35 光、未だ遠く
なぜ、水気のない洞窟にイソギンチャクがいるのか。そんな疑問はすぐに氷解した。旅立ちの前の記憶が、ヒワたちに答えをくれる。
「水底界の魔物……」
「最悪の展開、来たね」
ヒワとロレンスは杖を構える。どちらも青ざめていたが、その理由は少しずつ違っていた。ロレンスの理由を察しつつも、ヒワは言及しない。している余裕もないのだった。
「海の生き物がこんな場所でまともに動けるなんて。魔物は不思議でいっぱいね」
「不思議で片付けていい状況じゃないでしょ」
軽口を叩いている間にも結界は薄れていく。イソギンチャクの口らしきものが一斉に開いた。
精霊人たちが同時に動く。フラムリーヴェが横に跳び、エルメルアリアが前へ出た。彼がイソギンチャクに迫った瞬間、その表面で水が渦巻く。勢いよく噴射された水を前にして、しかしエルメルアリアはまったく退かなかった。それどころか、両腕を突き出す。
「そら、お返しだ!」
凶悪な水流が彼の前でぴたりと止まる。かと思えば突然軌道を変え、イソギンチャクと周囲の魔物にぶつかった。耳が痛くなるほどの高音と腹の底を揺さぶる低音が、混ざり合って響く。
ヒワが思わず耳をふさいだ一方、エルメルアリアは素早く振り返った。
「カティ!」
「了解!『ミティ・レヴレント』!」
カトリーヌが空を切るように杖を振る。すると、貴石の先で白い光が弾けて、落ちた。それは細い稲妻となってイソギンチャクの方へ流れる。電撃を浴びたイソギンチャクがおぞましい悲鳴を上げた。濡れた魔物たちも巻き添えを食らい、全身を痙攣させて崩れ落ちる。
「おお……。やった?」
「いえ。来ます」
感嘆したロレンスの斜め前で、フラムリーヴェが剣を構えた。
弱々しく触手を動かしたイソギンチャクが、一瞬、ぴたりと固まる。次の時、触手のいくつかが伸びた。
エルメルアリアはひらりと飛んでそれをかわす。フラムリーヴェがロレンスを抱えて鞭のような触手から逃げ回った。そしてヒワは、杖を胸の前で構えて叫ぶ。
「いっ――『光華の砦』!」
無我夢中での詠唱だった。おかげで後半のことばが出てこなかった。しかし、精霊たちは彼女に応えた。正面に現れた壁が、襲い来る触手を弾く。それがすべて引っ込むと、壁も消えた。
「危なかった……見た目通りのイソギンチャクなら、毒があるはずだからな……」
フラムリーヴェに下ろしてもらったロレンスが、ぼそりと恐ろしいことを呟く。彼はそれから、ヒワに拳を向けた。
「でかした、ヒワ」
「ど、どういたしまして」
カトリーヌも「さすが!」と飛びついてきた。ヒワは曖昧に笑う。
平和な放課後を思わせるやり取りができたのも、つかの間のことだった。イソギンチャクがもぞもぞと動くのを見て、全員が表情を引き締める。
「しぶといな」
エルメルアリアが舌打ちする。さらに、周囲を見たフラムリーヴェが顔をしかめた。
「こちらも湧いてきましたよ」
痺れて動けなくなった魔物の向こうから、いくつもの影が忍び寄ってくる。幸い、今度は退路を断たれてはいないものの、獲物を逃がすまいとする空気がひしひしと伝わってきた。
「……これ、あんまし使いたくなかったんだけどな。しょうがない」
突然ロレンスがため息をつく。鞄を軽くあさったかと思えば、小さな瓶を取り出した。中には濃い緑色の液体が入っている。
「あら。なあに、それ?」
「はいはい。みんな、ちょっと近寄って」
ヒワとカトリーヌは顔を見合わせる。戸惑いながらも、言われた通りにした。エルメルアリアも周囲の魔物をけん制しながら飛んでくる。
ロレンスは、瓶の蓋を開けると、その中身をぶちまけた。液体が全員の体に降りかかる。やや遅れて、野草に酢と牛舎の臭いを混ぜたような、強烈な臭気が漂った。
「うっ……な、なにこれ……!」
「魔物の毒を中和する霊薬。本当は飲んだ方が効くんだけど、全員に行き渡る量がないから、これで」
「……の、飲む勇気はないわね」
カトリーヌが顔を引きつらせる。ヒワも無言でうなずいた。顔をしかめたまま様子をうかがってみると、精霊人の二人もさすがに目もとをゆがめていた。
空気が動く。身もだえした――ように見える――イソギンチャクが、再び水を噴射した。エルメルアリアとカトリーヌが同時に動く。
「『セレア・ミーレル・ゼスタ』!」
光で形作られた刃が、水を次々と散らした。その隙にエルメルアリアがイソギンチャクの頭上に躍り出て、両腕を振り上げる。寸暇を置かず、彼の真上で雷が生まれた。イソギンチャクはすぐさま触手を伸ばした。いくつかが足をかすめるが、エルメルアリアは動じない。気合の声とともに腕を振り下ろすと、雷が落ちた。
稲光が暗闇を引き裂き、轟音が洞窟を揺らす。たたらを踏んだヒワたちをカトリーヌが支えた。
震動が収まったとき、イソギンチャクは沈黙していた。吐息をこぼしたエルメルアリアが、満足そうに下りてくる。
「本当に何も起きなかった。効くな、その霊薬」
「よかった。あと三十分は効果が続くけど、まあ、過信は禁物ね」
少年たちがそんなやり取りをしている横で、フラムリーヴェが踏み込む。最初の雷撃と霊薬の臭気とで多くの魔物が動けなくなっていたが、それを耐え忍んだ猛者もいた。そういったものたちが飛びかかってきたのだ。フラムリーヴェが剣を薙ぐと、強靭な魔物たちも体の端を焼かれて吹き飛ぶ。
歓声を上げたカトリーヌが、それからロレンスを見た。
「そんな便利な物を持ってるなら、早く言ってくれればよかったのに」
小瓶をしまったロレンスが、ひらひらと手を振る。
「言っただろ、使いたくなかったって。作るの大変なんだよ。材料集めも面倒だし。発明者の正気を疑うほど臭くてまずいし」
「あら、ロレンスが作ったの?」
自作の薬だと知って、カトリーヌは声を弾ませる。その横で、ヒワは思わず「まずいって断言した」と突っ込む。しかし、ロレンスは眠そうな表情のままだった。
少年少女が霊薬の話をしている間に、〈浄化の戦乙女〉が魔物たちを一掃する。火の粉をまとって着地した彼女は、じっと暗闇を見つめた後、うなずいた。
「伏兵などはいないようです」
契約者とその仲間たちに報告した上で、静かに三度、手を叩く。白く輝く門を呼び出し、魔物たちを還した。異質なイソギンチャクもまた、彼らと共に吸い込まれていく。
門が消えると、あたりはがらんとした印象になった。
「やっと先に進めるな」
エルメルアリアが顔ににじんだ汗をぬぐう。フラムリーヴェは、そんな彼をじっと見つつも、表面上はいつも通りに対応した。
「ええ。ですが、何が起きるかわかりません。注意して進みましょう」
戦乙女の忠告に、全員がうなずく。統率が取れすぎている魔物たち――先の話を忘れている者は、一人もいなかった。
空気がよどんでいる。洞窟という環境のせいだけではない。〈穴〉からこぼれた魔力が、空気を黒く染め上げているかのようだった。
「魔力に酔うなんていつ以来かしらね……」
先頭を歩くカトリーヌが、そんなふうに呟く。燦燦と輝いていた太陽に薄い雲がかかったかのようだ。ヒワは、杖の感触を確かめつつ、そっと話しかける。
「大丈夫、カティ?」
「ええ、ちょっと驚いただけ。足手まといにはならないから、安心して」
振り返ったカトリーヌが片目をつぶってみせる。ヒワは、そういう問題ではない、という言葉をのみこんで、笑い返した。――エルメルアリアがうつむいたことには、誰も気づいていない。
「魔力の感じからすると、〈穴〉は近そうなのですが……」
「それらしいものはないね」
ロレンスがあたりを見回す。といっても、通路はさほど広くない。今までと同じく、ごつごつとした岩に囲まれているだけだ。
「みんなの話を聞いた感じだと、すぐにわかりそうなものだけど……あら?」
杖で前方を照らしていたカトリーヌが、足を止める。左を向いた彼女は、そちらへ姿を消す。ぎょっとして身を乗り出したヒワは、横穴があることに気が付いた。数秒後、その横穴からカトリーヌが顔を出す。
「みんな、来てちょうだい!」
興奮している彼女に誘われ、ヒワたちも横穴をのぞきこむ。そして、思わず声を上げた。
横穴の先に、ひときわ濃い魔力が渦巻いている場所がある。その下、地面のある箇所が、ぼんやりと輝いていた。
「あれって……」
「〈穴〉でしょうね。地面に開いているもののようです」
眉をひそめたロレンスに、フラムリーヴェが答えを授ける。発見者のカトリーヌは「やっぱり!」と顔を輝かせた。
「あれをふさげばヒワたちのお仕事は完了なのね」
「うん。一応、そうだね」
ヒワは、先輩の勢いにたじろぎつつも肯った。
「じゃあさっそく――と、言いたいところだけど」
はしゃいでいたカトリーヌが、ふと目を細めた。杖の先に灯していた明かりを消し、先端を横穴の先へ向ける。
「『ミーレル・バンデ』」
軽やかな詠唱の直後、焚火のような音を立てながら、金色の光が球形に膨れ上がる。
「――『デラ・ピッテル』!」
それを投げるかのように、カトリーヌが杖を振り抜いた。すると、光の球は横穴の先の空間へと飛び、右向きにカーブする。一瞬後、犬の吠え声と金属音が混ざったような悲鳴が響いた。
ヒワが思わず杖を抱きしめたとき、闇の中から魔物の気配がにじみ出す。
「……ま、いるよな」
「出てきてくれて助かりました」
精霊人たちが、横穴から視線を逸らして身構えた。〈穴〉の周囲だけでなく、元の通路にも魔物の姿があった。中には、水かきやひれを持つものもいる。
彼らは威嚇もなしに飛びかかってきた。エルメルアリアとフラムリーヴェがひるむことなく応戦する。天井から襲ってきた蝙蝠たちが吹き飛ばされるや、フラムリーヴェが踏み込んだ。鋭い突きと斬撃で、あっという間に五体を叩き伏せる。
「『シフィシエ・コーディア』」
「『石の剣よ、貫け』!」
彼らのかたわらで、ヒワたちも詠唱した。ロレンスがその場に縫い留めた魔物たちに、ヒワが鋭利な岩石を浴びせかける。小柄な穴熊を思わせる魔物たちが、身をよじって吠えた後、動かなくなった。その後ろでは、カトリーヌの歌――もとい詠唱が絶えず響いている。
今日何度目かの混戦。魔物と指揮術がぶつかり合い、閃光が弾け、火炎や水が飛び交う。死と隣り合わせの環境に身を置いた少年少女と精霊人は、対応力を身に着けた一方、疲労を実感してもいた。淡々と魔物を殴り飛ばすフラムリーヴェの顔すらも、少しばかり曇っている。
そんな中、ひときわ大きな咆哮がとどろいた。ヒワは思わず顔をしかめた。狭まる視界の中に相棒を見つけ、はっとする。
蝶のように動き回っていたはずの彼が、浮いたまま固まっていた。狼のような魔物――ただし、頭についているのは耳ではなく羽のようなもの――が数体、飛び込んでくる。彼らはエルメルアリアの隙を見逃さなかった。暗闇でも目立つ体に爪を立てる。小さな少年のうめき声は、戦場の音にかき消された。
ヒワは夢中で口を開く。なんでもいい。何か唱えろ!
「――っ、『閃光、弾けろ』!」
数発の光が狼たちの頭上で閃く。同時、紅蓮の炎が彼らを焼いた。熱さのあまりに飛びのいた狼たちを、波形の刃が斬る。倒れた同胞を隠すように、戦乙女が舞い降りた。
「怪我はありませんか、エルメルアリア」
静かな声が呼びかける。――応えは、ない。
フラムリーヴェは、眉を寄せて振り向いた。
「エルメルアリア?」
うずくまっていた彼が、のろのろと顔を上げる。青ざめてはいたが、目立った傷はなかった。
「……お、う。平気」
「……本当ですか? 顔色が悪いですよ? 先ほどのものたちは、毒を持つ種ではないはずですが……」
「平気だっての! いきなりだったんで、驚いただけだ!」
かがみこもうとするフラムリーヴェを、エルメルアリアは手で制す。これ以上詰め寄られてたまるか、とばかりに素早く飛びあがった。紫色の視線が、それを怪訝そうに追う。
「不意を突かれるとは、らしくありませんね」
「はいはい。すみませんね、油断してて」
エルメルアリアはそっぽを向く。が、すぐに同胞へと向き直って頭を下げた。
「手間かけて悪かったな。助かった」
「いえ」
フラムリーヴェは、ほんのわずかに口もとをほころばせて、剣を構え直す。
エルメルアリアは、ヒワの方へ飛んできて背を向けた。一連のやり取りを見ていたヒワは、安堵するよりも先に異変を見つける。
エルメルアリアが震えていた。右腕を左手で押さえつけながら、それを必死に隠そうとしている。フラムリーヴェに見つかりたくないのだろう。
ヒワは、大きく息を吸った。
「――エラ!」
彼は振り向かない。それでも構わず、続けた。
「右腕はついてるよ。きみの腕は、ちゃんとついてる」
噛みしめるように、言葉を重ねる。すると、エルメルアリアの顔が彼女の方を向いた。
不安定に揺らいでいた瞳が、定まる。徐々に明瞭な光が戻ってきた。彼は、細く息を吐きだして、思いっきり吸う。
「……おう!」
いつものように契約者へ笑いかけたエルメルアリアは、軽やかに宙を蹴った。