38 血の夢から覚めて
血のにおいがする。
どうしてかは、わからない。
新しい血と古い血のにおいがすぐ近くで漂っている、それが事実だ。
足を引きずって、前へ進む。
重い。ぐっしょり濡れた体も、足も、右側にぶら下がっているものも、全部が重い。
黒くて苦い空気を吸う。吸ったそばから吐き出す。そうするたびに、痛みが走る。
痛み。それは、何の痛みだろう。誰の痛みだろう。ここには誰もいないのに。
後ろから低い音がする。よく知っている音。獣の足音と、威嚇の声。あるいは脅かしているつもりか。その先から、さらに別の声がした。
『どこへ行こうと言うんだい、おチビちゃん』
笑っている。誰かが、笑っている。
人が笑っているのは、うれしい。全部がぽかぽか温かくなるから。――でも、これは違う。うれしい笑い声じゃない。
『そんな有様じゃ、何もできやしないさ。仲間も行ってしまったようだしねえ。あきらめて、こいつの餌になりな。おまえの魔力なら、きっとこいつも満足する』
仲間。それを聞いて、あの子たちの顔が浮かんだ。同時に、置かれている状況も思い出す。
あの子たちは、いなくなってしまった。さっきまで後ろにいたはずなのに。彼らに殺されてしまったのではないのか。無事、なのだろうか。
道は見えず、上は岩。仲間はいない。後ろには魔物と、堕ちた人。逃げ場もない。――たとえあったとしても、彼らを放っておくわけには、いかない。彼らがこの先へ行ってしまったら、多くの者が命を散らすだろう。
それだけは、阻止しなければならない。私が、やらなければならない。
私が。
すぐそばで、声がする。それこそ獣のような声。
声はどんどん大きくなり、それと共に体が熱を帯びる。精霊たちが沸き立つ。
喉に焼けるような痛みを感じたとき、目の前がまばゆい白に覆われた。
※
鼻から肺へ、冷たい空気が流れ込む。その感触でヒワは目を覚ました。
頭が上に引っ張られているような、あるいは目に透明な幕がかけられているような感覚がある。ただ、それらは徐々に薄らいで、彼女に世界の形を思い出させた。白い天井。視界の端には小さなシャンデリア。わずかに見える窓には薄いカーテンがかけられていて、その向こうから陽光が差し込んでいた。
部屋の奥にあるベッドは、二人で使うには大きすぎる。ヒワは自然と、その隅っこで縮こまるようにして寝ていた。それは今日も変わらない。枕の位置が少しずれて、掛け布団が体の端に寄っている。
ここがパヴォーネ・コーダの宿であることを思い出したヒワは、寝そべったまま頭を触る。つかんだ髪はべたついていた。頭だけでなく、全身に汗をかいている。気づいてしまうと無視しづらい不快感に襲われて、顔をしかめた。
「……夢」
何か、嫌な夢を見ていた。それは確かだが、詳しい内容は思い出せない。情景は思い浮かびそうなのに、すりガラスを隔てたかのように不鮮明で、しかもあっという間に遠ざかっていく。
夢とは得てしてそういうものだ。だが、今朝のヒワはそのことに、とてつもない寂しさと虚しさを覚えた。向ける先のない感情を抱えたままぼんやりと天井をながめ、しばらくして頭を動かす。何気なく下ろした手が、なめらかな糸――のようなものに触れる。
「そうだ。エラ」
はっと目を見開いたヒワは、慌てて体を起こした。
隣では、エルメルアリアが眠っている。日頃、若葉色の衣に隠れている華奢な体が薄手の毛布に包まれている。普段はまとめられているプラチナブロンドの髪もほどかれて、背中を覆い尽くすように広がっていた。
いつもと印象の違う精霊人を、ヒワはそっとのぞきこんだ。昨日よりも血色がよい。聞こえる寝息も、今のところは穏やかだった。そのことに安堵する。
サーレ洞窟から出た直後に意識を失ったエルメルアリアは、パヴォーネ・コーダが見えた頃に目覚めた。しかし、とても自力で動ける状態ではなく、その後も眠ったり起きたりを繰り返していた。眠っているときはひどくうなされ、起きているときはなぜかヒワから離れたがらなかったため、彼女は小さな精霊人につきっきりだった。夜、彼が寝付くのを見守っているうちに、ヒワ自身も眠ってしまっていたのである。
ヒワは小さくあくびをして、顔をしかめる。昨日のことを思い出すと、黒くて重たいものがのしかかってきた。
そんなとき、隣から音がした。ごくごく小さなうめき声と、布のこすれる音。ヒワははっとして振り返る。案の定、エルメルアリアが薄目を開けていた。
「……あ、れ。オレ、寝て……?」
「ご、ごめん。起こしたかな」
ヒワは恐る恐る呼びかける。すると、ようやく緑の瞳が彼女を見た。
「ヒワ?」
「うん」
「何が、どうなって……」
エルメルアリアはわずかに首をひねる。どうやら、意識を失った後のことをあまり覚えていないらしい。そう判断したヒワは、努めて冷静に口を開いた。
「エラ、洞窟から出たところで気を失っちゃったんだよ。だから、みんなで急いで宿に戻ったの。あれから一晩経って、今は……何時だろう。多分、朝と昼の間」
エルメルアリアは、消え入りそうな声で「そっか」と答えた。緩慢に腕を持ち上げ、目もとを覆う。
「ごめん。町に戻るまでは踏ん張ろうと思ったんだけどな」
言葉の意味を察したヒワは、すぐにかぶりを振る。胸がちくりと痛んだ。
「踏ん張ることじゃないって。わたしの方こそ、もっと気を遣ってあげられたらよかった。ごめんなさい」
契約者の謝罪に、エルメルアリアは何も言わなかった。ただ、幼子のように首を振った。
このままだと謝罪合戦になってしまいそうだ。ヒワは気持ちを切り替えて、動き出すことにした。自分の荷物に手を伸ばし、バックパックから着替えを引っ張り出す。そうしながらも、エルメルアリアの様子をうかがった。
「具合はどう? 起きれそう?」
少しして、彼はまた首を振る。「頭痛い」という一言が、辛うじて返ってきた。ヒワはうなずくふりをして、うつむく。情けない顔を相棒に見せたくなかった。
「そっ、か。無理しなくていいからね。今日はとにかく、休んで」
言いながらも、エルメルアリアの方を見てはいなかった。いつもよりぎこちない手つきで服を替える。嫌な汗の臭いがする寝間着を畳んで鞄にしまったとき、離れたところで何かが動く音がした。見ると、開いた扉の隙間から、黒髪の友人が顔をのぞかせている。
「あ。ヒワ、起きてる」
「ロレンス! おはよう」
ヒワが慌てて挨拶すると、ロレンスは「おはよ」と言って入ってきた。もう一人を気遣ってか、声量はかなり落としている。
「ごめん。だいぶ寝坊した」
「いいよ。俺だって、起きたのいつもより遅かったし」
ロレンスはやはり眠そうな表情で頭をかく。そして、ベッドの方に目配せした。
「……エルメルアリアは?」
「起きてる。けど、頭が痛いって」
「そう。ま、最低でも今日一日は安静に、かな」
「だね」
ひそひそ話が終わったとき、再び扉が開いた。今度、顔をのぞかせたのは、二人の女性である。
「ヒワ様、おはようございます」
「はぁい! エラちゃんの様子はいかがかしら?」
ワンピース姿のフラムリーヴェの背後から、蜂蜜色の髪の少女が顔を出す。ヒワは、思わず立ち上がった。
「カティ!? 朝には出るんじゃなかったの?」
「予定変更! このままみんなとお別れするんじゃ、ちょっともやもやしちゃうから」
ひょんなことから一時共闘した少女は、まるで初めから一緒にいたかのような態度でやってくる。ヒワは苦笑いしつつも、その明るさと好意に感謝した。
ロレンスが、一気に人数が増えた大部屋を見渡す。
「さて。現状と今後の予定を整理したいけど……場所は変えた方がいいかな」
「――いや、いい」
少年の言葉に返したのは、ヒワでもカトリーヌでもなかった。毛布をかぶったままベッドの縁に寄ってきたエルメルアリアである。全員の視線が彼に集中した。
「えっと……でも、エラは寝てた方がいいんじゃ……」
「頭は痛いけど、これ以上眠れねえよ。話聞いてた方がいい」
当の本人にそう言われてしまっては、ヒワたちには何も言えない。困惑の視線を交わした少年少女をよそに、フラムリーヴェがうなずいた。
「でしたら、この部屋で話しませんか、ロレンス」
「う、うーん。まあ、本人がそう言うのなら」
彼女の契約者は曖昧にうなずいた。紫と青の視線は、次いでエルメルアリアに注がれる。
「エルメルアリアは無理のない程度に参加してください。横になっていてもいいですし、眠くなったら寝ても構いませんので」
淡々とした、しかしどこかやわらかい声がけに、エルメルアリアは、ん、とだけ答えた。
話しついでに、遅めの朝食――あるいは早めの昼食――を部屋で摂ることになった。食事を部屋に運んでもらう場合、追加料金を取られるのだが、これはカトリーヌが進んで支払った。
「みんなには仕事を手伝ってもらったようなものだし。報酬の山分けだと思って。ね?」
――いい笑顔でそう言われたので、ヒワとロレンスは何も反論できなかった。先輩の厚意を素直に受け取ることにする。
「まずは状況の整理だけど……」
野菜スープをふうふうと冷ましながら、ロレンスが切り出した。
「サーレ洞窟の〈穴〉はふさいだ。カティの調査も終了、ってことでいいのかな」
「ええ。色々落ち着いたら、依頼人に報告に行くわ。〈穴〉の件については……『彼』の立場次第で明かすか隠すか決めるつもり。やたらに触れ回る気はないから、そこは安心して」
含みのある言い方だ。ヒワとロレンス、フラムリーヴェは顔を見合わせる。しかし、カトリーヌ本人は何事もなかったかのようにスープを飲んでいる。これ以上語るつもりはないようだ。ロレンスはあきらめたように「じゃあそういうことで」と言い、自分の契約相手を見た。
「えっと、フラムリーヴェ。〈銀星の塔〉への報告は、まだだよね」
「はい。ジラソーレに到着し次第、〈塔〉に向かうつもりです」
〈塔〉と聞いて、エルメルアリアがぴくりと震えた。それを見つけたフラムリーヴェが、すぐさま釘を刺す。
「エルメルアリア。あなたは今回、内界にいてください。報告は私がまとめてしておきます」
「……わかったよ」
低い声で答えて、小さな少年は毛布をかぶった。やけに素直だ、とヒワが思っているうちに、話題は移ろった。
「あとは、そうだな。エルメルアリアのことだけど。怪我や病気ではない、のかな。魔物から毒をもらったわけでもない?」
これには、当の本人がうなずいた。ロレンスとカトリーヌは安堵した様子だったが、フラムリーヴェは眉根を寄せる。
「原因に心当たりはありますか?」
その問いは、半分はエルメルアリアに、半分はヒワに向けられたものだった。二人は揃って固まる。乾いた沈黙が、広い部屋を支配した。しばし後、フラムリーヴェが再び口を開く。
「私も詰問したいわけではありません。ただ、今後同じようなことが繰り返されると任務に障ります。心当たりがあるのなら早めに聞いておきたいのです。ただでさえ、前例がありますし」
「前例?」
少年少女の声が重なる。しかし、フラムリーヴェはそれには答えず、じっとエルメルアリアを見つめた。彼はしばらく毛布に顔をうずめていたが、やがて観念したように這い出てくる。
「暗くて狭いところが怖い」という事実だけを彼は語った。ヒワが、洞窟での様子を思い出しながら、少しだけ補足する。――ただ、彼がうわごとのように語っていた内容は、ほとんど伏せた。
話を聞いたロレンスたちは、あちゃあ、とでもいうような顔をする。
「そうだったんだ。言ってくれたら……いや、大した配慮はできなかったかもしれないけど……声がけくらいはしたのに」
「私も悪いことしちゃったわね。先に洞窟だって教えておけばよかった」
「……いやまあ、黙ってたのはこっちだし。今回は、悪かったよ」
申し訳なさそうな二人にそう言って、エルメルアリアは頭を横たえた。少し気が抜けたふうだった。
それを見ていたフラムリーヴェが頭を抱える。
「なるほど。どうりで、あなたと共同の任務のときはそのような場所での仕事が回ってこないわけです」
「それって天外界での話?」と、ロレンスが興味津々で尋ねる。フラムリーヴェはうなずいたが、話を掘り下げはしなかった。
それ以降は、お互いの予定を確認し合う。――ヒワたちの帰宅は一日延期になり、今日は各々羽を伸ばすことにしたのだった。