32 回想と混沌の冒険
学生二人と精霊人二人には広すぎる部屋で英気を養った一行は、翌朝早くにカトリーヌと落ち合った。
待ち合わせ場所は宿の外。ヒワたちが一歩踏み出すと、そこにはすでに少女が立っていた。今日の彼女はエプロン風のワンピースを身にまとっている。胸元ではリボンが揺れ、やはりフリルがふんだんにあしらわれていた。不思議と大人びて見えるのは、落ち着いた色合いのおかげだろう。そして、さらに不思議なのは――衣服に合わせたとは考えづらい桜色の傘をさしていることだ。
「はぁい! みなさん、昨夜はよく眠れたかしら?」
四人を見つけたカトリーヌが明るく挨拶する。ヒワとロレンスが声を揃えて「それなりに」と言うと、にっこり笑う。そして、後輩たちの背後に視線を投げかけた。
「あら、フラムさんはそちらが正装なのかしら。ずいぶん印象が変わるわね」
「正装というより、戦装束ですね」
フラムリーヴェが胸の紋章を示す。――今日の彼女は、いつもの鎧姿だった。
「貫禄があるわね。さすが〈浄化の戦乙女〉!」
黒茶の瞳を輝かせた少女が、手を叩く。彼女の賛辞に戦乙女は一礼を返した。それで満足したのか、カトリーヌは体を大通りの方へと向ける。
「それじゃあ、さっそく向かいましょう」
「ちょっと待った。結局、『発生源』ってどこなの?」
背を向けたカトリーヌを、ロレンスが引き留める。少女は小首をかしげ、悪戯っぽく笑った。
「着いてからのお楽しみよ。その方がわくわくするでしょ?」
芝居がかった仕草をした彼女は、今度こそ歩き出す。うなだれたロレンスの肩を、ヒワは慰めるように叩いた。
パヴォーネ・コーダ周辺は、案外と自然豊かだ。鉄道網や車道は整備されているものの、そこから少し外れれば、なだらかな大地に草木が茂っている。東の方へ歩いていくと、一転して岩だらけの大地が見えてくる。カトリーヌが目指しているのは、その荒涼とした一帯だった。
草木の数が減ってきて、灰色の岩が目立つようになってきた頃。ヒワは一瞬、足を止めた。それに気づいたエルメルアリアがそちらを一瞥する。
「ヒワ、疲れたか?」
「ううん。いや、疲れたのもあるけど。それよりも……空気が悪いなあと思って」
エルメルアリアはそれだけで、契約者の言わんとしていることを察したらしい。飛びながらもうなずいた。
「確実に〈穴〉の方へは近づいているからな。まだまだ遠いけど」
「あ、やっぱりそうなんだ」
ヒワは杖を胸の前で握りしめる。緊張と安堵が同時に押し寄せて、足が少しこわばった。ふと隣を見れば、ロレンスが黙々と歩いている。息が上がっているところを見ると、疲れて話す元気がないだけだろう。たびたび地面につま先を引っかけては、フラムリーヴェに支えられていた。
「〈穴〉に近づいている割には、魔物と遭遇しませんね」
「それは多分、私がやっつけちゃったからね」
先頭のカトリーヌが、顔だけを彼らの方へ向ける。
「なるべく手出ししないようにとは思ってたけど、襲いかかってきた子には反撃したから」
「……ひょっとして、いくらか殺したか?」
エルメルアリアの鋭い問いに、カトリーヌはかぶりを振る。
「いいえ。動けなくしただけ。……でも、そうねえ。このあたりで一、二体やっつけたはずなんだけど」
ヒワもちらりとあたりをうかがう。魔物らしき影は見当たらない。起伏に富んだ大地と、遠くの岩山が見えるだけだ。倒された魔物たちはどこかへ逃げてしまったのだろうか。不安に駆られたヒワはしかし、高い靴音を聞くと、慌てて歩みを再開した。
それから数分後。小さく揺れていた桜色の傘が、ぴたりと止まった。それに合わせてヒワたちも立ち止まる。すでに倒れそうになっているロレンスの背中をフラムリーヴェがさすっている。
一方、案内人は軽やかに振り向いた。
「さ、到着! ここが魔物の発生源――」
少女の白い手が指し示したのは――岩壁にまるく開いた穴。
「――サーレ洞窟よ!」
底抜けに明るい声がその名を告げる。
同時、エルメルアリアが顔をこわばらせた。明らかな変化。しかし、それに気づいたのは真横にいたヒワだけだ。彼女の疑問はしかし、顔を上げた少年の呟きに封じられる。
「洞窟かあ。深そうだな……」
「実際、深いわよ。横穴も多いしね」
「まじかあ……」
ロレンスががっくりとうなだれる。しかし、その足は洞窟の方に向いていた。〈穴〉がこの先にあるのは間違いないのだ。気乗りしなくても行くしかないことは、彼もわかっているのである。
ヒワもまた、両頬を軽く叩いて気合を入れた。杖の感触を心の支えとして、歩き出す。しかし、六歩ほど進んだところで相棒がいないことに気づいた。ちらと背後を見ると、彼は宙に浮いたまま固まっていた。
「エラ?」
少し声を張って呼ぶと、エルメルアリアの肩が跳ねた。
「……お、おう」
「行こう。置いてかれちゃうよ」
「わかってる」
エルメルアリアはつんけんと答える。しかし、声に覇気がない。すぐにヒワのもとへ飛んできたが、その動きもいつもより鈍かった。ヒワは首をかしげる。
「どうしたの? 何か気になることがあった?」
エルメルアリアは、白い眉間にしわを刻んで、かぶりを振る。
「なんでもない。行こうぜ」
「うん……あ、ちょっと! 一人で行かないでよ!」
小さな少年は、海鳥のようにヒワを追い越していく。ヒワは慌ててそれを追いかけた。
幸い、仲間たちはまだ奥へ進んではいなかった。洞窟に踏み込んだところで、カトリーヌが傘を畳んでいる。
「カトリーヌさん? 何してるんですか?」
「カティでいいわよ。楽にして」
片目をつぶった彼女は、傘を軽く持ち上げた。
「ここから先は魔物が出るでしょうから。装備を整えようと思ってね」
「装備?」
ヒワとロレンスの声が揃う。彼らの見ている前で、カトリーヌは傘の表面を軽く叩いた。
「『フィオローネ・レーナンダ』!」
太陽のような声が奏でたのは、詠唱だ。それに応えるように傘が輝きだす。かと思えば、それは急速に縮んだ。両手をこすり合わせて伸ばした粘土のように変形し、まったく違う形を作り出す。光が消えた後に残されたのは、一振りの杖だった。
「ええ!? 傘が杖に……!?」
「ど、どうなってんの?」
ヒワとロレンスは目を剥いて、傘があった場所を凝視する。精霊人たちも興味深そうに顔を突き出していた。カトリーヌは、得意満面で杖を振る。
「すごいでしょ。ひとつ二役、自慢の杖よ。あ、作り方は企業秘密ね」
前を向いた彼女は「『ミーレル・フィーア』」と唱えた。杖の先端、花形の貴石の上に、まるい光が灯る。
「これでよし。行きましょ」
意気揚々と歩き出した少女に、ヒワたちは恐る恐るついていった。
狭い道を少し下ると、突然視界が開ける。天井が高くなり、フラムリーヴェが背筋を伸ばして歩けるほどになった。
「静かだね」
「うん。でも、魔物の気配はそこらじゅうにある」
ヒワのささやきに、ロレンスが応じた。二人して杖を握る手に力を込める。そんなとき、前方で響いていた靴音が止まった。
「カトリ――カティ?」
先輩の名を呼んだ少女は、そこで息をのむ。行く手から暗く濁った魔力が漂ってきた。
「みんな、構えて。招かれざるお客様のお出ましよ」
返る声は今までと変わらない。暗がりから影が飛び出してきた瞬間、カトリーヌは杖を振った。
「『ラズィ・ノバーテ・シルール』」
朗々とした詠唱が響き渡る。眼前でいくつもの火花が弾け、魔物の悲鳴がこだました。彼女が杖を一度振るごとに、その火花は連なって、次々と魔物を昏倒させていく。ロレンスが「すご……」とうめいた。
それでも、いくらかの魔物はヒワたちの方へやってきた。イタチを思わせる姿である。すぐさまフラムリーヴェが動いた。剣を現出させ、飛びかかってきた三体を一刀のもとに切り捨てる。一瞬、肉の焦げる臭いが漂った。両断されたイタチたちは、しかしすぐに再生する。その後ろから五体ほどが走ってきた。
「おら、吹っ飛べ!」
エルメルアリアが羽虫を払うように手を振ると、金色に輝く炎の球が一体一体にぶつかる。耳障りな悲鳴と、何かが岩に叩きつけられる音があたりを覆った。
「『グラッカ・コード』」
ロレンスが杖でくるりと円を描く。すると、壁際に倒れたイタチのまわりで岩が盛り上がった。それは跳ね起きようとしていた彼らをがっちりと拘束する。
ハミングしながら杖を振っていたカトリーヌが、彼らの方を見て拍手した。
「みんな、すごーい! さすがに慣れてるわね!」
「どうも」
ロレンスがやりにくそうに肩をすくめる。フラムリーヴェも、いつもより小さい剣を突き立てて一礼した。
そのとき、カトリーヌの背後でふたつの光が灯る。
目だ。気づいたヒワは、とっさに叫んだ。
「『精霊の息吹よ、爆ぜろ』!」
瞬間、カトリーヌの真後ろでくぐもった破裂音が響く。己の魔力で体を吹き飛ばされた魔物は、声も上げずにくずおれた。痙攣している魔物を見たカトリーヌは、その目をそのままヒワに向ける。
「ありがとう、ヒワ」
「い、いえ。……上手くいってよかった」
「今の詠唱、何? 精霊語じゃないわよね?」
ヒワに迫った少女の瞳は、指揮術の明かりにも負けない輝きを放っている。ヒワは気圧されつつも「じ、地元の言葉で」としぼり出した。
「えーっ! すごい、すごい! こんな詠唱、お父様が知ったら興奮で倒れちゃうわ!」
「…………あのう。先へ進みません?」
ロレンスが、カトリーヌの背後に杖を突きつける。ヒワを助けたというよりは、単純に呆れているようだ。棘のある言葉を受けて、カトリーヌは口もとを押さえた。
「そうね。ここで止まっていても、魔物が寄ってくるだけだわ」
再び明かりを灯す。ヒワはほっと息を吐き、考える前に隣を見た。エルメルアリアも喜んでくれるだろうか、という思いが芽生えたのだ。しかし、小さな少年はじっと暗闇をにらんでいるだけだった。ヒワはさすがに眉を寄せたが、隊列が動き出したせいで、またしても尋ねる機会を逸してしまう。しかたなく前を向きなおした。
やはり、というべきか。その後も次々と魔物が襲ってきた。洞窟を駆け抜けながら詠唱しなければならないような状況である。それでも、ヒワとロレンスはカント森林のときほど切羽詰まっていなかった。その理由はやはり、先輩精霊指揮士の存在だろう。
実際に仕事を請け負っているというだけあって、手際がよかった。歌うように詠唱し、踊るように杖を振り、どんなに恐ろしい見た目の魔物にもひるむことなく立ち向かう。舞台の上にいるかのような、明るい笑顔で。
ヒワは自然とカトリーヌの姿を目で追っていた。そして、それは彼女だけではなかった。
「杖で拍子をとり、歌を組み合わせることで精霊たちを高揚させ、魔力を高めているようですね」
「簡単そうにやってるけど、むちゃくちゃ神経使うよね、あれ」
蝙蝠の魔物を五匹まとめて焼いたフラムリーヴェが、カトリーヌの姿をじっと見つめる。その援護をしていたロレンスも、目を細めた。契約者の一言に、フラムリーヴェが顎を動かす。
「エルメルアリアが似たようなことをやっているのは見たことがありますが……人間が実践するのは容易ではないでしょう」
「エラが? そうなの?」
ヒワは黄緑色の瞳を輝かせる。弾んだ問いは、エルメルアリアに向けたものだった。いつもなら、すぐさま得意げな声が返るところだ。が、今日は違った。
エルメルアリアはヒワに背を向けている。彼の前では、四匹ほどの蝙蝠が力を失ったところだった。彼はそれを送還するでもなく見つめている。
「……エラ? おーい」
ヒワは声を張って呼びかける。すると、ようやくエルメルアリアが振り向いた。呆けたような表情で三人を見ている。
「……ん。悪い。何か言ったか?」
「あ、いや……大した話ではないんだけど……」
ヒワはもごもごと答えて引き下がる。しかし、逆にフラムリーヴェが踏み出した。
「エルメルアリア。気になることがあるなら共有してください。最悪、皆の安全に関わります」
「なんだよ急に。そんなの、ないぜ」
「本当ですか? 先ほどから変ですよ、あなた」
フラムリーヴェも気づいていたのだ。ヒワはまじまじと端正な横顔を見つめた。表情の変化に乏しい女性はしかし、少なからず怒っているように見える。
彼女の厳しい視線を受けても、エルメルアリアの答えは変わらなかった。
「気のせいだろ。〈穴〉と魔物の気配がすごい以外は、変なことはねえよ」
それだけ言って、カトリーヌの方へ飛んでいく。
「あ、エラ! 待ってよ!」
ヒワはまたしても彼を追いかける羽目になった。――フラムリーヴェが顔をしかめたことには、二人とも気づいていなかった。
さらに進むと、襲ってくる魔物の数は少なくなっていった。時折天地内界の魔物と遭遇することもあったが、彼らは精霊人の気配に気づくと慌てて身を隠してしまう。
やがて、さらに視界が開けた。広場のような場所に出る。岩壁に小さなくぼみがたくさんあり、横穴のようなものも見えた。
「ここは人の手が入っているのね」
先導していたカトリーヌが、その空間を見回して呟いた。ロレンスが目を瞬く。
「え、そうなの?」
「多分ね。といっても、手を入れたのは大昔のことでしょうけど。元々はルモーレっていう町の近くに繋がっていて、塩や貴金属を運ぶのに使われていたらしいから。――せっかくだし、ちょっと休憩しない?」
先輩からの提案に、ヒワたちは一も二もなくうなずいた。歩き通しで足が痛くなってきていたのだ。
中心の方に座って、携帯食料や水筒を取り出す。万が一魔物が現れたときのために、とカトリーヌが結界を張ってくれた。
ヒワが水を飲んでほっと一息ついたとき。視界の端を若草色がよぎる。見れば、エルメルアリアが横穴の方へ飛んでいこうとしていた。
「エラ、どこ行くの?」
「精霊どもの様子を見てくる。出発までには戻ってくるから、気にすんな」
エルメルアリアは、顔だけをヒワに向けて告げる。いつもであれば、ヒワも了解して送り出すところだ。が、今はその言葉がすんなり出てこなかった。わずかに鼓動が早くなる。
「そういうわけにはいきません」
ヒワの緊張を感じ取ったわけではなかろうが、フラムリーヴェが割って入る。
「横穴の先がどうなっているか、わからないのですよ。単独行動は控えてください」
「そんな奥まで行かねえよ。ぐちぐち口出しすんな」
「そういう問題では――あ、ちょっと」
エルメルアリアは、声がけを無視して行ってしまった。フラムリーヴェが頭を抱えてため息をつく。
「……まあ、いいです。好きにさせましょう」
「フラムリーヴェさん、でも」
「ああなったら聞きませんから」
そう言ったフラムリーヴェは「不安にさせてしまい申し訳ありません」とヒワに向かって頭を下げた。ヒワは、何と答えてよいかわからず、無言で首を振る。
「あらら。エラちゃん、行っちゃった。噂に違わず自由なのね」
カトリーヌが棒状の携帯食料を食べながら横穴の方を見る。水を飲んでいたロレンスが顔を曇らせた。
「いつもはあそこまでじゃない。前がどうだったかは知らないけど……ヒワを放置するなんてこと、カント森林ではなかった」
少年の言葉に何を思ったのか、カトリーヌの眉がわずかに下がる。誰もが重々しく口をつぐんだ。
乾いた空気の中――ヒワは、杖を手にして立ち上がる。
「わたしも行ってくる」
全員が弾かれたように顔を上げる。フラムリーヴェが困ったようにヒワを呼んだ。
「一時でもお一人になるのは危険ですよ」
「そうだよ。エルメルアリアなら大丈夫でしょ」
ロレンスが契約相手に追随した。楽観視しているわけではない。二人ともを案じているからこそ、ヒワを引き留めようとしているのだ。そのことに感謝しつつ、ヒワはかぶりを振る。
「確かに、いつものエラなら心配いらない。――でも、今はいつものエラじゃない」
口から流れ出た声は、自分でも驚くほどに低かった。三人も、気圧されたように黙り込む。だが、すぐにロレンスが立ち上がった。荷物をあさってからヒワのもとへやってくる。
「それなら、ヒワ。手出して」
「……ん?」
首をかしげつつも、ヒワは言う通りにした。差し出された右手に、ロレンスが何かを乗せる。
「何かあったらこれをちぎって。あるいは、噛んでもいい」
それは一見、何の変哲もない葉っぱだった。肉厚でつやつやしている。しかし、よく意識を集中すると、葉の内側から魔力が放出されている。ちぎったら何かが起きるのは確かだろう。
ヒワは、眠そうな表情の友人にほほ笑んだ。
「ありがと。なるべく早く戻ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
ロレンスがひらひらと手を振る。それに応えて、ヒワは小走りで横穴へと向かった。
※
「ねえ。今の葉っぱ、なあに?」
カトリーヌが好奇心を全身にたぎらせて尋ねる。座り直したロレンスは、素っ気なく答えた。
「天外界のお守り、らしい。フラムリーヴェがくれたんだ」
言ってから、ロレンスははっと精霊人を見やる。
「ごめん。他人に渡しちゃって」
「いえ。気にしないでください。また採ってきますから」
フラムリーヴェは淡白に言う。先ほどまでのような怒りや呆れの色は、そこにはない。
「私たちの思いは一致しています。そうでしょう」
「……だね」
添えられた言葉に、ロレンスは口元をほころばせる。ほっとしている自分に気づいて少し驚いた。
穏やかに視線を交わす二人を見て、カトリーヌが頬に手を当てる。
「あらあら。お邪魔虫ね、私」
言葉とは裏腹に嬉しそうなささやきは、岩だらけの地面に吸い込まれていった。