28 詠唱のかたち
翌日の昼過ぎ、ヒワは図書館へ出かけた。指揮術の本とヒダカ語の入門書、それから民俗学の本や気候の仕組みに関する研究をまとめた本などを厳選して借りた。
外で待っていたエルメルアリアと合流する。古代の神殿を思わせる入口の、柱の陰で鞄をちらりと開いた。
「これで大丈夫かな」
「……うん。こんだけあれば、なんとかなるだろ」
エルメルアリアのお墨付きを得て、ヒワはふにゃりとほほ笑んだ。
その帰り道。ヒワが重たい鞄と戦っていると、突然声をかけられた。
「お出かけですか、ヒワ様。エルメルアリアも」
「あっ。フラムリーヴェさ……ん?」
覚えのある声に反応したヒワは、しかし硬直する。
ヒワの前に立っていたのは、炎色の髪を持つ女性。炎熱と親しい精霊人、フラムリーヴェだ。ただし、いつもの鎧姿ではなく、黒いワンピースを着ている。さらに、脚をこれまた黒いタイツが覆い、足もとを真っ赤な靴が彩っていた。
「そ、その格好は……」
「ああ。人里で鎧姿は目立つということで、着替えました。……どこかおかしいでしょうか」
ワンピースをつまんだフラムリーヴェが目を伏せる。ヒワは慌てて首を振った。
「そ、そんなことないです! すごく似合ってます」
「そうですか。ヒワ様にそう言っていただけて、安心しました」
薄く笑んだ戦乙女を見て、ヒワもほほ笑む。それはそれで目立ちそうだ、という一言を我慢した自分を褒めてやりたい。先ほどから通行人がちらちらと振り返っているのも、きっと気のせいである。
「いつもの鎧も黒だからな。オレから見れば、あんまり変わらないぜ」
「それならよかった」
下から話しかけたエルメルアリアに、フラムリーヴェはいつも通りの反応をした。彼が飛んでいないことについては、さほど驚かないようだ。
そう。珍しく、エルメルアリアが地面に立っている。ヒワが背負う形を取らなかったのは、何冊もの本を持っている彼女を気遣ってのことだった。
「ところで、お二人はここで何を? ヒワ様は、ずいぶんと重い荷物をお持ちのようですが」
フラムリーヴェが頭を傾ける。ヒワは苦笑して、分銅のような鞄を持ち上げた。
「ええとですね。ちょっと、図書館に行ってました。指揮術の研究に使いたい本があって」
「……指揮術の研究に、ヒダカ語……?」
フラムリーヴェが眉を寄せる。ヒワは驚いて、とっさに鞄の口を押さえた。相手も、慌てた様子で「すみません、盗み見するつもりはなかったのですが」と詫びてくる。
ヒワは笑ってかぶりを振る。精霊人は目も良い、と頭の中に書き留めた。
フラムリーヴェは、しかめっ面のままでヒワの足もとをにらんだ。
「……エルメルアリア」
「なんだ?」
「何をするつもりか知りませんが、くれぐれもヒワ様に怪我などさせないでくださいね」
「させるわけねーだろ」
小さな少年は、いつものように胸を張る。フラムリーヴェは「ならよいのですが」と呟いて、つま先を別の方角に向けた。
「私はロレンスの元に戻りますね。失礼します」
任務のためロレンスと契約した彼女は、一か月の『お試し期間』が過ぎてもなお、彼のそばにいる。
そのことに思いを馳せつつ、ヒワは左手を小さく振った。
「あ、はい。――また」
「ええ、またお会いしましょう」
フラムリーヴェは、それに応えて、雑踏の中に消えていった。
※
ヒダカ語は、精霊人から見ても興味深い言語だという。
日常的に三種類の文字を使っていること。一部の文字は読み方がいくつもあり、それも組み合わせなどによって大きく変化すること。文節を並び替えてもある程度同じ意味の文章が成り立つこと。理由を挙げればきりがない。
加えて、指揮術にも関わる重要な要素があるのだと、エルメルアリアは語った。
「ヒダカ周辺では、『意味を持つ文字』が使われてるだろ」
「意味を持つ文字?」
自室にて、ヒワは首をかしげる。隣に浮いているエルメルアリアは、机の上に広げた本を指さした。ずばり『ヒダカ語入門』である。彼が指した複雑な文字を見て、ヒワは納得した。
「……ああ、そうだね。大陸の国が発祥で、それが伝わってきたらしいけど」
しかし、意味を持つ文字とやらがなぜ重要なのか、ヒワにはぴんと来ない。冴えない表情に気づいたのか、エルメルアリアが腕を組んだ。
「意味や由来ってのは、精霊どもを突き動かす力になるんだ。文字ひとつが持つ意味が多いほど、それを使った言語は精霊に意図を伝えやすいものになる。……理論上はな」
本の横に広げた白い紙を、白い指が軽く叩く。
「ヒワの姓――スノハラは、どう書くんだっけ?」
「え? ええと……こうだね」
ヒワは怪訝に思いつつも、ペンを走らせた。文字をなぞったエルメルアリアは、黄緑色の瞳をのぞきこむ。
「それじゃあこれ、どういう『意味』だ?」
「ん? 春原、だから……春の野原? かな?」
精霊人の意図がつかめないヒワは、問われたことに素直に答える。瞬間、彼女の眉間をエルメルアリアの指がつついた。
「さっき、何を思い浮かべた? 文脈とか整合性とかは気にしなくていいから、言ってみろ」
「え、ええと……」
野原なので、平らな土地だろう。荒原ではなく、野草や花芽が生い茂っているはずだ。もしかしたらタンポポやスミレ、時期によってはシロツメクサなども咲いているかもしれない。蝶や小さな虫たちもたくさんいる。空は淡い青色で、日差しはきっとやわらかい。
ヒワの脳裏に浮かんだ景色を、そんなふうに伝える。すると、エルメルアリアは片目をつぶった。
「どうだ。あんたはこのたった二文字から、それだけの風景を想像した。普段の詠唱では、こうはいかないだろ? これが指揮術に関わる重要な要素だ」
ヒワは少し考えこむ。それから――あっ、と叫んだ。
「ヒダカ語を取り入れたら詠唱の本質を理解しやすくなるんじゃないか……ってこと?」
「そういうこと」
文字の性質に加え、ヒワにとって慣れ親しんだ言語というのも大きい。ヒワは、家名を構成する二文字をまじまじとながめた。
「ぶっちゃけ成功率は低いけど、試してみる価値はある」
エルメルアリアが入門書をぱらぱらとめくる。その姿を見上げ、ヒワは眉を寄せた。
「試すって、何するの? そもそも、どうやってヒダカ語を取り入れるのさ」
「簡単なことだ。基礎の詠唱をヒダカ語に置き換える」
「なるほど、翻訳……って、ええ!?」
ようやくエルメルアリアの思惑を知って、ヒワはひっくり返った声を上げる。部屋に反響するほどの大声を浴びても、精霊人は動じなかった。それどころか、楽しげに入門書を広げている。……基礎単語が並んでいるページだ。
「ヒワとオレにかかれば三日で終わるさ。まずはやってみようぜ」
薄暗がりの中、赤紫色に変じた瞳が、星を宿して輝いた。
※
その後、丸三日かけてよく使う詠唱を訳した。エルメルアリアの宣言通りである。元の詠唱からヒダカ語への翻訳自体は、二人の知識があればそう時間はかからない。しかし、それだけでは意訳に偏りや齟齬が生じてしまう。そこで図書館から借りてきた本の出番だ。広げた本たちと順番ににらめっこをして、言葉を調整していく。
「精霊どもの反応も見ないとな。伝わりづらかったら意味がない」
「あと、語感の良さも大事だよね! 五・七・五とか!」
「ちょっと何言ってるかわかんねえから、そういうのはヒワに任せる」
「わかった!」
途中、熱中しすぎて家族に怪しまれるなどのハプニングもあったが、なんとか予定していた詠唱の置き換えが終わった。
夏休みが始まる前日。ヒワはロレンスに「指揮術を見てほしい」と頼んで、ジラソーレ郊外まで足を伸ばした。術を使うのにちょうどよい、開けた場所があるのだ。いつもひと気がないので、事故を起こす心配もない。
「術、安定してきた?」
薄手の長袖シャツと同じく薄手のズボンという質素ないでたちのロレンスが、淡白に尋ねてくる。ヒワは小さく首を振った。
「わかんない」
「へ?」
「これ自体が検証みたいなものだから」
ロレンスは、寝ぼけたような顔で頭を傾けた。そばに控えているフラムリーヴェが遠くを見やる。エルメルアリアが太い枝を地面に突き刺し、上の方に薄い布を結び付けていた。それを三度、繰り返す。
「何をやっているんです、あなたは」
「的づくり」
「……的?」
怪訝そうな視線を無視して、エルメルアリアは契約者のもとに舞い戻った。
「さて、ヒワ。あれが目標だ。しっかり狙えよ」
「うん」
ヒワは、杖を構えた。最初の狙いは、中央の的。
宙を漂う魔力に意識を向ける。最近は、目を閉じなくてもなんとなく感じ取れるようになってきた。その動きを丁寧に追ったヒワは――杖を突き出した。
「『風の針よ、貫け』!」
詠唱は簡潔に。細かい指示は、杖の動きとイメージで。指揮術の基本を忠実に守ったヒワに、精霊たちはよく応えた。
ひゅっとか細い音がして、中央の布が揺れる。一瞬後、布には点のような穴が開いていた。
「は?」
「なんと」
横合から声が飛ぶ。歓声ではなく、驚愕の声だった。
ヒワは杖を右に滑らせて、同じ詠唱を繰り返した。やはり、風切り音ののち、布に穴が開く。中心から少し左にずれたが、問題ない。左側の的にも、同じように風の針を飛ばした。
穴の開いた三枚の布が、夏の風に揺れる。その様子を見たヒワは――杖を両手で握りしめた。歓喜に震える。頭が、目もとが、熱を帯びた。
上を見る。エルメルアリアと目が合った。
「……エラ」
「……おお」
「これ、成功だよね」
「成功だな」
互いの言葉を噛みしめる。互いの顔を焼きつける。見つめ合った二人は――自然と、相手の手を取った。
「やったあ! 上手くいった!」
「やったな! はは、嘘みてえ!」
「嘘じゃないよ! ないよね!?」
ぐるぐる回りながら笑いあう。二人とも、自分が何を言っているのかよくわからなくなっていた。体も思考も、雲のようにふわふわしている。
しばらく踊ったのち、エルメルアリアが勢いよく離れた。彼はすぐさま旋回して、ヒワのもとへ戻ってくる。二人が落ち着いたと見て取ったのか、ロレンスたちもやってきた。
「驚きました。精霊語以外での詠唱は成功率が低い、と聞いていましたが……」
「そうだよ。だから、ほかの言語を使っていいのは契約の詠唱だけ、っていうのが常識なのに。むしろいつもより安定してるって、どういうことだよ」
フラムリーヴェは素直に感心している。対して、ロレンスは半分呆けていた。
エルメルアリアが二人を見て、にやりと笑う。
「まあ、ヒワにはたまたまこれが合ってた、ってことだろうな」
「あなたが仕込んだんですね?」
同胞の女性は、探るような視線を向けた。エルメルアリアは空中で足を組む。
「オレは提案しただけだ。ヒワがヒダカ語を話してるのを聞いて、もしかしたら、って思ってな」
「そこで『詠唱を丸ごと翻訳しよう』という発想に行きつくところが……。さすがと言うべきか、呆れるべきか……」
天を仰いだ戦乙女を見て、エルメルアリアは目をしばたたく。それから、上機嫌に鼻を鳴らした。
「ふっふっふ。もっと褒め称えてくれてもいいんだぜ」
「いえ、やめておきます。調子に乗られたら困るので」
――騒がしい精霊人たちをながめていたロレンスが、ぽりぽりと頭をかいた。
「ヒダカ語かあ。盲点だったな」
彼は、口もとに手を当てると、ぶつぶつと呟きはじめた。
「再現性は低いけど、おもしろい。ヒダカ語って自由度高いらしいし、使い方次第では指揮術の幅が広がるぞ。それに、不意打ちや攪乱にも使える。このあたりでヒダカ語をしっかり学んでいる人は少ないから、そこを突けば……一撃必殺かつ博打っぽくはなるけど……」
「フラムリーヴェ。あんたの契約者が物騒なこと言い出したぞ」
「対人戦まで想定するとは。ロレンスは視野が広いですね」
「似た者同士か……」
フラムリーヴェの表情はほとんど動いていない。が、瞳は爛々と輝いていた。エルメルアリアが頭を抱える。ヒワは思わず吹き出した。そこで、ロレンスがぴたりと言葉を止める。我に返ったようだ。笑いを堪えているヒワを見ると、困ったように眉を下げた。
「結局、俺は役に立たなかったね」
「そんなことないよ」
自虐的な一言に、ヒワは身を乗り出して反論した。
「ロレンスがいなかったら、わたし、もっと早く挫けてたかもしれない。それに、杖の動かし方を意識できたのはロレンスのおかげだよ」
暴風のような言葉の数々に、ロレンスは唖然としていた。少しして、鼻の頭が赤くなる。わずかにうつむいた彼は、頬をかいた。
「まあ、うん。それなら、よかった」
「それに、元の詠唱の練習も続けるからさ。また何か相談することもあるかも」
「わかった。ゆくゆくは、詠唱の使い分けをしてもおもしろいかもね」
たじろいでいた少年の瞳が好奇心から輝く。ヒワは「また難しそうなことを……」とぼやいたが、まんざらでもない気分だった。
「よーし! 次の任務で使えるように調整しよう!」
「あまり根を詰めないでね。慣れない術を使うと、普段より疲れるから」
「ぶっ倒れないように見張っとくか」
「ロレンスさえよければ、私も付き合いましょう」
「いいよ。俺もそのつもりだったし」
太い木にもたれかかったロレンスの視線を感じつつ、ヒワは再び杖を構える。コマドリの鳴き声を聞きながら、細く息を吸った。
――精霊人たちが慌ただしく天外界に向かったのは、その日の夜のことである。