4 天と地を繋ぐ者
突然現れた少年は、神秘を絵に描いたようだった。
うなじのあたりでひとつにまとめたプラチナブロンドの髪を風に遊ばせ、透き通った緑の瞳でじっとヒワたちを見つめる。瞳によく似た色の衣は、さながら彼の翼だった。裾のレース飾りが夕景を透かして、淡い橙色に染まっている。
やはり、これは夢なのではないか。そんなことを思いながらも、ヒワは唇をこじ開けた。
「呼んだ、って……なんのこと……?」
少年は小首をかしげた。顔の左右に垂れている髪の房が、さらりと揺れる。
「呼んだだろ? 『助けて』って。オレは、その詠唱に引き寄せられて、ここに来たんだよ」
「え、えいしょう?」
ヒワはますます困惑した。友人の口からしか聞いたことのない言葉を、たどたどしく繰り返す。
「それって――」
「まあ、細かい話は置いといて」
手を叩いた少年が、ヒワのささやきをさえぎる。新緑を思わせる瞳が、陽光と指揮術の光を反射して、妖しくきらめいた。
「――何が望みだ、契約者殿。助けるのは当然として、具体的にはどうしたい?」
仰々しい呼び方をされて、ヒワはたじろいだ。そういえば先ほども、契約がどうこうと言っていた気がする。詳しく確認したい気持ちをぐっと堪えて、隣でぼうっとしている男の子を見下ろした。
「ええ、と……今は、この子のお母さんを探したい、です」
「ふむ」
少年は腰に手を当て、男の子に目をやる。自分より小さい相手に見下ろされた男の子は、大きな瞳を何度も瞬いた。
「居場所の目星はついてるのか?」
「この先の公園が、臨時の避難所になっているそうです。そこにいらっしゃる可能性が高いんじゃないかと」
「なるほど。その公園に行く途中で、あれに邪魔されたと」
あれ、と言いながら、少年は崩壊した建物――の下でもがいている魔物を指さした。ヒワがうなずくと同時、軽く指を弾く。魔物の周囲に光り輝く糸のようなものが現れて、その巨体を縛り付けた。
「じゃあ、まずはそこに行くか。道中の魔物はオレがぶっ飛ばすから、あんたは道案内してくれ」
「あっ――は、はい」
不思議な光景に見入っていたヒワは、少年の声がけで我に返る。瓦礫を避けながら、どうにか一歩を踏み出した。
そのとき、上空から甲高い声が聞こえる。全身が粟立つのを感じたヒワは、とっさに男の子を抱き寄せた。空を仰いだ少年が舌打ちする。
「ったく、少しは落ち着けねえのか。おまえらのお庭じゃねえんだぞ」
大きな鳥の魔物が三羽、彼らの方へ向かってきていた。興奮しているのが遠くからでもわかる。恐ろしい鳴き声を聞いて、ヒワと男の子は身を寄せ合った。
一方、少年は助走のひとつもつけずに高度を上げる。
「しかたねえ。あれをとっちめるのも、オレらの仕事だからな」
「あっ、あの――」
ヒワは、よく考えもせず少年に声をかけた。彼は鳥たちに目を向けたまま返す。
「そこ動くなよ。すぐ終わらせっから」
言うなり、少年は腕を振った。それこそ楽団の指揮者のように。すると、手もとが強く光った。寸暇をおかず吹き荒れた突風が、鳥たちを後ろへ押しやる。
「内界の精霊! いきなりで悪いけど、ちょっと手伝え!」
鳥の魔物たちが羽ばたいて体勢を立て直したところで、少年が叫ぶ。すると、路地の瓦礫が音もなく浮き上がり、弾丸のように彼らの方へ飛んだ。
翼に瓦礫や金属片の一撃を受けた鳥たちは、よろめいて甲高い鳴き声を上げる。
ヒワたちはそれをただただ見上げていた。
「あの子も精霊指揮士なんだあ……!」
男の子が目を輝かせている。ヒワは曖昧な相槌を打ちつつも、胸中では否定していた。
彼は杖すら持っていない。その上、前に二人を助けてくれた少女のような詠唱を一切していない。さらに言えば、指揮術とは精霊が吐き出した魔力を操るものだが、あの少年は精霊に直接呼びかけているようだった。精霊指揮士と呼ぶのは無理がある、気がする。
だが、だとすれば――彼は一体何者だろう。
顔を曇らせたヒワの視線の先で、少年が魔物の増援を吹き飛ばす。それから、ぐっと左腕を手前にひいた。空を巨大な影が横切る。瓦礫に埋もれていた牛頭の魔物が、光る糸ごと引き寄せられてきたのだ。
悲鳴を上げるヒワたちをよそに、少年はにやりと笑う。「こんなとこか」と呟くと、殺気立った魔物たちを見回した。
「感謝しろよ、魔物ども! このエルメルアリア様が、じきじきに送還してやるんだからな!」
尊大に言い放った彼は、目を閉じて、三度手を叩く。
「〈銀星の塔〉の名の下に、権限を行使する――」
声が、朗々と響いた。
「――門よ開け、魔の者どもを彼方へ還したまえ!」
言葉とともに、どこからか温かな風が吹き上げる。それは、少年の髪と緑色の衣とを激しくはためかせた。光の粒が泡のように湧きあがり、それが大きな門扉を形作っていく。
少年が目を開くと同時、門もゆっくりと開いた。すると、周囲で少年をにらんでいた魔物たちの体が、ぼろぼろと崩れていく。崩れた端から光となって、門の向こうへと吸い込まれていった。
彼らの姿が完全になくなると、光の門は静かに消える。わずかな時間の出来事だったが、ヒワには数時間が経過してしまったかのように感じられた。
少年は満足そうに額をぬぐうと、立ち尽くしている人間たちのもとへ下りてくる。
「さて。次が来ないうちに行こうぜ」
「えっ――あ、そ、そうですね」
一拍遅れて立ち直ったヒワは、なんとか応じた。さっさと飛んでいきそうな少年の前に立ち、本当に感覚がなくなりつつある足を進めた。
※
ほどなくして、精霊指揮士の少女が言っていた公園に辿り着いた。いつもはお年寄りがゆったりとくつろいでいる場所に、今は不安そうな顔をした人々が詰めかけている。やはりどこかで見たようなローブを着た男女が、慌ただしく駆け回っていた。
ヒワの推測通り、男の子の母親は避難者の中にいた。商店街へ戻ろうとしていたところを精霊指揮士の男性と警察官に止められていたらしい。そこへひょっこり現れた息子を見るや、彼女はその場で泣き崩れた。
少しして落ち着くと、男の子の母親は何度もヒワに頭を下げた。
「――この子を連れてきてくださって、ありがとうございます。本当に、なんとお礼を言ったらいいか」
「い、いえいえ。私も助けられたようなものですから」
謙遜などではなかった。あの泣き声を聞かなかったら、早々に魔物の餌食になっていたかもしれない。お気になさらず、と繰り返したヒワを男の子が見上げた。それから、不思議そうにまばたきする。
「あれ? おねえちゃん、ちいさいおにいちゃんは?」
「へ?」
ヒワは、素っ頓狂な声を上げてあたりを見回す。二人をここまで導いた少年の姿は、どこにもなかった。
ヒワはすぐに親子と別れて、公園内を歩き回る。あの少年はどこに行ったのか――という疑問は、すぐに解消された。
「おーい、契約者殿」
覚えのある声が上から響く。ヒワは顔を上げて、先ほどと同じようにきょろきょろした。
「こっちだこっち。あんたから見て右側」
言われた通りに右を向き、目をみはる。
樫の木の枝葉の隙間から、少年が顔をのぞかせていた。
「何してるんですか?」
「隠れてる。今、ここの人間に見られると、色々ややこしいからな」
太い枝に腰かけた少年は、探るような目をヒワに向けた。先ほどは緑色だった瞳が、今は鮮やかな赤紫色に見える。それを見て、彼女は光の加減で色が変わる宝石を思い出していた。
「それでだ、契約者殿。これからどうする」
「これから……」
ヒワは言葉に詰まった。助けを呼んだあのときは、ただ死にたくなかっただけで。結果として、その願いは聞き届けられた。これ以上「どうする」と言われても、すぐに答えが浮かぶものではない。
黙り込んだ少女をよそに、少年は軽く伸びをした。
「オレとしては、あっちの魔物どもを『送還』しにいきたいんだけど」
「いや……商店街に戻るのは、ちょっと……」
ヒワはじり、と後ずさる。そのとき、腕に妙な重みを感じて下を見た。そこにあるのは買い物袋。今になって初めて、その存在を思い出した。
「えっと。とりあえずは、家に帰りたい、かな」
少年は怪訝そうに眉を寄せた。が、ヒワの言葉を突っぱねることはせず、ふわりと目の前に下りてくる。夕日を浴びて、両目が緑色に輝いた。
「なら、場所教えてくれよ。送るから」
「えっ? そ、そこまで――」
そこまでお世話になるわけにはいかない。そう言おうとした。しかし、言葉は最後まで紡がれなかった。
全身から力が抜ける。目の前がゆっくりと暗くなる。何が起きているのかわからないまま、意識が遠のく。
「あ、おい!? オレの契約者のくせに、えらく軟弱だな!?」
――眠る直前に聞いたのは、ひっくり返った少年の声だった。
注)本文内で「彼方」に「あなた」とルビを振っているのは意図的な表現です。




