3 運命のことば
猿のような魔物が咆える。獣の声に金属音を混ぜたような、吐き気を催す音だった。
その一声が、魔物にとっての合図だったらしい。彼らは一斉に飛び出した。人間に、建物に、突進していく。
呆然としていた人々が、一目散に逃げだした。先ほどまでとは比べ物にならないほど、切羽詰まった悲鳴や助けを求める声が響き渡る。
地獄絵図と化した商店街で、しかしヒワは立ち尽くしていた。
手足の感覚がわからない。獣の声が、誰かのいやだという叫びが、やけに遠く聞こえる。
夢を、それもひどく曖昧で支離滅裂な夢を、見ているような気分だった。
猿――に似た何か――が再び振り返る。にたりと笑った、ように見えた。
瞬間、背後で火のついたような泣き声が上がる。
ヒワは、はっと息をのんだ。すべての音が、色が、においが押し寄せてくる。硝子の割れる音が立て続けに響き、低音が足もとを震わせた。
荷物を抱きしめて振り返る。扉が破られた商店の前で、男の子が泣いていた。逃げようとした拍子に転んだようだ。
数度、深呼吸する。猿から目を離さないまま、一歩ずつ後ずさる。男の子のそばまで下がったところで、そっとしゃがみこんだ。後ろを警戒しつつ、その手を握る。
「怪我、してるの? どこか痛い?」
ヒワは震える声で問う。男の子は少しの間、両目をいっぱいに見開いて彼女を見上げていた。その後、細かく首を振る。
ヒワは無理やり口角を上げて、小さな手を引いた。
「なら――走れる?」
尋ねると、彼は無言でうなずいた。ヒワは、姉の顔を思い浮かべながら、言葉を繋ぐ。
「よし、かっこいいぞ。お姉ちゃんと一緒に逃げよう」
「……でも。お、おかあさん……」
「お母さん、どっちに行った?」
暴れる心臓を必死になだめて問いを重ねると、男の子は商店街の奥を指さした。よりにもよって、魔物が集まっている方だ。苦い気持ちになりつつも、男の子が立ち上がるのを手伝った。
「じゃあ、隠れながらあっちに行こう」
「うん」
「いっせーのせで、走るよ」
男の子は再びうなずいた。ヒワもうなずき返して、息を吸う。
「いっせーの……せ!」
二人同時にささやいて、走り出した。すぐに細い路地へと駆けこむ。
ジラソーレ暮らしはそれなりに長い。この商店街にも数え切れないくらい来ているので、大抵の道は頭に入っている。人々が避難するとしたらどこか。魔物が入ってこなさそうな道はどれか。ヒワは懸命に頭の中で地図を広げながら走った。すでに両足が痛いし荷物はすこぶる重い。が、泣き言を言っている場合でもない。
「おねえちゃん、こっち!」
「――うん!」
大抵の道を知っているのは、男の子も同じらしい。彼と目を合わせたヒワは、角を曲がって道なりに走った。表に出たら、瓦礫でもなんでも使って隠れながら、この子の母親を探す。そんなふうに考えていたが、一瞬後、自分の計画が甘かったことを痛感する。
表の様子をうかがおうと、一度足を止めたとき。光が差していた目の前が、急に暗くなった。
ひっ、とか細い音がする。薄闇の中に、ふたつの光が灯った。
耳障りな笑い声が流れてくる。――先ほどの、猿のような魔物だ。路地をのぞきこんだそいつは、大きく口を開き、のけぞる。
『魔物が口を開けたらまず防御。九割がた、なんか飛んでくるから』
脳内に平坦な声が響いた。ヒワはとっさに荷物を頭上で抱え、男の子に覆いかぶさるようにして伏せた。
ほぼ同時、あたりが赤く染まる。ごう、と空気がうなって、火傷しそうなほどの熱波が二人の上を通り過ぎた。
男の子がヒワの体にしがみつく。ヒワは自分が泣きたいのをこらえて、少し首をひねった。
ふたつの光が、少しずつ近づいてくる。巨体が壁をゆがめ、太い角が屋根や庇を突き破った。
「そんな……」
逃げ場がない。絶望しかけたヒワはしかし、また平坦な声を思い出した。
『魔物に遭ったら? 二人の場合、逃げる一択でしょ。あーでも、もし逃げられない状況なら……』
ヒワは買い物袋の中に手を突っ込んだ。感触だけを頼りに目当てのものを取り出す。ついで、もう片方の手で、近くにあったひしゃげた鉄板を鷲掴みにした。
「――柑橘か金属を、投げまくる!」
友人の言葉を復唱しながら、ヒワは右手につかんだオレンジを投げつけた。思ったようには飛ばず、標的に当たる前に地面に落ちたが、魔物は明らかにひるんだ。
すかさず鉄板を右手に持ち替えて、それを叩きつけるように投げる。魔物が距離を詰めていたこともあり、これは足に当たった。ヒワは金属に見えるものを手当たり次第につかんで投げた。魔物の襲撃で瓦礫や金属片がそこらじゅうに散らばっていたのが、不幸中の幸いだった。
魔物はあの嫌な声で絶叫し、頭を振り乱した。それからヒワたちをにらみつけ、右腕を振りかぶる。
しまった、と思ったときには遅かった。腕が振り下ろされる。衝撃が襲ってくる。ヒワは、鋭い痛みにうめいた。肩に一撃がかすったらしい。
「お、おねえちゃ……」
男の子が泣きながらヒワを呼ぶ。ヒワは、なだめるように彼の頭をなでたが、焦りと恐怖を隠し切れなかった。彼女が小さくうめいている間にも、魔物はぐいぐい路地に体を押し込んでくる。もう、鼻や口が見える距離にいた。
目の端から涙がこぼれる。ヒワが唇をかんだとき――その額を、ぬくもりが撫ぜた。
「――『バム・バム』!」
この場の誰のものでもない声が、魔物の向こうから響く。
次の瞬間、魔物の体が大きく揺れた。一拍遅れて左右の壁が派手に消し飛ぶ。
「『ラズィ・シルール』!」
間断なく響いた声に応えるように、魔物の頭上で光が弾ける。光を浴びた魔物は頭を抱えて絶叫した。体を反転させ、瓦礫を踏み砕いて逃げていく。
ヒワと男の子が呆然としていると、強引に開通された路地に誰かが踏み込んできた。
「大丈夫ですか!――って」
現れたのは、どこかで見たようなローブをまとった少女だ。アーモンドのような瞳に鋭い光を宿し、金色の巻き毛を振り乱している。
「あなた――」
「あ……さっきの、精霊指揮士、の……?」
絶句した少女を見上げ、ヒワも呆然と呟く。少女は金魚のように口をぱくぱくさせていたが、気を取り直すと「ちょっと、じっとしててください」と言ってその場にしゃがみこむ。彼女はローブの下からいくつかのものを取り出した。張り紙がされた小瓶と白い布、そして包帯である。
少女は手早くヒワの肩と手に応急処置をほどこした。二人を助け起こすと、少しの間一緒に走ってくれる。
別の路地に入ったところで、彼女はヒワの手を離した。
「突き当りを左に曲がって、道なりに進んでください。その先の公園が臨時避難所になってます」
「わ、わかりました」
ヒワは少女に頭を下げて、男の子の手を強く握る。――この子の母親も、公園にいるかもしれない。
すぐそばで、魔物の声が響いた。
「『バム・バム』!」
少女は振り向きざまに杖を突き出し、先ほどと同じ言葉を叫ぶ。すぐそばに迫っていた、獅子の頭を持つ魔物の目の前に炎の塊が現れ、勢いよく弾ける。
「今のうちに!」
「は、はい!」
ヒワは、言い終らぬに駆け出した。体力などとっくに尽きていたが、「止まったら死ぬ」という思いだけで足を動かす。
言われたとおり、突き当りを左に曲がり、路地を進んだ。遠くから、爆音や指示を飛ばすような声がする。先ほどの少女以外にも、町の精霊指揮士が駆けつけたのかもしれない。
「公園、まだかな」
「も、もうすぐ、だと思う。あの看板、見覚え、ある、から」
男の子と二人、息を切らせながらも走り続ける。遠くに見える赤い看板をにらみ、ヒワは大きく踏み出そうとした。
しかし、突然行く先で何かが爆発した。低音がとどろき、白い煙があたりを覆う。とっさに顔をかばった二人の前に黒い影が躍り出た。
「……勘弁してよ……」
顔から手を外したヒワは、いびつに笑って呟く。
そこにいたのは、やはり魔物だ。四足歩行で、頭は牛のようだが、それにしては胴体が細く、太い尻尾がちらりと見えた。
魔物は人間たちをまっすぐに見ている。狭い路地を破壊しながら、ずしずしと歩いてきた。
男の子が嗚咽を漏らす。ヒワは彼の手を握り直し、逃げようとした。しかし、思うように足が動かない。わずかな段差に足を取られて転倒した。
うっ、と濁ったうめき声が漏れる。痛む体を引きずって、同じように転んだ男の子にどうにか覆いかぶさった。
魔物は当然のように歩いてくる。肌にかかる生ぬるい風は、自然のものか鼻息かわからない。
下から言葉にならない声が響く。ヒワも、我慢の限界を迎えていた。
もう立てない。それどころか、体が動かない。
声を上げようにも、流れ出るのは息とかすれた音だけだ。
魔物は近い。投げられそうな金属はない。あったとて、投げる力も出ないだろう。
「や、だ」
悲鳴はやはり、音にならない。
それでもヒワは、止められなかった。
「やだ、いやだ。たす、けっ――」
喉が引きつる。か細い音が漏れる。幼子のように泣きながら――
「だれか、たすけて……!」
――最後の声を、絞り出した。
叫びというにはあまりにも小さい声のはずだった。しかしそれは天まで届き、水しぶきのように四方八方へ飛び散る。
不自然に反響して飛んだ音は、空を駆ける『彼』のもとへ舞って、弾けた。
「承知した」
知らない声が降ってくる。ヒワは弾かれたように顔を上げた。獲物に迫っていた魔物も、ひるんだように動きを止める。
「その『詠唱』を受諾する。契約は、ここに成った」
声変わり前の少年のような、高くて、透き通った声。どこから響いているのかわからないのに、ヒワには耳元でささやかれているように思えた。
茜色に染まった空から、光の球がふたつ、降ってくる。それは魔物の頭上に落ちると同時、閃光となった。
魔物が声を上げる間もなく、突風が吹きつけた。なすすべなく吹き飛ばされた魔物は、遠くの家屋に激突する。すでに崩れかけていた建物は、その衝撃で完全に崩壊した。
瓦礫に埋まった魔物を、若葉色のヴェールが覆い隠す。
ヒワたちの目の前に、裾の長い衣をまとった少年が下りてきた。彼は軽く手を払うと、呆然としているヒワを振り返る。
「さて。オレを呼んだのは、あんたか?」