33 腕はついているか
幸い、横穴は一本道だった。凶悪な魔物の気配もない。ヒワは、五分ほど歩いたところで、地面に凝る人影を見つけた。
エルメルアリアだ。壁に背中をつけて、うずくまっているように見える。ヒワの心は彼のもとへ飛んでいたが、足は縫い留められたように動かなかった。
かすかに、ひきつれた音が響いている。小刻みなそれは、呼吸音だ。間断なく聞こえる音は、あるときひときわ大きく響いた。小さな体が、遠目にもわかるほど激しく震える。
ヒワはそこで我に返った。今度こそ、足が動く。
「エラ!」
たまらず呼びかける。手を伸ばしたとき――指先を、風がかすめた。紙で切ったときのような痛みが走る。
ヒワはとっさに手を引っ込めた。恐る恐る指先を見たが、血は出ていなかった。
顔を上げる。葡萄酒を思わせる、赤い瞳を見る。それは、恐怖とも怯えともつかぬ色に染まっていた。
「エ――」
「来るな」
かすかな、しかし確かな拒絶。それを叩きつけられて、ヒワはひるんだ。手をさ迷わせている彼女の前で、エルメルアリアが頭を抱える。
「きちゃだめだ」
その姿は、まるで見た目通りの子供だ。自分の心を抑えて抑えて、ついに痛みがあふれ出した――そんな子供だ。
「最低だ…………たし、は……けいやくしゃを……むこのひとを、きずつけ……っ」
「エラ!」
ヒワは、今度こそ彼に駆け寄る。迷いもためらいも、もうなかった。震える体を抱きしめて、背中をさする。
「大丈夫、大丈夫だよ。どこも傷ついてない」
「で、も」
「わたしだって、気づかなかったんでしょ。わかったら、攻撃なんてしないでしょ。いきなり声かけちゃってごめんなさい」
ゆっくりと、努めて穏やかに、語りかける。すると、ようやくエルメルアリアは頭から手を離した。未だ震える小さな指で、目の前の服をきつく握りしめる。
ヒワは彼の背中をさすり続けた。呼吸はまだ荒い。震えも止まらない。それを感じ取りながら、慎重に問うた。
「エラ。もしかして、洞窟が怖いの?」
ぴくり、と体が跳ねた。ヒワはそれでほとんど確信したが、断定の言葉はのみこんだ。
「ごめん。言いたくなかったら、言わなくてもいいよ」
一拍の間の後、エルメルアリアが首を振る。落ち着かない呼吸の間で、なんとか言葉を紡いだようだった。
「くらい……せまい……とこ、は……あいつらが、くる」
「あいつら? 誰かいるの?」
精霊人は、再び首を振った。
「オレ、が、おもいだす、だけ。いたくて、おもくて……ひとりぼっち、で……」
再び、呼吸が乱れる。顔や手ににじんだ脂汗が、ヒワの服を湿らせた。しかしヒワは一向に構わない。ゆっくりと、規則的にエルメルアリアの背をさすった。
「一人じゃないよ、エラ。わたしがいる。ロレンスも、フラムリーヴェさんも。今はカティだって一緒だよ」
そんな言葉をかけることが、こうしてそばにいることが、正解なのかはわからない。これほどの心の傷を負った人と向き合ったことがなかったからだ。それでもヒワは手と声がけを止めなかった。
しばらくそうしていると、エルメルアリアの呼吸が少し落ち着く。震えは収まらないが、先ほどまでよりは小さくなっていた。
「ヒワ」
くぐもった声を聞き、ヒワは視線を少し下げる。
「ん?」
「ごめん、なさい」
「……謝られる心当たりがないなあ」
ヒワがおどけて肩をすくめると、彼はわずかに顔を上げた。しかし、またすぐに布の中へ頭をうずめる。
「幻滅しただろ。普段えらそうな奴が、洞窟ごときで無様に取り乱すなんてさ」
「それを言ったら、散々きみの前で無様をさらしたわたしはどうなるの」
ヒワは苦笑する。過剰に卑下しているつもりはなかった。冷静に振り返っても、今までの自分がエルメルアリアの契約者としてふさわしい振る舞いをしていたとは言い難い。彼を知れば知るほど、その気持ちは強くなる。けれど。
「エラは、わたしを見捨てなかったよね。どんなに頼りなくても、八つ当たりしていじけても、最後はそばで助けてくれた。そんなきみに幻滅するわけがない」
幼子をあやすように背中を叩いて、語りかける。エルメルアリアは何も言わない。ただ、顔を彼女の体に押し付けた。すがりつくように、引き留めるように。
どれくらい、そうしていただろう。ようやく呼吸が落ち着いてきた頃。エルメルアリアがヒワの腕から滑り出た。
「そろそろ、戻らないとな。またフラムリーヴェに説教される」
おどけた彼はしかし、暗い細道を見ると、途端にふらついた。ヒワはとっさに彼を抱きとめる。
「エラ、無理しちゃだめ。体に障るよ」
もう少し広い場所へ出るまで、このまま抱いていくことも考えていた。しかし、エルメルアリアは駄々をこねるようにかぶりを振る。
「今は任務中だ。これ以上、あんたに甘えるわけには、いかない」
「そう言ったって――」
エルメルアリアは聞く耳を持たなかった。弱々しくヒワの腕を押しのけて、再び飛び出す。動きはおぼつかなかったが、今度は空中で体を保った。下をにらんで、拳を握る。
「ちゃんとしないと」
鋭く冷たい一言は、煙のように闇へ溶ける。
ヒワは唇を噛んだ。何か言わなければいけない気がする。しかし、言葉が思い浮かばない。悶々としている間に、エルメルアリアの方から呼びかけられた。
「ヒワ。オレの右腕はついてるか」
あまりに唐突で、脈絡のない問いだった。ヒワは、どういうこと、と聞き返しそうになったのをのみこむ。尋ねる代わりに、彼の右腕を見据えた。
「うん。ちゃんと……ついてるよ」
「……そっか」
エルメルアリアは、うつむいたままほほ笑む。そして、続けた。
「なあヒワ。この先で、オレがおかしくなりそうだったら、同じことを言ってくれ。冷静になるまで、何度でも」
ヒワは目をみはる。混乱して、しばらく黙ってしまったが、その後にはきっぱり答えた。
「わかった。任せて」
お願いの意味は理解できない。理解できずとも、大事なことなのはわかる。それで十分だった。
エルメルアリアはようやくヒワの方を見る。彼女が不格好に笑ってみせると、彼も屈託のない笑顔を見せた。
二人で笑い合った後、寄り添って来た道を戻る。未だ震える小さな手を、ヒワはそっと握った。