25 肩を並べて歩くきみ
夜のソーラス院は、点々と灯る照明で神秘的に彩られる。ただ、内部には一部の研究者や教師が残っているだけなので、ぞっとするほどの静けさに包まれるのだった。
一方、学生たちが戻ってきた寮は、昼間の町のようににぎやかだ。
寮の一階。広い食堂の一角で、ロレンス・グラネスタはよろめきながら席についた。幽鬼のような彼を見て、同部屋のトビアスがわずかに身を引く。
「どうしたのさ、ロレンス。すごい顔だけど」
「…………ああ。ちょっと疲れちゃって……」
辛うじて答えたロレンスは、本能に任せてパンをつかむ。いつ落とすかわからない、頼りない手つきであった。
「一体何してたの。指揮術の練習? 調薬? また根を詰めた?」
「うーん……野外活動、的な」
「野外活動ぉ? ロレンスが?」
トビアスは、わかりやすく頬を引きつらせる。予想通りの反応をされた少年は「別にいいだろ」とぼやきながらパンをむしった。ぼろを出したくない、という思いもある。彼の態度から何を読み取ったのか、トビアスはそれ以上追及してこなかった。
ロレンスは早めに食事を終え、部屋に戻った。トビアスには断ってある。部屋に入るなり窮屈な服を脱ぎ捨て、ベッドに飛び込む。そのまま白い海に沈んだ。
「あー……どっと来た……」
疲労の原因はわかっている。カント森林での冒険だ。慣れない飛行に森歩き、魔物との戦闘。さらには敵か味方かわからない人々との遭遇。一年上の先輩たちでも顔をしかめそうな内容だ。疲れて当然である。
ロレンスは、うつ伏せになって少しも動かなかった。睡魔が忍び寄ってくる。心地よい波に身を委ねかけたところで、頬に不自然なぬくもりを感じた。
「ロレンス」
「――へぁ?」
頭上で誰かがささやく。のろのろと顔を上げたロレンスは、炎色の髪を見るや、飛び起きた。
「フラムリーヴェ!? どっから入ってきたの?」
「どこから、と言われましても。契約によるつながりがありますので、どこからでもあなたのもとに参上できるのです」
「それもそっか……てか、誰にも見られてない!?」
「大丈夫です」
〈浄化の戦乙女〉は、昼間と同じ鎧姿だ。気の抜けた格好の契約者を見ても顔色ひとつ変えない。同胞との『勝負』に僅差で負けて悔しがっていた女性とは別人のようだった。
「お休みのところ申し訳ございません。話をしておきたかったもので」
「ああ、うん……いいよ。トビーもまだ戻らないだろうし」
ロレンスはベッドに座って、できるだけ背筋を伸ばした。フラムリーヴェは一礼して、彼の前に立つ。
「今回の任務は、いかがでしたか。不安なことなどございますか」
「いやあ、もう不安だらけだ。何が不安かわからないくらい」
ロレンスは、へらりと笑って頭をかく。目を伏せる精霊人を見て、自分まで申し訳ない気分になった。
「でもまあ、〈穴〉をふさぐまでの流れはわかった。要は天外界から来た魔物たちを倒しまくって、あの……〈閉穴〉の術を使うってことだね」
「そうなりますね。……やはり、続行は厳しいでしょうか」
ロレンスは、しばし宙をにらむ。それから小さく息を吐いた。
「あくまで、俺の気持ち的な話だけど」
「はい」
「契約は続行したい」
フラムリーヴェが目をみはる。ロレンスはあくびをかみ殺して続けた。
「魔物との戦いとか技術的な部分とかは、場数踏んだらどうにかなるかなって思ってさ。っていうか、どうにかしていくしかないでしょ。フラムリーヴェもいるし、絶対無理ではないと思うんだよ」
「それは、ええ。私も全身全霊で任務を遂行しますので。ですが、その……目立つ、という話については……」
フラムリーヴェが言いにくそうに切り出す。ロレンスは、あー、と低い声を上げた。
「カント森林で、協会の精霊指揮士に会ったでしょ」
「はい」
「あの人たちに見られた時点で、あきらめるしかないかなあと」
「……言いたいことはわかりました」
協会所属の精霊指揮士に二人の顔を見られた以上、何らかの形で家族に伝わるだろう。エリゼオ・グラネスタはそのような報告を受け取る立場にいるのだ。
「いずれ父さんや兄貴たちには知られる。まああれだ、殺されなければよし、って気持ちでいるよ」
ロレンスが下手な冗談を言うと、フラムリーヴェは表情を引き締めて胸に拳を当てた。
「万が一そのような事態になりましたら、私が全力でお守りします」
「わははー。頼もしい。そのときは、ごめんけど、よろしくね」
乾いた笑いとともに紡いだ言葉は、決してお世辞などではない。〈浄化の戦乙女〉が味方でいてくれるのは、非常に心強かった。
「あと。契約を続ける一番の理由は……」
言葉を続けようとしたロレンスは、しかし口ごもる。形にして、彼女に伝えてよいのかどうか。そんな迷いが声を阻んだ。
しかし、フラムリーヴェは少年の葛藤をあっさり見抜く。
「ヒワ様ですね」
「……うん」
ロレンスは、観念してうなずいた。膝の上で両手を組む。
「ヒワはもう心を決めてるんだ。それで、彼女なりに頑張ってる。それなのに、曲がりなりにも精霊指揮士である俺が逃げるのは、ちょっと違うよなって思って」
思いを言葉にしてみると、体が少しむずむずする。ロレンスはぎこちなく笑って、頬をかいた。
「なんか、自分の理由じゃなくてあれだけどさ」
「いえ」と、フラムリーヴェが否定し――肯定した。
「その想いは、間違いなくあなた自身のものです。恥じることはありません。それに……私も、似たようなことを考えているのです」
「フラムリーヴェも、ヒワを気にしてたの?」
「ヒワ様のことももちろんですが、それ以上に、エルメルアリアが気がかりでして」
「エルメルアリアが?」
ロレンスは驚いて、精霊人の口から出た名を繰り返した。他の精霊指揮士の追随を許さぬほどの力を持つ彼の、何が気になるというのか。ロレンスが尋ねると、フラムリーヴェは目を伏せた。
「確かに、エルメルアリアは精霊指揮士としては一流です。ヒワ様とも良好な関係を築けている様子ですし、魔物の送還や〈穴〉をふさぐことは問題なくやってのけるでしょう。ただ、だからこそ、彼は――」
懺悔をするような口調で語ったフラムリーヴェ。ただ、彼女はそこで言葉を切った。息をのみ、激しくかぶりを振る。
「いえ、やめておきましょう。知らずに済むならその方がよい」
ロレンスは眉をひそめる。さすがに釈然としなかった。
フラムリーヴェが気にしていること。エルメルアリアの子供じみた言動のことだろうか、と最初は思った。しかし、それならば言葉を濁す意味はない。戦乙女が憂えているのは、もっと深い、何か。
その何かがなんなのか、ロレンスにはわからない。情報が少なすぎるのだ。しかたなく、考えることをあきらめた。
「とにかく、我々の思いは一致しています。気に病む必要はありません」
「……そうみたいだね。よかったよ」
心の底からそう言って、ロレンスは頬を緩める。気になることはあれど、焦って考える必要はない。今はとにかく、目の前の相手に向き合う。
「それじゃ、とりあえず。引き続きよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
二人揃ってお辞儀をする。指揮術仕掛けの照明の暖かな光が、照れくさそうな彼らの顔を照らしていた。
※
「それじゃあ、ロレンスも〈穴〉をふさいで回るんだね」
ヒワが目を輝かせて問うと、ロレンスはゆっくりうなずいた。
「お試し期間はまだあるから、その間に心変わりするかもしれないけど」
慎重な態度を装っているが、少年の表情はやわらかい。心変わりしそうには見えなかった。ヒワは長々と息を吐く。
「よ、よかったあ……」
「ヒワが安心するんだ」
ロレンスは、心底不思議そうに首をかしげて、手元のグラスを持ち上げた。
二人がいるのはヒワの自宅だ。その一隅、故郷の伝統的な様式を再現した部屋でくつろいでいる。精霊人の二人はいない。カント森林での出来事を報告するため、天外界に戻っているのだ。
果汁入りの冷水を一口飲んだロレンスが、ヒワに青い瞳を向けた。
「俺がいなくたってどうにかなりそうだけど。エルメルアリアがついてるし」
「いやいや。確かにエラはすごいけど、二人だけじゃ限界あるよ。身近に仲間がいるってだけで安心するし」
「なるほど。確かに、俺も協力者がいなかったら、ちょっと考えたかもしれない」
ロレンスは神妙な顔でうなずく。そんな彼に、ヒワは畳みかけた。
「それに、指揮術の話、まだまだ聞かなきゃだしね」
「……見違えたなあ。ちょっと前までは『指揮術なんてわたしには無理』が常套句だったのに」
「そ、それはそうでしょ。やったことなかったし、精霊指揮士の親戚もいないし」
唇を尖らせつつも、ヒワは友人の言葉を噛みしめる。
本当に、この短期間でずいぶんと変わったものだ。
あの日、商店街で魔物に襲われなければ。誰にも助けを請わなければ。エルメルアリアに出会わなければ、始まらなかったことばかり。二度としたくないような怖い経験もしたが、それさえも、過ぎてしまえば得難い宝物である。
まだ何一つ終わっていない。これからも、信じられないようなことが起きるだろう。それでもヒワは、この任務を降りようとは思っていなかった。
「これからは、学んでいくしかないからさ。色々教えてくれると助かります」
そう言って、ヒワは顔の前で手を合わせる。ロレンスは、どこか楽しげな様子で「もちろん。よろしくね」と答えた。
そのとき、襖のむこうから声がする。
『ヒワち~。ロレンスくん。シルヴィーさん来たよ~』
コノメの声だった。ヒワはすぐさま立ち上がる。ロレンスも、腰を浮かせた。
「わかった。今行く!」
ヒワは襖に駆け寄る。引き手に指をかけ、友人を振り返った。
「ロレンスは準備しててね」
「はいよー。ぼちぼちやりますか」
のんびり答えたロレンスが、足もとの鞄から教科書とノートを取り出す。変わらぬ戦友に背を向けて、ヒワは襖を開けた。
(第二章 風と炎のコンチェルト・完)
(第二章裏話)
18でヒワが買ったけど使う機会がなかったレモンは、水に入れたりお料理に使ったりしたようです。
「どしたの、ヒワち。お菓子作りの本なんか見て」
「いやあ……レモンを使ったお菓子がないかなあ、と思って……」