5 爪痕
それから何がどうなったのか、ヒワは知らない。目が覚めたら自室のベッドで寝ていた。
ほら、やっぱり夢だった。そう思おうとしたが、青ざめた母が自分の手を握っているのに気づくと、淡い期待を自分で打ち消した。
姉のコノメもそこにいた。といっても、彼女は動揺している母に代わって、こまごまと動き回っているようだ。
夢と現を行き来して、未だにどちらにいるのかわからない。さ迷う中で、ヒワはお使いに関わる重大事項を思い出した。
「買ったオレンジ、魔物に投げつけちゃった。ごめんなさい」
彼女が寝ぼけたままで「重大事項」を口にすると、母はとうとう声を上げて泣き出した。そんなことはいい、と強い口調で言いながら手を握ってくる母を、戸惑いながら見ていた。
母が落ち着いた後で、ヒワは今に至るまでの経緯を聞いた。
まず、普段より早めに帰宅したコノメが商店街の騒ぎを知った。妹が買い出し担当だったと思い出した彼女は、慌てて家を飛び出した。すると、玄関前に買い物袋を抱えたヒワが倒れていた。コノメは驚きつつも妹を家に運び込んで母に連絡した、という流れである。
もちろん、商店街から自力で帰ってきた覚えは、ヒワにはない。とすると、あの神秘的な少年が何かしたのだろう。
ヒワは目視で彼の姿を探したが、どこにも見つけられなかった。家族に尋ねても、沈んだ声で「知らない」と言われただけだ。恐怖のあまり幻覚を見たとでも思われているのかもしれない。余計な心配をかけるのは嫌なので、少年のことを追及するのはあきらめた。
だるさは残っていたものの、肩と手の傷はなぜか治っている。なので、ヒワはすぐにベッドから起きて居間で過ごした。そして夕食の後、体を拭くことすらせず泥のように眠った。
翌朝、ヒワはいつものように出かける支度を始めた。制服に袖を通す頃には、パンと珈琲の香りが漂ってくる。鞄を持ってよたよたと居間に出ると、なぜかコノメがしかめっ面を向けてきた。
『――ソーラス院附属指揮術研究所によると、天外界に生息する魔物の可能性が高いということです。国は専門の調査チームを立ち上げ、各地の精霊指揮士と連携して原因の究明を進めるとともに――』
去年の暮れに導入したばかりのラジオから、淡々とした女性の声が流れている。ヒワは最初、なんの話かわからなかった。しかし、遅れて気づく。昨日の事件が報道されているのだ。
「やっぱり大変なことになってる」
「学校やってんのかな、これ」
「何も連絡ないから、やってるでしょ」
てきぱきと朝食を用意している母。彼女を見上げて、コノメが新聞を弄ぶ。「ちぇー」と唇を尖らせた長女に苦笑した母は、けれどすぐにため息をついた。
「ヒワがなんともなくてよかったわよ」
「そうだね。……ってかヒワ、学校行く気?」
姉に呼びかけられたヒワは、ふと顔を上げた。新聞を開いたり畳んだりしている彼女を見つめ、目を瞬く。
「うん、行くよ。どこも悪くないし」
「いやいや、でもさ――」
コノメはじろりと妹をにらんだ。
「――それ、学校用の鞄じゃないでしょ」
「へ?」
指摘され、ヒワは自分の手もとを見下ろす。通学鞄を持ってきたつもりが、そこにあったのは休日の外出に使うショルダーバッグだった。
「げっ。間違えた」
「あと、左右で靴下の色違う」
「ええ?」
ヒワは自分の足を見下ろして、急に恥ずかしくなった。白い靴下を選んだつもりが、なぜか左足に灰色の靴下を履いていたのである。ぎゃあ、と叫んだヒワを見て、コノメが母に手を振った。
「お母さーん。ヒワ欠席でー」
「はいはい。どっかで『伝霊』借りなきゃね」
「待ってええええ! 行くうううう」
ヒワは半泣きでショルダーバッグを放り出した。しがみついてくる妹を引きはがしながら、コノメが目をすがめる。
「はーなーせー。一日二日休んだくらいで何にも起きないから。それとも、受けたい授業でもあんの?」
「別にないけど……」
「じゃあ、何がそんなに気になるの」
言葉に詰まったヒワは、姉の制服の袖をつかんだままうつむく。声を封じようとする喉を、どうにかこうにかこじ開けた。
「……ひとりになりたくない」
ぽつりと呟いた瞬間、両目に涙が盛り上がる。雫は透明な筋となって、頬を次々伝い落ちた。
息をのんだコノメと母が顔を見合わせる。
「……お母さん、仕事休めん?」
「昨日掛け合ってみたんだけど、無理そう。『娘さんに怪我とか体調不良とかがないなら来てほしい』って」
「これは体調不良じゃないの?」
幼子のように泣きだしたヒワの頭をコノメがなでる。その手つきは、少し荒っぽかった。
「……それこそ、昨日の事件関連でのお休みが多くて、私まで休んだら回らないんだって。家族が重傷って人もいるみたいだし」
答える声も重い。食器の音とラジオの声だけが響く中、コノメがため息をついた。
「んじゃ、私が休むか早退する」
「ちょっと、コノメ?」
「事情が事情だし、先生もダメとは言わないでしょ」
つんと顎を逸らすコノメに、母は「もう」と呆れたように返す。ただ、娘たちへ注がれたまなざしは、優しかった。
結局、ヒワは朝食後、部屋に押し込まれた。制服のままベッドで丸まり、枕を抱える。
「ごめん。なんかわたし、変だ」
枕を抱えたまま言うと、コノメが「やっと気づいたか」と笑った。ただ、声はすぐに沈む。
「……こっちこそ、悪かった。あんたの心にまで気が回らなかった」
姉の謝罪に、ヒワは無言で首を振る。枕を抱えたままなので、相手の表情は見えなかったが、苦笑したような気配が伝わってきた。
「頑張って早退もぎ取ってくるから、ちょっとだけ我慢してな」
「早退って、もぎ取るものだっけ?」
ヒワは、思わず枕から顔を離して振り返る。腰に手を当てているコノメが、ぶはっと吹き出した。
少しだけ笑い合った後、コノメは「じゃ、また後で。休んでなよ」と告げて出ていく。
ヒワは、控えめな音を立てて閉まった扉をしばらく見つめていた。
――それから少しして、家の中が静かになった。二人とも出ていったらしい。そうとわかるとやはり心細くなって、ヒワは再び枕を抱きしめた。
時計の針の音を聞くだけの時間が、しばし過ぎる。ひとりの沈黙に耐えられなくなったヒワが身を起こしたとき――風が、頬をなでた。
「え?」
どこかの窓が開いていただろうか。部屋を見回したヒワの目に、緑色の光が飛び込んできた。
「うわっ!」
「よぉ! 具合はどうだ、契約者殿」
ヒワしかいないはずの部屋に、澄んだ声が響く。驚いてのけぞった彼女は、光の中から現れた相手を見て、叫んだ。
「あっ。き、きみは――」
ヒワの鼻先に浮いていたのは、昨日の少年だった。彼は引きつった少女の顔を見ると、目を細めて空中で一回転する。
「なに驚いてんだよ。契約を持ちかけてきたのはあんただろ?」