30 パヴォーネ・コーダ
パヴォーネ・コーダは、アルクス王国西部を代表する町のひとつである。王都ほどの広さはなく、ジラソーレのソーラス院ほど象徴的な建物があるわけでもないが、美しい町並みや洒落た店の多さが観光客の人気を集めていた。
クリーム色の壁と赤い屋根の建物が整然と並ぶ町。窓辺や家の前には色とりどりの花が飾られ、足もとの石畳は美しい幾何学模様を描いている。駅を出てすぐ、ヒワたちはその景色に見入ってしまった。
「わあ……」
「ジラソーレとは全然違うな。こう、おしゃれな町、って感じ」
立ち尽くしているヒワの横で、ロレンスが素朴な感想を述べる。フラムリーヴェも「見事なものですね」と呟いていた。
エルメルアリアだけは、ヒワの腕の中できょろきょろしている。
「ふむ。今のところ、変な感じはしないな」
〈穴〉を探しているのだ。それに気づいたヒワは、彼を見下ろす。
「確かに、あの嫌な感じはないね。町からは少し離れてるのかな」
「かもしれないな。長期戦になりそうだ」
小さな少年――便宜上、そう記す――はため息をつく。それを聞いていたロレンスが、遠くに視線を投げた。
「なら、まずは宿を確保しよう。遅くなればなるほどいい部屋は埋まっちゃうから。ヒワ、行ける?」
「うん」
ヒワの返事を聞くなり、彼は歩き出した。ジラソーレの駅でふらふらになっていた少年とは別人のようである。彼の背中を追いながら、ヒワは恐る恐る口を開いた。
「あの……もしかしてロレンス、パヴォーネに慣れてる?」
「ん?」
振り返ったロレンスは、何かを思い出したように目を見開く。
「そっか、ヒワには話したことなかったっけ。――兄貴や父さんにくっついて、何度か来てるんだ。このあたりに拠点を構える精霊指揮士が意外と多いから」
そういった人々に協会からの連絡事項を伝えにいったり、指揮術や魔物に関する情報を交換したりしていたのだという。
ロレンスの昔語りを、ヒワは熱心に聞いていた。しかし、エルメルアリアに「ちゃんとまわり見とけよ」と注意されて気を引き締める。観光客が多いということは、彼らを狙った掏摸や犯罪者もいるということだ。フラムリーヴェが最後尾についてくれているので、そうそう危ないことはないだろうが、頼りすぎるのもよくない。
車輪と馬蹄の響きが絶えず響く通りを進み、角を曲がる。先ほどまでより少し狭い通りに入り、さらに歩いたところで、ロレンスが足を止めた。
「ここだ」
彼が見上げたのは、幅が狭く、縦に長い建物。やはりクリーム色の壁と赤い屋根の取り合わせだが、より上品な雰囲気が漂っている。軒先をよく見ると、宿屋を示す看板がかかっていた。
こげ茶色の扉を開くと、丸テーブルと椅子が並んだ空間が出迎えた。天井から吊り下げられたいくつものランプが、店内を落ち着いた色に染めている。一見して酒場か食堂のようだが、食事が出されているわけではない。宿泊客と思しき人たちが思い思いにくつろいでいるようだった。
「いらっしゃいませ。――おや」
奥から出てきた細身の男性が、ロレンスを見て眉を上げる。上品な所作で、しかし機敏にやってきた。
「これはロレンス様。お久しぶりです」
宿の主人らしい男性が、恭しく一礼する。ロレンスは緊張した様子で、しかし丁寧に応えた。
「お久しぶりです。……様はよしてほしいんですが……」
「そういうわけにはまいりません。お得意様のご子息ですからね」
顔を上げたロレンスは、むう、と小さくうなる。主人は、ほほほ、と笑声を立てた。笑い方まで上品な彼にヒワはひとり感心した。
「本日はご宿泊ですか」
「はい。二部屋、空いてませんか。離れていてもいいんですけど」
ロレンスが尋ねると、主人は顔を曇らせる。
「申し訳ございません。一人部屋も二人部屋も、現在は満室でして」
「あー……そうですか……」
「四階の大部屋でしたらご用意できますが、いかがいたしましょう」
ロレンスは、ぎょっと目を剥いた。
「そこ、一番高い部屋でしょ!? いいです、お金払えないんで」
鋭いささやきを聞き、ヒワもひっくり返りそうになった。いわゆるスイートルームというやつだ。
しかし、慌てる少年少女を見ても、主人は笑みを崩さない。
「二人部屋と同料金でお泊めいたしますよ」
「いやいやいや。今回ばかりは、それはちょっと――」
「ご心配なく。お客様の情報を外に漏らすことは致しません」
親に請求はしない、という意味か。ヒワはフラムリーヴェと顔を見合わせる。ロレンスも、あからさまに眉を寄せた。
「……何か頼み事でも?」
「いえいえ、大したことではないのですが……」
宿の主人は、芝居がかった様子でかぶりを振った。それから、何事かを耳打ちする。ロレンスは、しかめっ面のままうなずいた。
「それくらいなら、まあ……できますよ」
「それはよかった!」
主人が、ぽん、と手を叩く。
「では、交渉成立ということで。お部屋の鍵をお渡しします」
「ああちょっと、その前にお支払い……」
奥に歩いていく主人を、ロレンスが小走りで追う。ヒワたちも困惑したままついていく。その際、エルメルアリアがちらりと隅の方を見たが、何も言わずに目を逸らした。
「ロレンス……大丈夫なの? 何言われたの?」
階段をのぼりながら、ヒワが口を開く。前を行くロレンスは振り向くと、困ったように笑った。
「二〇二号室の空調の調子が悪いから、見てくれって」
「へ?」
思いもよらない内容に、ヒワはぽかんとする。彼は、すぐに言葉を繋いだ。
「ここのご主人とグラネスタ家は、代々懇意にしてるんだって。だから、ちょっと宿代を安くしてくれるんだけど……時々、指揮術絡みの頼みごとを持ってこられるんだ」
「それを引き受けるのが宿代がわり、ということですか」
フラムリーヴェの言葉に、ロレンスはうなずいた。
「と、いうわけで。今日は出かけられなさそうだ。ごめん、みんな」
鍵を顔の前に掲げて謝罪する。そんな彼に、精霊人たちが爽やかな笑みを向けた。
「寝床と食事のためなんだろ。気にすんな」
「それに、人助けは精霊指揮士の大事な仕事ですよ」
ヒワも力強くうなずく。ロレンスは、安堵したように肩を下げた。
「そうだ、ヒワ。一緒に来る? 道具の調整も案外おもしろいよ」
突然の提案に、ヒワは面食らった。
「興味はあるけど……わたし、何もできないよ。邪魔にならないかな」
「大丈夫だよ。ヒワはやたらと走り回ったり、調度品を勝手に触ったりしないでしょ」
そのようなことをした者がいたかのような言い方だ。ヒワは思ったが、口には出さなかった。代わりに、大きくうなずいた。
部屋に入って荷物を置いた後、ヒワとロレンスは二〇二号室へ向かう。その部屋では、宿の主人が待っていた。彼は少女を見て驚いた顔をしていたが、ロレンスから「彼女は精霊指揮士の世界に入ったばかりで、自分に付いて色々学んでいる」と聞くと、快く迎え入れてくれる。
指揮術仕掛けの空調は、壁に穿たれた穴から温風や冷風が出る仕組みらしい。穴には装飾のような網の蓋がかけられている。脚立に乗って蓋を外し、中をのぞきこんだロレンスは、「なるほどー」と呟いた。
「受力板が劣化してるな。式の方は……うん、問題なし」
ひとりごちた彼は、穴に頭を突っ込んだままヒワを呼んだ。
「ヒワ。道具箱の中に、水色のきらきらした板が入ってない?」
ヒワは飛び上がりそうになった。慌てて、足もとの黒い箱を見る。――部屋を出るときからロレンスが持っていたものだ。恐る恐る蓋を開けると、中は整然と仕切られていて、仕切りの中に見慣れない石や板、用途のわからない道具が入っている。『水色のきらきらした板』は、左端に立てて並べられていた。
「えっと……五枚くらいあるけど……」
「よしよし。それ、一枚ちょうだい。あとその、釘みたいなやつも」
「わかった」
ヒワは、顔を出したロレンスに言われた物を渡す。再び穴に潜ったロレンスは、何やら作業をしているようだった。しばらくすると、右手をぶらぶらさせて「杖どこだ、杖」などと言い出す。脚立の横に立てかけられていた杖を、ヒワが手渡した。
「『ヤーナ・ヤーナ・スピルード』『アールム・ファーゼム・アールム・ファーゼム』」
くぐもった声が詠唱する。すると、四角い穴から光が漏れて、冷たい風が流れ出した。宿の主人が歓声を上げる。
「よーし。いい感じ」
脚立を下りたロレンスに、主人が何度も頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます、ロレンス様」
「いえ。正しく使えば十年は持つと思いますけど、もしおかしくなったら連絡ください」
ロレンスは、いつもの調子でそう告げる。ヒワは、道具箱を閉じながら彼らの様子を見ていた。
恭しい宿の主人に見送られて、二人は部屋を出た。階段を目指しながら、小声で会話する。
「さてと、少し休もうか。それから作戦会議かな」
「そうだね。どこから調査するか決めないとだし――」
「――へえ、調査かあ」
ひそひそ話に、突如高い声が割って入った。
ヒワとロレンスは、息をのんで立ち止まる。拍子を刻むような足音が近づいてきた。
ヒワたちの反対側からやってきたのは、若い女性だった。まだ少女といってよいのかもしれない。蜂蜜色の長髪を緩く巻いていて、顔には化粧をしていた。しかし決して派手ではなく、ほどよい色香と愛嬌を醸し出している。
その歩みは軽やかだった。一歩ごとに、折り目の入ったスカートが揺れる。彼女は二人の目の前で立ち止まると、茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。
「子犬みたいにかわいいあなたたちが、何を調査するのかしら。私にも聞かせてくれない?」
問い、せがむ声は、明るい。敵意も悪意も感じられない。
しかし、あまりに突然すぎて、二人とも返答に窮してしまった。ややしてロレンスが「いきなりなんですか……」とため息まじりの問いを漏らす。
少女は小さく舌を出した。
「ごめんなさい。あなたたち、精霊指揮士でしょ? つい気になって、話しかけちゃった」
「理由になってないし答えにもなってないです。精霊指揮士なんて、このあたりじゃ珍しくもないでしょ」
ロレンスが地を這うような声で切り返す。指揮術語りでもないのに、早口だった。敵意すらにじむ反応を、少女は歯牙にもかけない。無邪気な童女のような笑い声を立てた。
「確かに、精霊指揮士はたくさんいるわ。――でも」
その笑顔のまま上半身をしなやかに曲げ、顔を二人に近づける。
甘い声が、ささやいた。
「精霊人を連れ歩いている精霊指揮士は、ほとんどいない。でしょ?」