47 思い出の残し方
門をくぐると、そこは草原だった。
ジラソーレの外れ。ひと気のない、開けた地である。空は青いが、端がうっすら黄金色に染まっている。
天地内界へ戻ったことを実感し、ヒワとロレンスは安堵の息を吐いた。語り合いたいことも多くあったが、それよりも疲労が勝る。互いの無事を確かめた後は、あっさりと解散した。
ヒワとエルメルアリアは見慣れた集合住宅へ向かう。入口近くで一度エルメルアリアと別れ、ヒワは一人でスノハラ家の扉を開けた。
「ただいまー」
ぼんやりとした声で告げると、たまたま玄関近くにいた母が驚いた様子で振り返った。
「ヒワ、遅かったね」
「あ……ごめん。予定より長引いちゃった」
ヒワが靴を脱ぎながら詫びると、母は不思議そうに首をかしげる。
「一応予定通りでしょ。一泊か二泊って聞いた気がしたけど、違った?」
「へ?」
鞄を引きずるようにして運んでいたヒワは、目を瞬く。日付を聞いて驚いた。出発日も含めて天外界で四日過ごしたというのに、天地内界では二日しか経っていなかったのだ。
理解が追いつかないまま、持ち帰った衣服を洗濯かごに突っ込んで、ひとまず鞄を部屋に放り込んでおく。そこで夕食の準備が始まったので、ヒワも少し手伝った。そうこうしているうちに図書館へ行っていたコノメが帰ってきて、共に夕食を摂った。
「ヒワ、なんか疲れてるね。やっぱ精霊指揮士の課題研究ってきついの?」
「そうかな? ロレンスはともかく、わたしは大したことしてないんだけどなあ」
はらはらしながら家族からの質問をかわして、薄めの味噌汁をかき込んだ。味噌を切らしたので遠方まで買いにいかなければならない、などという会話をぼんやりと聞く。
夕食後、すぐ部屋にこもった。先ほど放置した鞄を開けながらエルメルアリアを呼ぶ。いつものごとく、彼はすぐに現れた。ヒワは、鞄の中身を床に広げながら、帰宅直後のことを打ち明ける。すると、エルメルアリアはあっけらかんと言った。
「ああ、今は二日違いだったのか」
「今は? どういうこと?」
「天外界と天地内界は、時間の流れ方が違うんだ。しかも、時々によってその早さが変わる」
今回のような場合もあれば、逆に天外界での一日が天地内界での三日に相当することもあるという。それを聞いて、ヒワはぞっとした。
「そ、それって……帰ってきたら百年後でした、なんてことが起きかねない……?」
「いやあ。そこまで派手に差がつくことはねえよ。せいぜい数日だ。ただまあ、他人に予定を話すときは気をつけた方がいいかもな」
「早く言ってよ!」
ヒワがわずかに声を荒らげると、エルメルアリアはまた耳をふさぐ仕草をした。
「忘れてたんだよ。悪かったって。……今頃、フラムリーヴェが同じことで怒られてるかもな」
最後の一言を聞き、ヒワの中の小さな怒りが沈静する。戦乙女に文句を言う友人を想像してなごんだが、意識して険しい表情を取り繕った。
雑談をしながら荷ほどきを終えると、ヒワはベッドに寝転ぶ。しばらく右へ左へ転がっていた。そうしていると、上から控えめに呼びかけられる。
「……あー、ヒワ。ちょっといいか」
「ん? 何?」
エルメルアリアが、珍しくベッドの縁に腰かける。それを見て、ヒワは体を起こした。両手を後ろに回してもじもじしている相棒を凝視する。
「ヒワに渡したい物があってだな」
「え? なになに」
「これ……」
エルメルアリアが両手を差し出す。ヒワは身を乗り出した。小さな手にある物を見て、眉を上げる。
小ぶりな髪留めだ。髪をはさんでまとめる形のもので、金属の留め具を木彫りの装飾が覆っている。それは小鳥の羽を模しているようだ。端には青緑色の透き通った石が嵌め込まれ、明かりを反射して輝いている。
「どうしたの、これ?」
ヒワはひっくり返った声で問う。エルメルアリアは髪をいじくりながら、もぞもぞと口を動かした。
「作った」
「エラが?」
「おう。本当はもっと大きくてしっかりした物を作りたかったんだけど、杖の余りだけだとどうしても足りなくて、そういう感じに……」
杖、という一語を聞いて、ヒワは息をのむ。脳裏に、弾けて壊れた前の杖がよぎった。木彫りの髪留めをまじまじと見つめる。
「もしかして、これ、前の杖から作ったの?」
エルメルアリアは、小さくうなずいた。
「ヒワは、あの杖を取っておきたかったんだろ」
ヒワは反射的に息を吸う。脈が速い。喉がきりきりと痛む。それでも、言葉を舌に乗せた。
「……うん。でも、壊れてて、使いもしない物を取っておくのは変かなって思って、言いだせなくて」
「だろうと思った」
精霊人の顔に、ちらりと笑みがのぞく。――すぐに消えてしまったけれど。
「だから、なんとか使える形で残せないかって考えたんだよ。あれこれ装飾品を着ける娘じゃないだろうから、控えめで実用的な物がいいと思う、って」
誰かにそう言われたのだろう。誰なのかは、考えるまでもない。ヒワは唇を噛んで、髪留めを握りしめる。お礼を言うべきところなのに、言葉が出てこなかった。口を開いたら、こみ上げた思いまで一緒にあふれてしまいそうで。
「でも、ヒワって髪を伸ばしてるわけでもないし、髪留めも使わねえよな。やっぱ余計だったかな」
エルメルアリアが叱られた子供のように顔を背ける。ヒワは、答える代わりに立ち上がった。相棒に背を向けて、顔まわりの髪を軽く押さえる。確かにヒワの髪は短いが、髪留めを着ける場所がないわけではない。留め具で髪を挟むと、踊るように振り返った。
「どう? 似合う?」
悪戯っぽく、女優にでもなったような気分で笑う。口と両目を力なく開いていたエルメルアリアが、少ししてほほ笑んだ。緑の瞳に楽しげな光が宿る。
「すげー似合ってる」
「よかった」
飾らない賛辞に心からの言葉を返し、ヒワは相棒の隣に座った。
「ありがと、エラ。大事にするね」
「……まあ、着けたいときに着けてくれ」
やや尖った声は、しかし喜びを隠しきれていない。エルメルアリアは、表情を見せまいとばかりにベッドから飛び降りる。ほとんど音を立てずに床を蹴り、天井近くまで舞い上がった。目的もなく飛ぶ彼を、ヒワは温かな気持ちで見守る。左手が、自然と髪留めを彩る石に触れていた。
※
わずかに湿気を含んだ風が、熱された建物群をさらりと撫でる。一部の店には光が灯りはじめるが、初夏の町は人工の明かりがなくともまだ遠くを見通せる。
夕方になっても人の流れが絶えない通り。こぎれいに整備された道を、カトリーヌ・フィオローネは鼻歌まじりに歩いていた。はしゃぎ、あるいは真剣に歩く観光客をかき分けて通りを進むと、少し広い場所に出た。円形に区切られたその場所は公共の広場のようだが、実際の用途は少し違う。この先にある施設の前庭といったところだ。
ローブをまとった人々が、立ち話をしたり難しい顔で歩いていったりする。彼らの間を優雅にすり抜けたカトリーヌは、黒鉄の門を潜り、その先の建物へと歩みを進めた。古い様式の柱と、文字と文様を組み合わせた装飾で飾り立てられた正面部には目もくれず、無愛想に閉じた扉の前に立つ。傘を畳んで杖に変形させてから、金色の把手を握った。
その内には、奇妙に静かな空間が広がっていた。人の姿はそれなりにあるが、不思議と物音が聞こえてこない。靴音すらも小さく感じた。カトリーヌは、踏み込んですぐ右に曲がる。ぴかぴかに磨き上げられたカウンターの前に立つと、何やら書類を見ていた職員が顔を上げた。せかせかとやってきた彼に、カトリーヌは軽く会釈する。
「こんにちは。依頼の報告に来たのですが……」
「報告ですね。会員の方ですか?」
お決まりの質問が飛んでくる。カトリーヌは、笑顔のまま首を振った。
「いえ、フリーの精霊指揮士です。依頼人がこちらにお勤めの方なんです。取り次いでいただけますか?」
そう前置きして、依頼人の名を告げると、職員はカウンター越しでもわかるほどに顔をこわばらせた。
「か、確認します。少々お待ちください」
ひっくり返った声で告げ、職員は奥の方へバタバタと駆けていく。申し訳なさを感じつつ見送ったカトリーヌは、近くの椅子に腰を下ろした。
代わり映えのしない広間をながめて待つこと、二十分ほど。精霊たちが緊張しつつも騒ぎ出したのを感じ取って、カトリーヌは頭を動かした。
一人の男性が静かに彼女の方へ歩いてくる。さほど大柄でもなければ、特別鍛えているわけでもないが、なぜか威圧感がある。くせのある黒髪を、うねりを抑えるためか少し伸ばしていて、青玉の双眸は針のような光を放っていた。口もとには髭が生えているが、きちんと整えられているからか、不潔な印象はない。まとうローブは高級感のある濃紺の生地で、銀糸の刺繍まで入っているため、一目で位の高い人物だとわかった。
カトリーヌは流れるように立ち上がると、スカートをつまんで礼をする。足を止めた男性も、見本のような一礼をした。
「調査ご苦労、カトリーヌ・フィオローネ殿。報告は執務室で聞かせていただきたい」
わずかに開いた口から、ずっしりとした低音が流れ出る。聞く者をひるませる声に、しかし少女は動じない。
「かしこまりました、グラネスタ副支部長」
明るく、それでいて落ち着いた口調で答え、上品にほほ笑んだ。
(間章 紳士と戦士のブレイクタイム・完)