うショルダーバッグだった。


「げっ。間違えた」

「あと、左右で靴下の色違う」

「ええ?」


 ヒワは自分の足を見下ろして、急に恥ずかしくなった。白い靴下を選んだつもりが、なぜか左足に灰色の靴下を履いていたのである。ぎゃあ、と叫んだヒワを見て、コノメが母に手を振った。


「お母さーん。ヒワ欠席でー」

「はいはい。どっかで『伝霊(でんれい)』借りなきゃね」

「待ってええええ! 行くうううう」


 ヒワは半泣きでショルダーバッグを放り出した。しがみついてくる妹を引きはがしながら、コノメが目をすがめる。


「はーなーせー。一日二日休んだくらいで何にも起きないから。それとも、受けたい授業でもあんの?」

「別にないけど……」

「じゃあ、何がそんなに気になるの」


 言葉に詰まったヒワは、姉の制服の袖をつかんだままうつむく。声を封じようとする喉を、どうにかこうにかこじ開けた。


「……ひとりになりたくない」


 ぽつりと呟いた瞬間、両目に涙が盛り上がる。雫は透明な筋となって、頬を次々伝い落ちた。


 息をのんだコノメと母が顔を見合わせる。


「……お母さん、仕事休めん?」

「昨日掛け合ってみたんだけど、無理そう。『娘さんに怪我とか体調不良とかがないなら来てほしい』って」

()()は体調不良じゃないの?」


 幼子のように泣きだしたヒワの頭をコノメがなでる。その手つきは、少し荒っぽかった。


「……それこそ、昨日の事件関連でのお休みが多くて、私まで休んだら回らないんだって。家族が重傷って人もいるみたいだし」


 答える声も重い。食器の音とラジオの声だけが響く中、コノメがため息をついた。


「んじゃ、私が休むか早退する」

「ちょっと、コノメ?」

「事情が事情だし、先生もダメとは言わないでしょ」


 つんと顎を逸らすコノメに、母は「もう」と呆れたように返す。ただ、娘たちへ注がれたまなざしは、優しかった。



 結局、ヒワは朝食後、部屋に押し込まれた。制服のままベッドで丸まり、枕を抱える。


「ごめん。なんかわたし、変だ」


 枕を抱えたまま言うと、コノメが「やっと気づいたか」と笑った。ただ、声はすぐに沈む。


「……こっちこそ、悪かった。あんたの心にまで気が回らなかった」


 姉の謝罪に、ヒワは無言で首を振る。枕を抱えたままなので、相手の表情は見えなかったが、苦笑したような気配が伝わってきた。


「頑張って早退もぎ取ってくるから、ちょっとだけ我慢してな」

「早退って、もぎ取るものだっけ?」


 ヒワは、思わず枕から顔を離して振り返る。腰に手を当てているコノメが、ぶはっと吹き出した。


 少しだけ笑い合った後、コノメは「じゃ、また後で。休んでなよ」と告げて出ていく。


 ヒワは、控えめな音を立てて閉まった扉をしばらく見つめていた。


 ――それから少しして、家の中が静かになった。二人とも出ていったらしい。そうとわかるとやはり心細くなって、ヒワは再び枕を抱きしめた。


 時計の針の音を聞くだけの時間が、しばし過ぎる。ひとりの沈黙に耐えられなくなったヒワが身を起こしたとき――風が、頬をなでた。


「え?」


 どこかの窓が開いていただろうか。部屋を見回したヒワの目に、緑色の光が飛び込んできた。


「うわっ!」

「よぉ! 具合はどうだ、契約者殿」


 ヒワしかいないはずの部屋に、澄んだ声が響く。驚いてのけぞった彼女は、光の中から現れた相手を見て、叫んだ。


「あっ。き、きみは――」


 ヒワの鼻先に浮いていたのは、昨日の少年だった。彼は引きつった少女の顔を見ると、目を細めて空中で一回転する。


「なに驚いてんだよ。契約を持ちかけてきたのはあんただろ?」

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― 新着の感想 ―
ヒワさんのお母さん・お姉さんにはいっぱい心配をかけちゃいましたね(;´・ω・) 仕事を休めないお母さんも本当はヒワさんの傍にいてあげたいだろうし、コノメさんはすごく妹思いのお姉さんだと思います! エ…
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