26 つかの間の平穏
太陽が高き玉座に座した頃。抜けるような青空の下で、規則的なチャイムの音が響き渡る。ジラソーレ高等学校、午前の授業が終わりを迎えた。
この時期は、大半の生徒が午前までで帰宅する。希望する生徒は午後も授業を受けられるが、一学年を締めくくる試験が終わった後だというのもあって、早く帰りたがる生徒の方が多い。
ヒワ・スノハラとシルヴィー・ローザもまた、帰り支度を整えていた。
「はあ、手が疲れた」
ヒワは、右手首を動かしながら呟く。鞄を肩にかけたシルヴィーが悪戯っぽく笑った。
「今日は熱心に授業受けてたもんね」
「いつもが熱心じゃないみたいじゃん」
からかいの色が見える言葉に、ヒワは唇を尖らせる。しかし、それも一瞬のことだった。
「今回の期末試験、共通語の点数がちょっと悪かったからさ。心を入れ替えようかと」
「大げさねえ。あれくらい、誤差の範囲でしょ」
シルヴィーはいつも通り笑い飛ばしてくれるが、西部共通語――別名シエロニア語――とアルクス語の成績に自信を持っていたヒワとしては、気になってしまうのだ。このところ忙しくて、普段ほど試験勉強に打ち込めなかったのが悔やまれる。しかたのないことではあるのだが、それを言い訳にもしたくない。ヒワは友人に感謝を述べつつも、心の中で気合を入れ直した。
「ところでヒワ、今日はなんか予定ある?」
「え? 特にないよ」
浮足立った生徒たちの流れに乗って歩きながら、ありふれたやり取りをする。素直なヒワの答えを聞いて、シルヴィーが軽く拳を握った。
「じゃ、ちょっと付き合ってよ。このところ運動不足だったから、取り返したくてさ」
「あー……つまり、走るってことね」
ヒワは苦笑する。体力づくりを手伝ってもらっている手前、断るのも忍びない。「軽く走る程度なら」と、友人の申し出を受け入れた。
そのとき、背後から伸びた手がヒワの肩を叩く。
「昼間っから走り込みするの?」
なじみ深い声を聞き、ヒワはぎょっと振り返った。同じ制服を着た姉が、ひらひらと手を振っている。
「コノメ!」
「あ、コノメさん。こんにちは」
「こんちは~」
明るく挨拶したシルヴィーに、コノメ・スノハラは間延びした声を返す。それから、顔を引きつらせている妹に向き直った。
「なんか昼飯作った方がいい? 私、いったん家に戻ってから駅の方行くけど」
「あ、いや、いいよ。走り終わってから適当に食べる」
「了解。家で米炊くなら、夕飯の分は残しといてよ」
「はあい」
軽妙なやり取りは、ヒワの返事で締めくくられる。コノメは「それじゃ」と淡白に言い残して去っていった。
「相変わらずだねえ、お姉さん」
後ろ姿を見送って、シルヴィーが呟く。なぜか楽しそうな友人に、ヒワは「そうだね」とだけ返した。
※
ヒワとシルヴィーは一度家に荷物を置いて、学校の西へ向かった。走り込みにちょうどいい土手があるのだ。近くに住む人々の散歩コースや憩いの場となっている。今も、ちらほらと人や犬の姿が見られた。
川からのほどよい冷気を浴びながら走る。通学ついでの運動とはまた違った感覚で、ヒワには新鮮であった。
爽やかな空気を思いっきり吸い込んだとき、背後から消え入りそうな声がする。
「ね、ねえ……なんで俺まで巻き込まれてるの……?」
質問の形を取った抗議を聞き、ヒワはそっと後ろを見る。綿のような黒髪を揺らして走る少年が、汚れた海のごとく淀んだ瞳を少女たちに向けていた。
返答に困ったヒワの横で、シルヴィーが眉をつり上げる。
「あんたこそ運動しなきゃだめだから。少しはヒワを見習いなさい」
「えええ……俺は別に、体力つけなくてもいい……」
「何言ってるの。体は資本。精霊指揮士だってそれは同じでしょうが」
幼馴染に叱られて、ロレンス・グラネスタは声を詰まらせる。色白の相貌は、すでに汗だくだった。ヒワは何とも言えず、繕った笑顔を向けることしかできない。
この土手に来る前、シルヴィーが「寄り道しよう」と言い出したときは、どうしたことかと思った。しかし、ソーラス院が見えてきた時点ですべてを察した。予想通り、男子寮の事務局に乗り込んだシルヴィーは、別の男子生徒と共に部屋から出てきた彼を捕まえてここまで引きずってきたのである。ちなみに、もう一人の男子生徒の方は笑顔で三人を送り出した。
「シルヴィーはいつもそうだ……俺にばっかり厳しい……」
「あんたが自分の体に少しでも気を遣っていれば、優しくするっての」
立ち止まりかけたロレンスの腕を、シルヴィーが引く。手厳しいようでいて、きちんと加減していることを、ヒワは知っていた。昔からそうして、家族に放置されている彼の世話を焼いてきたのだろう。ヒワは自分が知らない頃の二人を夢想してほほ笑んだ。
彼女の温かいまなざしに気づいたのか、ロレンスが顔を上げる。
「ヒワ、助けて……」
その一言すら、荒い呼吸にかき消されてほとんど形になっていなかった。それでもヒワは、すでに思い浮かべていた答えを口にする。
「ごめん。わたしも、ロレンスには元気でいてほしいから」
「ヒワああああ」
情けない声が川辺にこだまする。ロレンスは、ある分野ではヒワの先輩なのだが、それらしい威厳は全く感じられない。
「ほら、ヒワもこう言ってるんだから。踏ん張りな」
「いやだー。もう足痛いー」
味方を得たシルヴィーが、意気揚々と前に進む。ロレンスは泣きながら彼女に引きずられていった。
土手をずっと歩いていくと、小さめの広場に出る。時たま特別な市が開かれていることもあるのだが、今日はそれもなく、穏やかなさざめきに包まれていた。
広場の縁に設けられたベンチ代わりの石段に腰かける。遠くに屋台を見つけたシルヴィーが、休む間もなく立ち上がった。
「ちょっと飲み物買ってくるわ。色々ありそうだけど、何がいい?」
「あー……じゃあ、レモネード」
ヒワは大抵の屋台で売っている物を伝える。すっかり疲弊しているロレンスは、希望を伝える余裕もなさそうだ。シルヴィーは、彼に構わず駆けていく。そして、ヒワが乱れた呼吸を整えている間に戻ってきた。レモネード二つと紅茶のカップを器用に持っている。
「はい、ヒワ」
「ありがと」
ヒワはカップを受け取り、笑みをこぼした。ほどよい冷たさと爽やかな香りが、火照った体にはありがたい。
シルヴィーはそのままの勢いでロレンスの肩を叩いた。くたびれた彼に、もうひとつのカップを手渡す。ロレンスは一瞬目を丸くした。
「ありがとお……」
ふにゃりと笑って、受け取ったレモネードに口をつけた。その後、天を仰いで長々と息を吐く。お風呂上がりのおじさんみたいだ、とヒワは思ったが、黙っておいた。
少しの間、それぞれに飲み物を堪能する。人心地ついたところで、シルヴィーが口を開いた。
「そういえば、もうすぐ夏休みだよね。ソーラス院も?」
「うん。研究会とか指揮術実験とかあるから、ちょいちょい行かないといけないけど」
ロレンスがストローをくわえたまま答える。げ、とシルヴィーが顔をしかめた。
「精霊指揮士は大変だわ。――ヒワは? 何か予定あるの?」
小動物のように目を輝かせたシルヴィーに、ヒワは苦笑を返した。
「今のところ、特にない。来月お父さんが帰ってくるから、そのときにちょっとお出かけするかも……くらいかな」
「そっかあ。ヒワのところは、お父様もお母様もお忙しいよね」
「シルヴィーのところだって、負けてないでしょ」
「まあね。でも、うちはほら、バカンス休暇を意地でも取るから」
呆れ交じりにそう言って、シルヴィーが紅茶を呷る。仕事にも遊びにも全力を尽くしそうな彼女の両親を思い浮かべ、ヒワは目を細めた。
――正直、夏休みの予定がほとんどなくてほっとしている。そのぶん、世界の境目に開いた〈穴〉をふさぐ活動に集中できるからだ。人間の都合で相棒に迷惑をかける心配も少ない。
カント森林での冒険の後、ヒワたちとロレンスたちで二手に分かれ、計四つの〈穴〉をふさいだ。しかし、まだまだ終わりは見えない。自由が利く長期休暇のうちになるべく数を稼ぎたいところだ。ロレンスも同じことを考えていたのか、ちらりとヒワの方を見てきた。
カップが空になったところで、屋台にそれを返しにいった。店主にお礼と別れを告げてから、シルヴィーが元気よく伸びをする。
「運動したらお腹が減った! なんか食べにいくー?……って、言いたいところだけど、今日は家でご飯食べることになってるんだよなあ。近所の人呼んで」
その姿勢のまま、顔を引きつらせた。シルヴィーがそんな表情をするということは、かなり規模の大きな食事会になるのだろう。人づきあいが苦手な二人が、眉を寄せた。
「親の顔が広いと、色々大変だよね……」
精霊指揮士の名家の三男がそんなふうに呟く。ヒワは無言を貫いた。
「今度、二人も誘うからさ。今日はここで解散させて!」
「解散でいいからさ……お誘いは遠慮したい……」
ロレンスが高速で手を振り、ヒワの後ろに隠れた。相変わらずな少年に苦笑しつつも、もうひとりの友人に笑みを向ける。
「大丈夫。食事会、楽しんでね」
「ありがと! じゃ、ヒワはまた明日! ロレンスはそのうちね!」
「はーい……また走らされるのかな……」
シルヴィーは、にっと笑って駆けていった。ロレンスの不安への答えはくれなかった。
しおれているロレンスに、ヒワはおずおずと声をかける。
「ロレンス。お昼どうするか決めてる?」
「ううん。もう寮の食堂も終わってるだろうし……どうしようかな」
「じゃあさ、うちで食べない? って言っても、大した物は出せないと思うけど」
ヒワの誘いに、ロレンスは目を丸くする。
「え、そんな。悪いよ」
「いいの、いいの。お昼ご飯は口実だから」
黒い頭が傾いた。ヒワは、少年に耳打ちする。
「指揮術のことで、ちょっと相談したいんだ」