40 白銀の塔と精霊人たち
まばゆい白と虹色が視界を覆い尽くす。生温かい膜に包まれているような心地がした。ヒワたちの体は、ゆっくりと押し流されている。前へ進んでいるのか、昇っているのか下っているのか、まったくわからなかった。
手を引かれながら水の中を歩いているときのように進んでいると、行く手にひときわ明るい白が見えた。それはだんだんと迫ってきて、彼らを静かにのみこむ。
思わず目を閉じたヒワは、しばし身を固くしていた。そのうちに、鈴のような音が聞こえてくる。かいだことのない匂いの清澄な空気が、体の中を洗っていった。
「ヒワ。着いたぜ」
エルメルアリアが呼びかける。ヒワは、そっと目を開けた。見慣れた顔は、すぐそばに。細い五指は、まだ彼女の手を握っていた。
ヒワは手を離さぬままであたりを見回す。広い空間だ。白い壁と白銀色の柱に囲まれていた。天井は高く、植物模様が描かれているように見える。すぐ隣ではロレンスが立ち尽くしていて、フラムリーヴェが何度も名前を呼んでいる。そして、ヒワたちの前には、見知らぬ人が二人いた。
ヒワたちよりも背が低く、顔だちも幼い。が、子供とは思えぬ静謐な空気をまとっていた。性別は――一目見た限りではわからない。髪も瞳も薄藤色、耳は先が尖っていて、光沢のある銀色のローブが華奢な体を覆っている。
「閉門を確認いたしました」
「おかえりなさいませ。エルメルアリア様、フラムリーヴェ様」
二人は揃ってお辞儀をした。よく似ているが、双子というよりは歳の近い兄弟といった印象である。その二人にエルメルアリアが手を挙げて、フラムリーヴェが頭を下げた。
「戻ったぜ、ルス、エスト」
「ただいま戻りました。お勤めご苦労様です」
見知らぬ二人はにこりと笑う。ヒワたちから見て左側の子が、続けて口を開いた。
「しばしお待ちください。もうじき、ステアルティード様がいらっしゃいます」
「……出迎えなんていらんと、いつも言ってるのにな」
エルメルアリアが顔をしかめる。少しわざとらしかった。
状況がのみこめない少年少女は顔を見合わせる。ややして、ロレンスがフラムリーヴェの手を引いた。
「あのー……この人たちは?」
「〈銀星の塔〉の『門』を管理している方々です」
「つまり、門番さん?」
「そのようなものです」
やり取りを聞いてか、右の子が口を開いた。
「申し遅れました。ルスと申します」
「エストと申します」
左の子も追随する。こちらの方が、少し声が高かった。
二人も精霊人であり、正式な名前はもっと長いらしい。だが、誰もその名を知らず、「ルス」「エスト」とだけ呼んでいるそうだ。
フラムリーヴェからそんな話を聞いていたとき。門番たちの背後から、重い扉の開く音がした。続けて高い靴音が響く。
「遅くなりました。申し訳ない」
「お疲れ様です、ステアルティード様」
「エルメルアリア様、フラムリーヴェ様、その契約者のお二人がご到着なさいました」
子供そのもののような声色で、門番たちが告げる。「なんと」と声を高めた人物が、ヒワたちの方へ歩いてきた。
一見すると青年のようである。体格はいいが、なぜかすらりとした印象だった。落ち着いた金色の髪を肩のあたりまで伸ばしていて、前髪は上げているのか額がしっかりと見えていた。太い眉と切れ長の目。眉間には少ししわが寄っている。
彼の姿を認めて、フラムリーヴェが前へ出た。
「お疲れ様です、ステアルティード様」
「フラムリーヴェ殿こそ。お出迎えできず申し訳ございません」
「今は〈塔〉も忙しいでしょうから、お気になさらないでください」
「お言葉痛み入ります」
丁寧な挨拶を交わした二人を、ヒワはぽかんとして見ていた。なので、自分の指先からはらりとぬくもりがこぼれ落ちたことに気づかなかった。
「まーた書類仕事に忙殺されてたな、ステア。そんななら、わざわざ来なくていいってのに」
エルメルアリアがひらりと舞って、フラムリーヴェの隣に並ぶ。すると、ステアルティードの顔色が変わった。太い眉がつり上がる。
「そういうわけにもいかんだろう。大体、誰のために足を運んでいると思っているのだ」
「ん? 誰だよ」
「貴様だ、エルメルアリア! 貴様が、誰に対して何をしでかすかわからんから、目を光らせているんだろうが!」
「またそれかよ。どうせあんた以外に出迎えなんて来ねえんだから、気にするだけ無駄だぞ」
「この部屋から出た後の話だ! さては自覚がないのか?」
「ないな」
「き、貴様という奴は……! 今日という今日は、精霊人にふさわしい振る舞いというものを――」
「お二人とも」
咳払い、ひとつ。それと落ち着いた声が、激しい言い合いを止めた。フラムリーヴェが二人にあきれ顔を向けている。
「そのあたりにしてください。我々はいつものことと流せますが、ヒワ様とロレンスはそうもいきません」
エルメルアリアは、鼻を鳴らしてヒワの方へ戻る。一方ステアルティードは慌てて頭を下げた。
「あっ。や、これは申し訳ない」
居住まいを正した彼は、胸に手を当てて少年少女を見る。
「お見苦しいところをお見せしました。改めて、私、〈藤黄の里〉のステアルティードと申します。現在、〈銀星の塔〉にて事務官を務めております」
「あっ……えと、ヒワ・スノハラです」
「ロレンス・グラネスタです。よろしくお願いします」
四角四面な挨拶を受けて、二人もどぎまぎと名乗る。ヒワは嫌な顔をされるかと身構えたが、予想に反してステアルティードは穏やかだった。
「ヒワ殿、ロレンス殿。ご足労いただき感謝いたします。突然のことで驚いたでしょう」
「あー……まあ」
ロレンスが曖昧に答えて頬をかく。ステアルティードの眉間のしわが深くなったが、不快というより、少し困っている様子だった。
「ひとまず、〈都〉までご案内します。指定の宿泊施設がそちらにございますので」
「〈都〉……」
「〈銀星の都〉だな。〈塔〉の下にあるでっかい町だ」
オウム返しした二人に、エルメルアリアが耳打ちする。ヒワはぎょっと目を見開いた。
「塔って……ここ、まさか〈銀星の塔〉の中!?」
エルメルアリアが、やれやれと言わんばかりに契約者を見る。
「さっきフラムリーヴェがそう言ってたじゃねえか」
「ご、ごめんなさい。色んなことにびっくりしすぎて聞き流してた」
ヒワは慌てて精霊人二人に謝る。エルメルアリアは呆れたような表情で腰に手を当てていたが、フラムリーヴェは「無理もありません」と許してくれた。
「では、ついてきてください」
話が一段落したと見るや、ステアルティードが歩き出す。精霊人たちは当然のようについていった。ヒワとロレンスは、小走りでそれを追う。よく似た小さな門番たちが、にこやかに彼らを見送った。
門の部屋は、〈塔〉のかなり上の方にあったらしい。『白門の間』と名付けられている部屋を出て、小さな窓から下を見たヒワは、恐怖のあまり隣にいたロレンスに抱き着いてしまった。彼は嫌な顔をするどころか、むしろ頭をなでてくれる。もしかしたら同じ気持ちだったのかもしれない。
「飛べる精霊人たちは、階段を使うか直接飛んで下りるか、どちらかなのですが……。お二人にはどちらもお辛いと思いますので、別の手段を使いましょう。ついてきてください」
そう言って、ステアルティードが案内してくれたのは、通路の一角。行き止まりに見えるそこの窓の向こうに、奇妙な物体が浮いている。巨大な卵のような見た目で、色は銀色。中が透けて見えたが、特に何が置いてあるわけでもない。床にはタイルのようなものが敷き詰められている。
「あれは……」
「内界の物に例えるなら、昇降機ですかね。〈塔〉への出入りに使うものです。私たちはほとんど使いませんが」
口をあんぐりと開けたロレンスに、フラムリーヴェが答える。物体の方へ歩いていき、窓の鍵を開けたステアルティードが補足した。
「性質上飛べない方や、飛ぶのが苦手な方が使う物ですからね。……私も飛行が得意ではないので、時々利用しています」
ステアルティードが窓を開ける。その先には、わずかに床が張り出していた。銀の卵に乗るための、船着き場のような場所らしい。ステアルティードが先に踏み出し、卵の正面の扉を開けた。そこに扉があることに、ヒワはそのとき気がついた。
恐る恐る外へ出て、卵の中に踏み込む。高所だというのに、空気の薄さや風を感じない。結界が張ってあるのだ。
卵の中は案外と広い。人間二人と精霊人三人が余裕で乗り込めた。
最後に乗り込んだステアルティードが小さく何かを唱えると、卵がゆっくり下降する。中からも外が丸見えだ。ヒワとロレンスは、なるべくそちらを見ないようにした。
「と、ところで、ステアルティードさん」
ヒワはおずおずと口を開く。金色の瞳が驚いたように彼女を見た。
「さっき、事務官っておっしゃってましたけど、どんなお仕事なんですか」
「ああ。主に〈塔〉からの指示を精霊人たちに伝えたり、逆に彼らの報告書を受け取って上司に届けたり、そういった仕事をしております。あとは……いわゆる書類作成業務ですね」
「オレが書いた陣の報告書を受け取ったのもこいつだぜ」
エルメルアリアが横から言う。それを聞いて、ヒワはモルテ・テステ渓谷から帰った後のことを思い出した。〈穴〉をふさぐための術を作ってそれを〈塔〉に知らせたのは、彼なのだ。
ステアルティードも思い出したのか、複雑そうな表情になる。
「……いつものことではありますが。彼の知識と発想には感服しました。そもそも、あれほどの指揮術を独自で書き換えて、問題なく動作しているのがとんでもないことです」
「お? 珍しく褒めるじゃねえか」
「あとは本人がもう少し大人しければ、文句はないのですが」
「無視かよ、おい」
頭を抱えるステアルティードのまわりを、エルメルアリアが騒がしく飛び回る。ヒワは苦笑して彼に手を振った。すると、まるで鷹匠の元に戻る鷹のように飛んでくる。
「エラ、もしかして〈塔〉の人たちと仲悪いの?」
「まあ、仲良くはないわな。連中が無茶苦茶言ってくるから、こっちも相応の態度で返してるだけなんだけど」
「そ、そっか……」
「そんなだから余計に関係が悪化するのだぞ。腹の中でどう思おうが咎めはせん。が、表面上はもう少し友好的に振る舞え。せめて、〈塔〉所属の……俺以外の者には敬語を使え」
ステアルティードの苦言には、あきらめの色もにじんでいる。いつも言われることなのか、エルメルアリアは適当に聞き流しているふうだった。
「……天外界でのエルメルアリアがどういう感じか、ちょっとわかった気がする」
彼らを見守っていたロレンスがぼそりと呟く。フラムリーヴェが、ため息まじりに「そうでしょう」と返した。
〈銀星の塔〉は名の通り、白銀色の塔だった。下から見上げると果てが見えず、ただただ巨大な壁がそびえているようである。
そして、塔を中心として広がる都も不思議だった。建物はすべてが真っ白で、内界の町と変わらぬ造りのものがあるかと思えば、入口が二階以上の場所についているものもかなりの数存在する。なんと、宙に浮いている家もあった。どうしてだろうと不思議に思ったヒワだったが、そばにいる精霊人たちを見て納得する。大人でも体の大きさが様々なので、おのずと建物も個性豊かになるのだろう。
天地を行き交う精霊人たちは、人間たちに気づくと好奇の視線を向けてくる。ステアルティードに気づくと、それらはすぐに離れるが、ヒワとしては肩身が狭い。……エルメルアリアは天地内界でこんな思いをしているのだろうか、などと考えて、少し胸が痛んだ。
ステアルティードが言っていた宿泊施設は、幸い、塔からさほど離れていなかった。やはり真っ白い箱型の建物で、三階建て。宙に浮いているなどということもなく、天地内界と変わらぬ感覚で中に入ることができた。浅葱色の髪を伸ばしている精霊人が部屋へ案内してくれる。いったん荷物を置いた後、エルメルアリアがヒワを呼んだ。
「よし、それじゃあさっそく行くか」
「なんだ。いきなり出かけるのか」
部屋を辞そうとしていたステアルティードが、不思議そうにエルメルアリアを見上げる。彼はあっけらかんとうなずいた。
「おう。ちょっとガンコ爺のところまで」
「そうか。危険な場所に行くのでなければいい」
ステアルティードはそれから、挨拶を残して部屋を出た。出かける支度をしていたヒワは、おずおずとエルメルアリアに声をかける。
「え、ええと……。今、ガンコ爺って言った……?」
「そ。詳しくは着いてから説明する。それより、杖持てよ」
あまりにもさりげない相棒の言葉を聞いて、ヒワは「へ?」と気の抜けた声をこぼした。