37 一寸先は闇
カトリーヌ・フィオローネの〈穴〉に対する反応は、おおむねヒワの予想通りだった。
「きらきらしてるのねえ! こういう色合いもありかしら!」
〈穴〉を輝きに満ちた目でのぞきこみ、頬を紅潮させている。心配そうに彼女の衣の端をつかんでいるロレンスが、「ありって何……なんの話……?」と引いていた。
フラムリーヴェが咳払いする。少しわざとらしい。
「カティ様。危険ですので、もう少し離れてください」
「あ。ごめんなさいね。思っていたのと違ったから、興奮しちゃった」
ぴしゃりと注意されたカトリーヌは、素直に立ち上がって後ろへ下がる。どういうものを想像していたんだろう、という疑問をヒワはのみこんだ。訊かない方がいい気がする。
「今回は奇襲もなさそうですし、仕事に取り掛かりましょうか」
「そうだな。――ってわけで二人とも、頼む」
エルメルアリアが深呼吸して振り返る。精霊人の契約者たちは、互いを見てうなずいた。
杖を天に向けて構えたロレンスの横で、ヒワは静かに両手を組む。
「『イリュ・ドゥーテ・クランダル・ウカータ』」
「『クランダーテ・イリューア・デア・ヒワ・スノハラ
アリイネラ・イリュール・デア・エルメルアリア』」
「『クランダーテ・イリューオ・デア・ロレンス・グラネスタ
アリイネラ・イリューア・デア・フラムリーヴェ』」
天地万物の精霊ではなく、精霊人と人間とのつながりを揺さぶる二重奏。それは、沈殿した闇の中に清らかな波紋を生む。
カトリーヌが息をのんで見守っていることを知らぬまま、二人は詠唱を終える。瞬間、魔力の嵐が吹き荒れて、洞窟中を駆け抜けた。精霊人たちのまわりで星のごとき光が瞬き、風と炎熱を生み出す。そして、それは波が引くように収まった。ただし、最初の放出が終わったというだけだ。あたりには肌を突き刺すほどの魔力が変わらず漂っている。
なんとか踏みとどまったヒワたちの隣で、カトリーヌが詰めていた息を吐きだした。
「『天外界で精霊人を怒らすな』なーんて言葉があるけど、こういうことなのね」
呟く声は、少しかすれている。ヒワとロレンスは顔を見合わせ、苦笑を交わした。一方で、精霊人たちは何事もなかったかのように穴へ近づく。
「では、始めましょうか」
「ああ。……っと、ひとついいか、フラムリーヴェ」
「なんでしょう」
「〈閉穴〉の術をもう少し簡略化できないかと、ここしばらく考えてたんだ。せっかくだし実験に付き合ってほしい」
「……確かに、あの陣を毎回描くのは非効率的ですね。わかりました、手伝いましょう」
その後も何やら難しい会話をしながら準備を進めていく。ヒワには何をしているのかよくわからなかったが、ロレンスとカトリーヌが引きつった笑みを浮かべているのを見て、わからない方がいいかもしれない、などと思い直す。
ほどなくして、すっかり耳慣れた詠唱が響いた。そのとき、カトリーヌが振り返る。黒々とした通路を見つめ、首をひねっていた。
「どうしたの、カティ」
「うーん。誰かに見られている気がしたんだけど……気のせいかしらね」
えっ、と肩を抱いたヒワは、慌てて周囲を見回す。しかし、怪しい影は見当たらなかった。ぎゅっと目を細めた後輩に、カトリーヌが困ったような微笑を向ける。
「怖がらせてごめんなさい。きっと、私の勘違いよ」
「それならいいんだけどね……」
身震いしたヒワは、正面を向きなおす。寒々しい恐怖をごまかすように、相棒の背中を見つめた。
※
かすかな歌声が響く。一瞬後、イソギンチャクの魔物がくたりと力を失った。ヒワたちが遭遇したものよりも一回り小さい個体だが、ここにいる二人――ルートヴィヒとマーリナ・ルテリアはそれを知らない。
ルートヴィヒは、一連の出来事を静かに見届けた。冷淡に、と言ってもよいかもしれない。イソギンチャクがぴくりとも動かないことを確かめると、剣を目の前に持ってくる。刃についた粘液を落とし、鞘に収めた。
「〈穴〉、ね。世界を揺るがす大ごとだわ。〈銀星の塔〉が動くのも当然ね」
マーリナ・ルテリアが、先ほど横穴から漏れ聞こえた言葉を繰り返す。ルートヴィヒはうなずいて、横穴を振り返った。もちろん、あの先に誰がいるのかは二人とも把握している。
盗み聞きをするつもりはなかった。あの少年少女と精霊人を追っていたわけでもない。異様な魔力の濁りを感じてサーレ洞窟を訪れたら、天外界の魔物が暴れていた。それを淡々と叩き伏せていたところ、後から彼ら――と、見知らぬ精霊指揮士がやってきたのだ。「ご挨拶する?」とマーリナ・ルテリアに言われたが、やめておいた。変に勘繰られても面倒だ。
「……なぜ、そんな現象が発生しているんだ」
「わからないわ」
口を突いてこぼれた疑問に対して、青き人魚はかぶりを振る。
「そもそも、世界と世界の狭間がどうなっているのかすら、ほとんどの人が知らないもの」
「精霊人でも、か」
「ええ。知っている者がいるとしたら、それは肉の身を持たない精霊か――彼らにもっとも近い〈銀星の主〉くらいでしょうね」
〈銀星の主〉。〈銀星の塔〉の最上階に座し、天外界を見守る者。彼が世界の狭間を知っているとすれば、〈穴〉が開いた原因もすぐにわかりそうなものだ。が、〈塔〉が対処に苦慮しているところを見ると、そう単純な話でもないのだろう。
「……水底界は放っておいていいのか、マール」
「あちらのことはあちらのみんなに任せるわ。あたくし一人が焦ったところで、しかたがないから」
でも、様子を見にいくくらいはしようかしら――そんなふうに語ったマーリナ・ルテリアに、ルートヴィヒはうなずいてみせる。いつも旅に付き合ってもらっているのだ。たまにはこちらが融通を利かせるべきだろう。
あたりを見回す。敵意ある魔物がいないか確かめる。その途中、ルートヴィヒは鋭く目を細めた。
「ルートヴィヒ?」
目ざとく変化を見つけたマーリナ・ルテリアが名を呼ぶ。暗闇をにらんだ青年は、ややして小さく息を吐いた。
「視線を……感じなかったか。マール」
「視線? あたくしは気が付かなかったわ」
「……そうか」
「周辺を探ってみる?」
「いや、いい」
ルートヴィヒはかぶりを振る。彼の何倍も敏感なマーリナ・ルテリアが気づかなかったということは、思い違いの可能性が高い。
気を取り直して洞窟に目を配る。――そのとき、先ほど倒したイソギンチャクが横穴に吸い込まれていった。
※
「『イリュ・ドゥーテ・クランダル・カータラ』」
無事〈閉穴〉が終わった後。少し時間を置いてから、ヒワたちは契約相手の制限をかけ直した。二人ともに表面上大きな異常がないことを確かめてから、来た道を戻る。
復路は怖いほどに静かだった。時折、先住の動物や魔物と遭遇することもあったが、大きな戦闘には発展しない。威嚇してくる魔物がいても、フラムリーヴェやカトリーヌが脅かせばすごすごと去っていく。ヒワはその後ろ姿を見送るたび、そっと両手を合わせた。
「何してるの、ヒワ」
「いや……縄張りを通過させてもらうから、感謝と謝罪をと思って」
「……魔物相手にそんなことする精霊指揮士は初めて見たよ」
眠そうな表情で語るロレンスに、ヒワは首をかしげる。後輩たちのやり取りを見て、他の女性陣がそれぞれに笑みをのぞかせた。――エルメルアリアだけは、無言の無表情である。
特に大きな問題もなく、一行はサーレ洞窟を出た。数時間ぶりの外の空気と陽の光を取り入れたところで、カトリーヌがヒワたちに尋ねる。
「みんなはこれからどうするの?」
「とりあえず、宿に戻るかな。一泊して明日帰る予定」
答えたロレンスは、その場に座り込んでいた。洞窟から出られたことで、蓄積していた疲労が押し寄せたらしい。時折うめき声を発しながら足をさすっていた。
彼ほどではないにせよ、ヒワも疲れてはいる。岩にもたれかかった状態で、先輩を見た。
「カティは?」
「私? 私は、今夜か明日の早朝には出発するつもりよ。依頼人に報告しにいかなきゃいけないからね」
「ああ、そっか。依頼を受けてきたんだもんね」
報告するまでが仕事、ということだろう。ヒワはひとり感心していた。その横で、フラムリーヴェがロレンスに声をかけている。
「立てますか、ロレンス」
「立てはするけど、町まで歩ける自信がない……」
「ゆっくり行きましょう。休むにしても、屋根がある場所の方がよいですから」
「うう……仰る通りです……」
しぶしぶ立ち上がったロレンスを見て、カトリーヌがくすりと笑う。
「じゃあ、町に向かいましょうか。たっぷり休憩を取りながら、ね」
「うん」
岩から上半身を起こしたヒワは、何気なく上を見る。
「行こっか、エラ」
浮いたまま空を見ている相棒に、普段と同じように呼びかけて。いつまでも返事がないことを訝しく思い、もう一度口を開く。
「……エラ?」
そのとき、彼の体がぐらりと傾いた。支える物は何もない。ゆらゆらと、木の葉のように、落ちていく。
ヒワはとっさに腕を伸ばした。小さくて軽い体をなんとか抱きとめる。その瞬間、彼女自身が大きく傾いた。
「ヒワ様!」
フラムリーヴェが飛んできて、とっさに上体を抱える。ヒワが慌ててお礼を言うと、静かに一礼した。が、少女の腕に抱かれた同胞を見ると、顔をこわばらせる。
「エルメルアリア? 何があったのですか」
「わ、わかりません。返事がないと思ったら、いきなり落ちて……」
言いながらエルメルアリアの顔を見たヒワは、思わず息をのんだ。顔色が悪い、どころではない。生気を感じさせないほど白くなっている。手足は人形のようにだらりとしていて、呼吸は弱く、不規則だった。
「エラ。エラ、しっかり」
「エルメルアリア。聞こえますか?」
ヒワが頬を叩いてみても、フラムリーヴェが大声で呼んでも、彼は反応を示さない。
「まずいな。意識がない」
騒ぎを聞きつけたロレンスが、エルメルアリアをのぞきこんで眉をひそめる。
ヒワは、血の気が引く音を聞いた気がした。
彼がサーレ洞窟で無理をしていることは知っていた。過呼吸になるほど恐れている『暗くて狭い場所』で、任務だからと恐怖を押し殺して戦っていたのだ。
それなのに。知っていたのに、こんなことになるまで何もできなかった。
「怪我はなさそうだし、魔力も問題なさそうだけど……」
「なんにせよ、ここではどうしようもないわ。町に戻りましょう」
「了解。フラムリーヴェ、俺がぶっ倒れたら……」
「ご安心を。私が背負っていきます」
仲間の声が遠い。足の感覚がない。
呆然としているヒワの肩を、カトリーヌが叩く。優しく声をかけられたが、具体的に何を言われたのかはまったくわからなかった。
どうにかしないと。そればかりを考えて、よたよたと歩き出す。
腕の中の少年は、やはり少しも動かなかった。
(第三章 回想と混沌のアドベンチャー・完)
これにて第三章完結です。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
5月11日は、17時の投稿はお休みします。その代わり、翌12日は3話公開予定です。第四章……の前の間章が始まります。よろしくお願いします。