48 真夏の来訪者
『続いて、気象情報をお伝えします。アルクス王国南部は広い範囲で一日晴れ。ただ、シルエラ周辺では昼過ぎから雲のかかるところがあるでしょう。お出かけの際は、天気の急変にご注意ください。気温は平年並みか平年より高く――』
低い男性の声が気象情報を伝えている。時折雑音が入ることもあるが、昔からある食堂などで聞く古いラジオよりは、ずっと聞き取りやすい。
ヒワ・スノハラは、ラジオの音に耳を傾けながら新聞を広げている。真面目に読んでいるわけではない。適当にめくって、気になる記事や挿絵があったら手を止める、その程度だ。
「あ、ヒワちに新聞取られた」
洗面所から姉のコノメが顔を出す。ヒワは、あっ、と言って、いびつに笑った。
「ごめん、読む?」
「いや。お先にどうぞ」
コノメはひらりと手を振る。タオルを洗濯かごに投げ入れ、弾むような足取りで居間へやってきた。
「この時間からヒワが居間にいるの、久しぶりだね。シルヴィーさんがいないから?」
「あー……まあ、それもある」
ヒワは答えを濁して、意味もなく新聞の文字列をながめた。
夏休みに入ってから、ヒワは朝食ができあがるまで居間にいなかった。シルヴィーのランニングに付き合うか、家族には存在を隠している相棒――エルメルアリアと指揮術の練習をしているか、どちらかだったのである。
ところが、シルヴィーは三日前から家族とバカンスに出かけたので不在。エルメルアリアも今朝は『友達予備軍』に呼ばれて町に出ていった。そのため、ヒワはいつもより早く朝の活動を切り上げて、こうしてくつろいでいる。
コノメが椅子に座りかけたところで、母が台所から顔を出した。
「そこのお嬢さん二人。ご飯の準備手伝って」
「ほーい」と気の抜けた返事をして、コノメが台所へ駆けていく。ヒワはひとまず、彼女から投げ渡された布巾を受け取り、机を拭いた。
パンやビスケットを乗せた皿と珈琲を並べ終わると、四人中三人の家族が集合する。「いただきます」の声が揃った後、朝食の時間が穏やかに始まった。
アルクスとヒダカ、二国の血と文化が入り混じったこの家では、朝食の献立はアルクス式、夕食の献立はヒダカ式という原則がある。もそもそとパンを食べていたヒワの耳に、姉と母の何気ない会話が飛び込んできた。
「そういえば、お父さんっていつ帰ってくるんだっけ。お母さん、なんか聞いてる?」
「あ、そうそう。再来週、王都で講演会があるから、それに参加してから帰ってくるって。だから……月末になるかな」
「ほう。それじゃ、少しはみんなで遊べそうか」
コノメが珈琲に浸したビスケットをかじる。咀嚼してから、首をかしげた。
「講演会って、毎年やってるやつだよね。楽しいもんかな」
「義務だよ、義務。毎年参加しなきゃいけないの。学会の決まりでね」
「うわ、なるほど。めんどくさあ」
「そこそこためになる話が聴けるみたいだし、悪くはないんじゃない? 私はちょっと興味ある」
ヒワはそれを聞き流していたが、ふと食事の手を止める。精霊指揮士にはどんな決まりがあるのだろう。そんなことを考えたのは、彼女自身がすっかり『精霊指揮士界隈』に浸かりきってしまったからだ。今度ロレンスに訊いてみよう、と胸中で呟いて、牛乳をたっぷり注いだ珈琲に手を伸ばした。苦いのは苦手なのだ。
「……そういえば、ヒワち。この前から気になってたんだけど、その髪留め、どうしたの?」
ふいに姉から問いかけられて、ヒワは珈琲牛乳を吹き出しかけた。それを回避した代償にむせてしまう。ひとしきり咳き込んだ後、話題の髪留めに触れた。
「ああ。こ、これね。もらったんだ」
「へえ。誰に?」
「誰かっていうと……ええと」
「もしかしてロレンスくん? あの子、そういう贈り物しなさそうだけど」
「あ、いや……」
ヒワは目を泳がせる。ここでさらりと「そうだよ」とでも言えればよかったのだが、そんな器用さはない。それに、もう一人の友人ロレンスは最近しょっちゅう家に来る。何かの弾みで嘘がばれたら、それはそれで大惨事だ。
口ごもった妹――あるいは次女――から何を読み取ったのか、女性二人の表情が変わる。コノメはにやりと笑い、母は驚いた様子で口を押さえた。
「え、何? もしかして、あたしらの知らない男?」
「ち、違う違う!」
ヒワはとっさに否定したが、その声は弱々しい。男でないのは本当だ。ただし、同性でもない。そこをどうごまかせばよいのか、という迷いがにじみ出てしまっていた。コノメたちは別の受け取り方をしたようで、楽しそうな顔を見合わせる。
「ヒワ……ロレンスくんという男がありながら……」
「だから違うって! ロレンスとは友達だけど、付き合ってるわけじゃないし!」
「お母さんは応援するよ。あ、でも、お父さんがなんて言うかな」
「お母さんまで乗らないでよ!」
あっという間に黄色い声が部屋を満たす。スノハラ家の食卓は、浮ついた話などまるでなかった次女の恋(誤解)という燃料を注がれ、いつになくにぎわったのだった。
朝食後、母が仕事にでかけると、家はいつもの静けさに包まれる。ヒワとコノメはそれぞれの部屋で宿題に取り組んでいた。ヒワが宿題を終えたとき、家の呼び鈴が鳴る。ヒワは立ち上がりかけたが、すぐに着席した。コノメの足音が聞こえたからだ。
筆記用具を片付け、友人から借りた『指揮術実践 基本編』という本を開く。栞を挟んだページを開いたとき、部屋の扉が叩かれる。
『ヒワち~。姉さんだぜ~。入っていい?』
「いいよ」
らしくない挨拶に、笑いを含んだ返事をする。一瞬後、扉がほんの少し開いて、コノメが顔だけを隙間に突っ込んだ。
「ヒワにお客さん」
「え?」
思いがけない発言に、ヒワは一瞬すくんだ。
「誰? シルヴィー……はいないはずだし。ロレンス?」
「じゃ、ないんだよなあ、それが。知らん人」
「え、ええ?」
思わず身を縮めてしまう。名前を挙げた二人以外に、家まで訪ねてくる人の心当たりがない。
正直、怖さはあった。が、コノメが「一緒にいるから」と言ってくれたので、会ってみることにした。小走りで玄関へ向かう。開いた扉の前に立つ人物を見て――「は?」と叫んだ。ヒワの姿に気づいた『彼女』は、上品な立ち姿を崩さぬままに手を振る。
「はぁい、ヒワ! 来ちゃったわ」
「か、かか――カティ!?」
大声で名を呼ばれると、カトリーヌ・フィオローネは得意げに片目をつぶった。
「あ、よかった。ちゃんと知り合いだった」
同伴してくれたコノメが肩の力を抜く。それを見たカトリーヌは、優雅に一礼した。
「驚かせてごめんなさい。カトリーヌ・フィオローネ、ヒワのお友達です。ぜひカティって呼んでね!」
コノメは恐縮したように小さく頭を下げた。
「あ、ども。コノメ・スノハラです。妹がお世話になってます」
「お姉さん! よろしくね!」
カトリーヌは、コノメの手を両手で包み込むようにして握手する。それを呆然と見ていたヒワは――突然、スイッチが入ったかのように、我を取り戻した。
「いや待って! あっさり安心しないでコノメ!」
「なんで? ヒワの友達なんでしょ?」
「友達は否定しないけど! 家は知らないはずなんだよ! どうやって突き止めたの?」
姉に訴えかけた後、そのままカトリーヌに問いかける。現役の精霊指揮士である少女は、口もとに人差し指を当てた。
「それは、まあ、色々……ね?」
「カティの色々は怖すぎる」
「だーいじょうぶ! 『悪い手段』は使ってないから」
笑顔で断言されてしまっては、『後輩』としては何も言えなかった。カトリーヌは底の知れない先輩ではあるが、悪事に手を染める人ではない。それは確かなのだから。
ひとまずカトリーヌを中へと招き、コノメがお茶などを用意する。ヒワをカトリーヌと二人きりにしたのは姉の気遣いだったが、妹としては一緒にもてなしの準備をしたかった。彼女と話すとなると、どうしても精霊人か〈穴〉の話題になってしまいそうで、うかつに口を開けない。戸惑っているうちに、カトリーヌの方から話しかけてきた。
「ジラソーレには初めて来たけど、いいところね。精霊指揮士が多いし。見習いさんもたくさん見かけて、なんだか懐かしくなったわ」
「来たことなかったんだ。てっきり、ソーラス院に通ってたのかと思ってた」
「残念ながら違うのよねえ。もう少し小さい学校に行ったの。ほんとはソーラス院に行きたかったんだけど……ほら、家の事情でね」
ああ、とヒワはうなずく。家族が不祥事を起こしたこともそうだが、経済的にも厳しかったのだろう。明るい少女の境遇を思うと、苦いものがこみ上げる。
ヒワの内心をよそに、カトリーヌはいつもの調子で色々なことを話してくれた。ヒワたちと別れてから訪れた場所のこと、そして、この家に着くまでにジラソーレの町で見たもののこと、などなど。
そのうちに、コノメがお茶とお菓子を持って戻ってくる。それを受け取ったカトリーヌは、先ほどまでの陽気な様子と打って変わって、上品な所作でティーカップを口もとに運んだ。それを見て、コノメがヒワに顔を近づける。
「ねえ。この人、お嬢様じゃない? どこで知り合ったの」
「あーっと……パヴォーネで……」
ヒワがどもりつつ答えると、コノメは「ああー」とうなずいた。あの町ならお嬢様がいてもおかしくない、と思ったのだろう。おそらくカトリーヌはパヴォーネ・コーダの出身ではないが、ヒワは黙っておくことにした。
「いきなりお邪魔しちゃってごめんなさいね、コノメさん」
「いえ。人が来るのは、まあ、慣れたので」
コノメは答えながら、ヒワの隣の席につく。そして、妹に目配せした。
「どちらかというと、ヒワに新しい友達ができていたことの方が驚きです。すぐ人見知りするんで」
「ちょ、コノメ」
ヒワは、反射的に姉へ飛びつこうとした。コノメは悪童のように笑って避ける。それを見て、カトリーヌが目を丸くした。
「あら、そうなの? そんなふうには感じなかったけど……」
言いかけた彼女は、思い出したように笑う。
「……って。私が変な話しかけ方したせいで、そもそも警戒されていたものね。人見知り以前の問題だったわ」
「へえ。どんな感じの出会い方だったんですか」
ヒワはひやりとした。精霊人が絡む出来事だからである。
カトリーヌは、ヒワの心配をよそに、上手く話してくれた。「自分と同じ精霊指揮士のロレンスに興味を持って話しかけたはいいものの、言葉選びを失敗して杖を向けられた」といった具合だ。その後コノメが、カトリーヌが精霊指揮士であるという部分に食いついてくれたので、その話は深く掘り下げられずに終わる。ヒワは、安堵の息を吐いて、自分のお茶を堪能した。
世間話が落ち着くと、カトリーヌはヒワの部屋が見たいと言い出した。ヒワは困惑したが、やや遅れて先輩の意図を察し、要望に応えることにする。
「何かあったら呼んでねー」
コノメはそう言い残して食器の片づけを始めた。お礼を言ったヒワたちは、そそくさと部屋へ引っ込む。
カトリーヌを招き入れ、ヒワは後ろ手で扉を閉める。そのとき、窓辺にやわらかな光が灯った。カトリーヌが「あら」とこぼす。同時、光の中から小さな少年が現れた。若葉色の衣とプラチナブロンドの髪が、風に吹かれたように揺れる。
「悪いヒワ。今戻った。……と」
少年――エルメルアリアは、きょとんとして少女たちを見た。
「カティ? なんでいるんだ?」
「ちょっと用事があってね。お邪魔してるわ、エラちゃん」
カトリーヌは屈託なくほほ笑んだ。が、エルメルアリアは目をすがめる。
「ヒワがいいんならいいけど……あんた、ここの住所知ってたっけ」
「それはあとで話すわ」
さっぱりと流されたが、精霊人は納得していなかった。眉を寄せた彼に、ヒワは慌てて声をかける。
「エラ。フラムリーヴェさんと出かけてたんだよね。どうだった?」
「うーん……収穫らしい収穫はなかったな」
エルメルアリアは、しかつめらしく腕を組んだ。ヒワは、そっか、と言いつつ肩を落とす。妙に深刻な二人を見て、カトリーヌが首をかしげた。
「フラムさんとお出かけ? 巡回でもしてたの?」
「いや。オレが内界で目立たないための服を探してたんだけど、いいのがなかった」
「ああ、なるほどね!」
カトリーヌは、短い説明で納得する。パヴォーネ・コーダでのフラムリーヴェの服装を思い浮かべたのだろう。一方エルメルアリアは、窓辺に座って足を揺らした。
「『もう似合わなくてもいいから体に合うのにしよう』って提案したら、『それならいっそ、私が作ります』って言われた。裁縫できんのかな、あいつ」
「さ、さあ」
フラムリーヴェは、剣を握らせれば無類の強さを発揮する。だが、剣が針と糸になった場合、どうなるのかは未知数だ。彼女が炎熱と親しい精霊人であることを考えると、あまりいい予感はしない。ヒワはかぶりを振って、そんな考えを追い出した。
「ま、オレの服のことはいいんだよ。いつでも」
悶々とする契約者をよそに、エルメルアリアは窓から下りる。ベッドに飛び乗って、突然の来客を見上げた。
「それより、カティは何しにきたんだ」
「ああ、そうそう。いい加減本題に入らなくちゃね。ヒワの家がわかった理由にもつながるんだけど――」
カトリーヌは、さりげなく持ってきていた肩掛け鞄から封筒を取り出した。怪訝そうなヒワたちの前に、それを掲げる。
「ヒワ宛てのお手紙。精霊指揮士協会からよ!」
そして、輝かんばかりの笑顔で告げた。




