27 ヒワの指揮術
相談事があるなら、ということで、ヒワとロレンスは連れだってスノハラ家へやってきた。五階建ての集合住宅、その二階の一室が目的地である。集合住宅の一室といっても、四人が快適に暮らせる広さだ。
扉を開け、広い玄関を通り抜けると同時、明るい声が降ってくる。
「お、ヒワ。やっと戻ったか」
居間の方から小さな少年が顔をのぞかせた。尻尾のようなプラチナブロンドの髪が左右に揺れている。
「エラ」
「ロレンスも一緒なのか」
「うん。こんにちは」
精霊人のエルメルアリアは、流れるように飛んでヒワの元へやってきた。ぺこりと頭を下げたロレンスに挨拶を返す。
「ずっと家で待ってたの?」
「いや。偵察の最中に二人を見つけたけど、精霊指揮士じゃない奴と一緒にいたから、声かけずに戻ってきた」
「シルヴィーだね、それ」
ヒワとロレンスは納得してうなずく。エルメルアリアは首をかしげたが、友人について深く訊いてはこなかった。代わりに、まったく違う問いを口にする。
「また勉強会でもやるのか」
「ううん。これからお昼。エラも食べる?」
「何食べるんだ? ヒワが作るのか?」
「そうなるね。おにぎりくらいしか作れないけど」
小さな少年は、空中で首をかしげた。
「オニギリ……って、聞いたことはあるような……」
「見てもらった方が早いか」
早々に判断したヒワは、手早く着替えて台所に向かう。友人と精霊人もついてきた。
慣れた手つきで米をとぎ、鍋に入れる。今日は浸水せずに炊くので、気持ち多めの水も加えた。
鍋を火にかけている間に、ロレンスには余り物のおかずを出した。娘たちが早く帰ってくることを見越した母が、わざわざ分けて置いておいてくれたらしい。ちなみに、コノメの分はすでになくなっていて、洗った後の食器が残されていた。
ヒワは鍋を見張りながら、美味しそうに食べるロレンスも見守る。人間ほどしっかりとした食事が必要ないエルメルアリアも同様だった。
米が炊けたところで、ヒワは手に塩水をつけて握っていく。母のようにはいかないが、それなりに手際よくできているはずだった。
少々いびつなおにぎり、六つ。それをお皿に並べ、食卓に持っていく。体の大きさも実年齢も違う少年たちが、顔を輝かせた。
「これ好きなんだよな、俺」
「そうだったの? 言ってくれればおやつに持ってったのに」
「面白い見た目だな。この黒いの、なんだ?」
「海苔だよ。板状にして、乾燥させたやつ」
「へええ。あの海藻がこんなふうになるのか」
ひとしきり騒いだところで、三人でおにぎりを食す。幸いエルメルアリアにも好評で、皿はあっという間に空になった。「ご馳走になったから、皿洗いは俺がするよ」と言って、ロレンスが素早く台所に持っていく。勝手知ったる他人の家、というやつだ。
「それで、何を相談したいの?」
皿洗いをしながらロレンスが尋ねる。人数分のお茶を淹れたヒワは、ためらいがちに答えた。
「あのね。わたしの指揮術、どうにも安定しないんだ」
それを聞いて、ロレンスは少し考えこんだ。皿についた泡を流しながら口を開く。
「それってつまり、威力がまちまちってこと? カント森林のときみたいに」
「そう」
同じ術でも時と環境によって結果が変わる。それ自体は、どんな指揮術でもあることだ。精霊がいつもぴったり同じ量の魔力を出してくれるわけではないので、当然である。また、精霊指揮士の体調なども影響してくるものだ。
しかし、それを差し引いてもヒワの術は不安定すぎた。
例えば、杖の先に明かりを灯す術。煌々と家中を照らせるような明かりが灯ることもあれば、風に吹かれた蝋燭の火程度の明かりしか灯らないこともある。しかも、毎回結果に激しい差が出るのだ。
「なるほど。それじゃあ実戦で使えないよなあ」
「そうなんだよー。おかげで、結界担当から先に進めなくて……。結局、エラにばっかり負担かけてる気がするんだ。どうしたらいいかなあ」
ヒワは深いため息をつく。ロレンスは、皿を拭きながら「うーん」とうなった。
「考えられる原因は……詠唱の発音か、イメージ不足か?」
「うぐっ。どっちも心当たりしかない」
「前に見た感じだと後者かな。発音はそんなに悪くなかったから」
「そうかな」とヒワは首をかしげる。今の今まで、詠唱の発音に自信を持てたことがなかった。だが、ロレンスは「そうだよ」と断言する。
「覚えたての見習いなんて、もっと発音がたどたどしいのがいっぱいいる」
水切り籠に皿を立てる。「終わりました」と報告したロレンスに、ヒワも「ありがとうございます」と敬語で返した。
食後のお茶を飲みながらも、指揮術の話は続く。
「エルメルアリアの見立てはどうなの?」
「んー……ヒワのやりたいことが精霊どもにはっきり伝わってない感じだな。おかげであいつらも『こうか?』『それともこうか?』って探りながら魔力を出してる」
「ってことは、やっぱりイメージ不足――いや、詠唱に対する理解不足かな。単に発音してるだけになっちゃってて、本質的な部分が精霊に届いていない感じ」
ロレンスは、癖のある黒髪をかき混ぜる。
「こればっかりは、慣れるしかないんだけど」
「慣れ、かあ。それなりに指揮術を使ってきたつもりでいたけど、まだまだ練習不足……ってわけだね」
ヒワのため息が食卓に落ちる。ロレンスは、二度ほど首を縦に振って、お茶を飲み干した。
「よし。俺の方でもいい方法がないか探ってみるよ。精霊語の先生なら、似たような事例を知っているかもしれないし」
「ロレンス……」
友人を見つめたヒワの瞳に涙が浮かぶ。彼女はそのまま、彼の手を握りしめた。
「ありがとう……ありがとう……。この借りは絶対返すから……」
「今日オニギリ作ってくれたから、それでいいよ」
「わたしのおにぎりでよければ、いくらでも作るよ」
真剣な表情で切り返したヒワに、ロレンスは困ったような、それでいて温かな笑みを向けた。
※
その後、ヒワはロレンスたちの協力のもと、色々な方法を試した。指揮術によって引き起こしたい物事を文字や絵に起こしてから詠唱してみたり、杖の動かし方を工夫したり。時にはエルメルアリアの感覚を共有してもらって、実験を重ねた。一人のときは詠唱の発音を調整してみたり、魔力感知の練習に立ち戻ったりもした。
しかし、何をやっても指揮術は安定しない。夏休みまでの日数を片手で数えられるようになる頃には、少女の心は折れかけていた。
「やっぱりわたし、指揮術向いてないのかな……」
自室のベッドに突っ伏して、呟く。エルメルアリアはそばにいるが、何も言わなかった。彼も困り果てているのだ。
しばしの沈黙の後、小さな呟きが落ちる。
「あとはもう回数を重ねるしかないか……。あるいは、杖が悪いのか? オレ作とは言え、指揮術専用の杖じゃないもんな……」
あとは、聞き取れないほどの呟きが部屋の中を漂う。それを聞いているヒワの胸には、温かいやら痛いやら、複雑な思いが渦巻いていた。
ふいに、硬い音が響く。部屋の扉が叩かれたのだ。ヒワは反射で飛び起きる。エルメルアリアは、ねずみのごとき機敏さでベッドの下に身を隠す。
『ヒワ、起きてる?』
声の主はコノメである。ヒワが「起きてるよ」と答えると、扉の向こうからいつもの姉が顔を出した。ゆるゆると振られた右手に、見覚えのある冊子を持っている。
「ノート、居間に忘れてたよ」
「わっ。ごめん、ありがと」
ヒワは慌ててベッドから飛び降りて、ノートを受け取った。いそいそとそれを棚に収めていると、コノメが部屋に入ってくる。
「うーん」
「どしたの」
「いやさあ。ヒワ、なんか植物育てはじめた?」
「はい?」
ヒワは、素っ頓狂なことを言った姉をまじまじと見上げる。ただ、コノメの方も真面目らしい。じっと見つめ返された。目を点にしたヒワは、高速で首を振る。
「そんなわけないじゃん。植物育てるなら、少なくともお母さんには言うし」
「だよな」
「その心は?」
「この頃、ヒワとヒワの物から花みたいな匂いがするからさ。あるいは、森みたいな? それで、新しい観葉植物でも置いたのかなって思ったわけよ」
ヒワはぎくりとして、固まった。花のような、森のような香り。ヒワ自身はまったく意識していなかったが、心当たりはある。ただ、それはおくびにも出さず、大げさに部屋を見渡した。
「どこにもないでしょ、観葉植物なんて」
「ないね。私の勘違いか」
「そうそう。……気になるなら、原因探るよ?」
念のためそう言うと、コノメはひらひらと手を振った。
「いや、いいよ。むしろいい香りだから」
出所は気になるけどね、と言いながら、扉の向こうへ歩いていく。去り際に振り返って、口の端を持ち上げた。
「そんじゃ、お邪魔しました。夜更かしはほどほどにね」
「はいはい。コノメもね」
扉が閉まる。足音が遠ざかる。やがて完全に聞こえなくなると――香りの出所であろう人物がベッド下から出てきて飛翔した。
「敏感だな。さすがヒワの姉」
「それ、どういう意味……?」
細く息を吐いたヒワは、再びベッドに座り込む。安堵と同時に、疲労感が背中と肩を覆った。エルメルアリアはヒワのまわりを何周か飛んだあと、ぴたりと止まる。形のよい顎に指をかけていた。
「ところで、ヒワ」
「ん?」
「さっき、姉と二人で話してた言葉って……」
そこまで言われて、ヒワは息をのむ。どっと全身から汗が吹き出した。
「ごめん! 無意識だった!」
慌てて弁解しようとして、しかしはたと動きを止める。
「あれ? でもエラ、内容わかってたよね」
「ああ。なんとなくはわかる」
こともなげに言ってのけ、エルメルアリアは目をきらめかせた。
「薄々察してはいたけど……『ヒダカ』の出なんだな、あんたら」
「うん、そう」
――日高国。アルクス王国の遥か東、大陸からさらに海を隔てた先にある島国だ。
父が生粋のヒダカ人、母はアルクス南部に多い民族とヒダカ人の混血である。ヒワとコノメはヒダカで生まれたが、ヒワが九歳のとき、色々あってアルクス王国へと渡ってきた。以来、ずっとこの町で暮らしている。ヒダカに帰省することもあるが、数年に一回程度だった。
アルクス王国は畜産業が盛んなので、父の仕事には困らない。ヒワたちも、馴染むまでに苦労は多かったが、今ではジラソーレが故国以上に安心できる場所となっている。ただ、言語については、未だにヒダカ語の方がしっくりくるのだ。
「そんなわけで、家の中での会話はヒダカ語中心なんだ。うっかりしてた、ごめん」
ヒワが頭を下げると、エルメルアリアは「気にすんなよ」と返す。からりとした声だった。
「さっきも言ったけど、なんとなくはわかるからな。あっちの精霊指揮士に会ったこともあるし」
「そ、そうなんだ。顔が広いな……」
「そりゃあ、天才エルメルアリア様だからな。天地内界各地で引っ張りだこってわけさ」
エルメルアリアは得意げに胸を張る。ヒワはにこにことそれを見守っていた。近頃、彼のこの表情を見ていると安心するようになっている。
気をよくしたのか、エルメルアリアはさらに話し続けた。
「って言っても、最後に東へ行ったのは百年くらい前なんだ。今はだいぶ様子が変わってるかもな。今思うと、あのあたりの指揮術は独特でおもしろかった。詠唱にも古いヒダカ語が混じって――」
しかし、ふいに言葉が途切れる。硬直したエルメルアリアは、こぼれんばかりに目を見開いた。ヒワは、戸惑いの視線を向ける。
「エラ? どうかした?」
「――それだ」
「え?」
ぱしぱしとまばたきしたヒワに、エルメルアリアが顔を寄せる。緑の瞳が今までになく輝いて、頬が紅潮していた。
「それだ、ヒダカ語だ! 上手く使えば、指揮術が安定するかもしれない!」
ヒワはぽかんと口を開ける。エルメルアリアの興奮が収まるまで、何も言えずにその顔を見つめていた。
(注・解説)
精霊語:指揮術の詠唱に使われる言語。もっとも精霊に意思を伝えやすいといわれている。名称については、人間のえらい精霊指揮士がつけたものであり、精霊たちが実際にこの言語を話しているかどうかは定かではない。




