45 記録が記憶になった日
緑地を彩る木々は、そういう飾り物をつけているわけでもないのに、きらきらと光をこぼしている。ヒワは、幻想的な光景をながめつつ、エルメルアリアを探して歩いた。光を避けるように進んで、木の下を抜けたところで、足を止める。
開けたところに人影を見つけた。エルメルアリアだ。草地に座って、空をながめているようである。ヒワは迷わずそちらに足を向けた。
「エラ」
呼ぶと、彼は振り返る。いつもより静かな表情をしていた。
「おう、ヒワ」
「何見てたの?」
「……特に、何も。考え事してただけ」
エルメルアリアは前を向きなおす。ヒワはその隣に腰かけて、相手をのぞきこんだ。
「さっきの話のこと? 昔のエラがどうこうって」
尋ねると、エルメルアリアは黙り込む。図星だったらしい。ヒワは気にしていないふうを装って伸びをした。そうしていると、エルメルアリアの方から口を開く。
「……オレさ。ほんとに覚えてないんだよ」
「え?」
ヒワは思わず聞き返す。エルメルアリアは居心地悪そうに身じろぎして、続けた。
「昔、自分がどんな奴だったか、まったく覚えてないんだ。何を言って、どんな態度をとっていて、何を感じていたのか……そういうことは、何一つ。だから〈主〉の後継者だのなんだのと言われても、他人事って感じなんだよな」
「それって、変なことかな? わたしだって、小さい頃のことはあんまり覚えてないよ」
ヒワが首をかしげると、小さな少年はかぶりを振る。
「出来事や、他人の様子は全部覚えてるんだ。何年何月何日から半年間天地内界にいて、こんな仕事をしていた、とか。初対面の時のクロはこんな顔をしていた、とか。でも、そのときの気持ちとか、自分の言ったこととかは記憶にない。さすがにちょっと変だろ」
ヒワはつい口ごもる。返答に窮したのもあったが、なぜか凄まじい違和感と寒気を覚えたせいでもあった。エルメルアリアに悟られまいと、慌てて口を開く。
「……最近のこともそうなの?」
「いや、最近は自分のことも覚えてる。内界で契約者探せって言われて困り果てたことも、モルテ・テステ渓谷でヒワと口喧嘩したことも」
おどけるような言葉に、ヒワは声を詰まらせた。あれはごめんって、とぼやいてから話題を軌道修正する。
「じゃあさ、いつ頃から覚えてるの」
「大体六十年前くらいか。正直、そのへんも曖昧なんだよな」
ヒワは思わず、あれ、とささやく。同じ数字を別の人から聞いたばかりだったからだ。エルメルアリアは聞こえなかったのか、空を見つめている。
少しして、声がこぼれた。
「でも、きっかけはあれかな、っていうのは覚えてる」
「きっかけ? それって――」
ヒワがつい尋ねると、エルメルアリアは口の端を持ち上げた。――左手が、右腕に伸びる。
「暗くて狭いところがダメになった理由……かもしれない事件」
ヒワは肩を震わせる。心臓が跳ねた。クロードシャリスの言葉を思い出し、逃げ出そうとする自分をなだめる。
「〈幽闇隧道〉の守護者がどうこう、ってやつ……?」
「そう。ったく、あのじじい、余計なことを言いやがって」
〈銀星の塔〉での出来事を思い出してか、エルメルアリアは悪態をつく。しかし、細く息を吐くと、まっすぐにヒワを見た。
「まあでも、ヒワにはそのうち話そうと思ってたからな。いい機会か」
「えっと。聞いても大丈夫?」
「大丈夫も何も。あんな姿見せちまったんだから、今さらだろ。……ただなあ。どこから説明したもんか」
少し悩んだエルメルアリアは「よし、最初から話すか」と笑って、おもむろに語りだした。
精霊人は普通、生誕確認の十年後――人間でいうところの十一歳頃――から仕事を始める。一方、エルメルアリアは生誕確認から七年後には、〈銀星の塔〉の監督下で仕事を始めていた。当時から天才精霊指揮士、あるいは精霊使いとの呼び声高く、いずれは〈銀星の主〉と同等の高みへ至るだろうともささやかれていた。
精霊人の社会における『仕事』には、大きく分けて二つの種類がある。ひとつが、里の中での仕事。畑仕事や大工仕事、機織り、家事などの生活に関わることや、里周辺の警備がこれに当たる。
もうひとつが、里の外での仕事。〈銀星の塔〉から依頼を受け、天外界各地を回ってそれをこなすというものだ。精霊の様子見から魔物討伐まで、依頼の内容は幅広い。
昔から今まで、エルメルアリアが従事している仕事は後者だ。それも、ほとんど一人でやっていた。最初の何年かは指導と手助けのための先輩がついてきてくれていたが、いつしかそれもなくなっていく。徐々に危険度の高い仕事も任されるようになってきたが、それも単身で行くことが多かった。
エルメルアリアは、それをなんとも思っていなかった。こういうものなのだな、と受け入れていた。精霊という隣人がいつも力を貸してくれるので、多少の苦労はあれど、寂しくはない。仕事をこなせばみんながうれしい顔をしてくれる。それで十分満たされていた。
百年以上続いた穏やかな日常に、しかしあるとき変化があった。仕事――主に魔物討伐の任務のときに、同行者がつくことが増えてきたのだ。ただ、それも半年に一度程度の頻度で、大きな問題もなかったので、エルメルアリアの『意識』が動くことはなかった。
「そんなときに緊急の仕事が回ってきた。〈幽闇隧道〉で異常に濃い魔力が観測されたんで調査してこい、ってものだ。オレと、別々の里から派遣された二人の精霊人、三人で組んで行くことになった」
ヒワは改めて地名を聞き、顔をしかめる。隧道、つまりはトンネル。暗くて狭い場所。その反応に何を思ったのか、エルメルアリアはちょっと笑って、遠くを指さした。
「〈幽闇隧道〉は、ここからずーっと北西にある長い隧道でな。……天外界と地下魔界を繋ぐ場所だ」
「えっ」
「もちろん、ふたつの世界の境目は普段封鎖されてる。だけど、たまに地下魔界の奴が悪さして封鎖を解くことがあるんでな。そういう意味でも、ここでの魔力異常は看過できない事態だった。だから、優秀な奴を派遣しようってことになったんだろう」
エルメルアリアと二人の精霊人は揃って目的地へ向かった。その間、特に大きな衝突などは発生しなかった。連携の取り方などを何度も話し合い、準備を整え、隧道に踏み込んだ。エルメルアリアが先頭、他の二人がそれに続く形だ。
しばらくの間、大きな異常はなかった。しかし、あるとき犬型の魔物に遭遇した。犬型ではあったが、天外界でも天地内界でも見たことのない種で、昏い魔力をまとっていた。地下魔界の魔物である。さらに、そいつに命令を下している人がいた。
ヒワは驚きのあまり、口を挟む。
「地下魔界にも人がいるんだね」
「おう。天外界から逃げ出した精霊人がな」
エルメルアリアが意地悪く笑った。ヒワが顔をこわばらせていると、彼は楽しそうに言葉を足す。
「正確にはその末裔か? 昔、こっちで掟を破った奴が地下魔界に逃げることがたまにあって、向こうの環境に適応した一部の奴らが子孫を増やしていったらしい」
「へ、へえ」
ヒワはどうにかこうにか相槌を打つ。地下魔界がどういう場所かは知らないが、すごいことが起きたのだということだけはわかった。
エルメルアリアが話を戻す。
「〈幽闇隧道〉で魔物を連れてた奴は、多分そういう精霊人だった。へらへら笑ってはいたけど、今思うと明らかに敵意を向けてきてたしな。で、そいつが魔物をけしかけてきたんで、オレは話し合った通りに対処しようと後ろの二人を振り返った。……けど、そこに二人はいなかった。ついさっきまで、確かにいたはずなのに」
ヒワは思わず息をのむ。いつも自信満々に輝いている緑の瞳が、今は透き通っていた。そこには、何も映していない。
「知らない間に魔物に食われた? いや、魔力の跡すらないからそれはない。であれば敵の精霊人が何かしたのか――一秒にも満たない時間で色んなことを考えた。その一瞬の隙に、魔物が距離を詰めてきて、こう、がぶりとな」
動物の口を真似るように動いたエルメルアリアの左手が、己の右腕をつかむ。ヒワは相槌すら打てずそれを見ていた。
「その後オレは、魔力を半ば暴走させて魔物も精霊人も倒して、ついでに隧道の一部を崩して帰ってきたらしい。けど、ほとんど覚えてねえな。皮一枚で繋がってる右腕をなんとか保って敵から逃げて――気がついたら、近くの里の里長の家で寝てた。誰から何を聞いたのか、クロも駆けつけてた」
ヒワは恐ろしさに肩を抱きつつ、奇妙な懐かしさをも覚えていた。何かを思い出しそうになって――しかし記憶は思考をすり抜けて、飛んでいく。寒気と虚しさを堪え、そっと相棒の腕を見た。
「そ、それ……じゃあ、今の腕って……」
「ああ、もちろん生身だぜ。知らないうちに自分で指揮術かけてたらしいのと、精霊どもが手伝ってくれたおかげで元通りにくっついたんだ。ま、オレじゃなかったらそのまま切り落とすことになってたと思うけど」
エルメルアリアは誇らしげに笑って胸を反らす。しかし、その笑みはすぐに霞んだ。
「って言っても、すぐに動けるようになったわけじゃないから、しばらくはその里で休ませてもらってた。――任務に同行した二人が、オレを置き去りにして逃げたって知ったのは、そのときだった」
静かな音が、木々からこぼれる光の中に溶けていく。過去を語る声には何の感情も宿っていない。恐怖も、怒りも、悲しみすらも。
「オレが仕事に復帰する頃には、〈幽闇隧道〉の一件は曲解されて、尾ひれがついて広まってた。オレは隧道を守って地下魔界からの侵略を防いだって讃えられた。置き去りにされて、どうしようもなくなって、暴走しただけなのにな」
エルメルアリアが自嘲する。ヒワは、黙って聞くことしかできなかった。かける言葉が思い浮かばなかったのだ。
エルメルアリアは彼女の方を見ることなく、懐かしそうに続ける。
「その頃から、少しだけ精霊どもの声が遠くなった気がしたんだ。おかしいなって思うと同時に、今まで感じたことのないような、体中をかき乱すような感覚が湧き上がってきた。……多分、寂しかったんだ。でも、それまでより食べ物の味がはっきり感じられるようになって、自分が考えて口に出したことを覚えていられるようにもなってきた。きれいなものには感動するし、臭い物は臭いと思うようになった」
エルメルアリアが立ち上がる。かと思えば宙に飛び出し、ヒワの前で旋回した。
「――んで、気が付いたら今みたいな感じになってた、ってわけだ」
ことさらに明るい声が話を締めくくる。ヒワは「気が付いたら、って」と苦笑したが、心は晴れない。エルメルアリアの態度が取り繕ったものであることはすぐにわかった。
ヒワは深呼吸する。きっと、まだ何か秘めているものがあるのだろう。そう思いつつも、深く追求しなかった。いや、踏み込む勇気がなかっただけかもしれない。本音を曖昧な笑みの中に隠して、別の問いを口にする。
「その、調査の話って、フラムリーヴェさんやステアルティードさんは知ってるの?」
くるくると飛び回っていたエルメルアリアが、停止してかぶりを振る。
「二人とも知らないはずだ。フラムリーヴェは知り合ったのが割と最近だし、ステアも、事務官になったのは事件の後だし。それに……当時の記録を見れないようにされてるはずだ」
ヒワは顔を引きつらせる。それはつまり、隠蔽されているということではないのか。
「な、なんで……!」
「なんでってそりゃ。あいつらが詳細知ったら、事後対応がどうの〈塔〉の責任がどうのとやかましいからだろ」
「そんな理由!? 人が命に係わる大けがしてるのに、おかしいでしょ!」
ヒワは、憤慨して思わず立ち上がる。エルメルアリアに怒ることではないし、彼に怒っているわけでもないのだが、到底のみこみきれる感情ではなかった。〈銀星の塔〉がある方角をにらみつけている彼女を見て、エルメルアリアが笑声を立てる。
「いいって。今さら騒いでも面倒なだけだし。腕がなくなったわけでもないしな」
「けど! エラは今でも――」
「オレがいいって言ってんだから、いいんだよ」
明るい口調で言ったエルメルアリアは、ヒワのもとへ飛んでくる。小さな拳で彼女の頭を小突いた。力はまったく入っていない。
「ヒワがそうやって怒ってくれただけで、十分だ」
小さな少年は、屈託なく笑う。呆然としたヒワは、徐々に体の奥から熱が昇ってくるのを感じた。つい反抗したくなって、相手の手を軽く引っ張る。
「こんなときだけいい子になって、ずるい」
「なんだよ、そりゃ」
「いつもの、真っ先に怒るエラはどこにいったのさ」
「あんた、オレのことなんだと思ってんだ?」
エルメルアリアの手を使って、しばし綱引きした二人は、それから同時に吹き出した。理由もわからず笑いあう。そうしているうちに、ヒワの中の熱は、少しずつ引いていった。