24 二度目の〈閉穴〉
「なにあれ、グロ……」
ロレンスが、あからさまに顔をしかめる。わずかに開かれた口からこぼれた率直な感想に、ヒワは苦笑いした。
カント森林を抜けて、しばらく歩いた先。なだらかな丘が連なるそこに、〈穴〉は開いていた。闇の中、原色の光が渦巻いているのが遠目に見てもわかる。
「内界から見ると、あのようになっているのですね」
フラムリーヴェがしみじみと呟いた。ロレンスが腕にしがみついているのだが、まったく気にしていない。
一歩一歩、近づいていく。〈穴〉のほかに異質なものは何もない。穏やかな丘陵そのものだ。
「〈穴〉をふさぐ術のことは聞いてるか、フラムリーヴェ?」
「はい。〈銀星の塔〉より報告と指示をもらっています。すでに〈閉穴〉の術という名がついていますよ」
先頭を飛びながら尋ねたエルメルアリアに、フラムリーヴェが淡々と答える。一拍置いて、「そういえば、あなたが発案したのでしたか」と目を丸くした。
「発案っつーか……元々あった術をちょっといじくっただけだよ」
エルメルアリアは少し誇らしげに呟く。視線はフラムリーヴェから逸れていた。
そのうちに、〈穴〉の前まで辿り着いた。大きさはモルテ・テステ渓谷に開いていたものと同じくらい。ヒワは思わず口を押さえる。嫌な空気も変わらない。ただ、今はそれが濁った魔力の集合体なのだとはっきりわかった。
「……早くふさいでしまいましょう」
フラムリーヴェが顔をしかめる。ロレンスが、蒼い顔でうなずいて、半歩踏み出した。
「えっと、まず何をすれば――」
その言葉は、不自然に途切れた。一瞬後、〈穴〉の前に巨大な暗黒が現れる。
「ロレンス!」
「退け!」
硬直した少年のローブをフラムリーヴェが引っ張る。彼らと入れ替わるようにして、エルメルアリアが前に出た。流れるように放った風の刃が暗黒を揺らす。その様子を見て、彼は舌打ちした。
「どこにいやがった。――〈穴〉から出てきたのか?」
影の正体は、魔物だ。角の生えた獅子、という表現がしっくりくる風体だ。さらに、ソレの背後から別種の魔物も次々と湧き出してきた。あるものは穴を守るように立ちふさがり、あるものはあぎとを開く。
ロレンスを抱えたフラムリーヴェが後ろへ跳んだ。同時、ヒワは杖を構える。
「『フィエルタ・アーハ』!」
どうか、堅い結界が出ますように。祈りながらの詠唱が、半透明の壁を作りだす。魔物たちの口腔から炎や吹雪、黒い光線が放たれるも、壁はそれらすべてを防ぎ切った。黒い火花がバチバチと弾けながら、地面に落ちていく。
「助かった、ヒワ」
フラムリーヴェに下ろしてもらったロレンスが、震える拳を持ち上げる。ヒワは、杖を掲げてそれに応えた。
すぐさま小さな少年と魔物たちの方へ意識を戻す。第一撃をしのいでいる間にも、魔物はとめどなく湧き出していた。吐息や爪の攻撃をかわし、時にいなしたエルメルアリアが、右腕を振り上げた。
「しつこいな! 大人しく帰って寝てろ――」
「だめです、エルメルアリア! 〈穴〉に術が当たったら、何が起きるかわかりません!」
フラムリーヴェが飛ぶ。悲鳴じみた制止を受けて、エルメルアリアは目をみはった。その顔は、みるみる歪む。
「だからって、黙って食われるわけにはいかないだろ」
「それは……」
剣を取り出したフラムリーヴェが、苦虫を嚙み潰したような顔になる。しばし魔物たちをにらんだエルメルアリアは、長々とため息をついた。そして、地上を――契約者を見る。
「ヒワ! 制限を解いてくれ!」
ヒワはすぐに反応できなかった。まばたきして精霊人を見返す。
「何をする気ですか」
「安心しろ。〈穴〉に術が当たらない方法を採るんだよ」
上空にいる二人のやり取りで我に返る。「わかった!」と叫んだヒワは、杖を両手で握りしめた。
「『イリュ・ドゥーテ・クランダル・ウカータ
クランダーテ・イリューア・デア・ヒワ・スノハラ
アリイネラ・イリュール・デア・エルメルアリア』」
知っている中でもっとも長い詠唱を、一息で終える。
場の空気が一瞬にして変わった。エルメルアリアの周囲を澄み切った魔力が包む。魔物たちが色めき立つ。ロレンスとフラムリーヴェが、顔をこわばらせた。
エルメルアリア本人は、ただ静かに深呼吸して――口を開いた。
「『眠れ』」
一言。普段話しているときとさして変わらぬ声量の一言が、力を持って、一帯に広がった。
激しくうなり、吠えていた魔物たちが、瞬く間に力を失う。糸が切れたように倒れていく彼らを見て、少年少女は絶句した。
「なに、これ」
しばしの沈黙の後、ヒワは誰にともなく問いかける。答えをくれたのは、わずかに高度を下げたフラムリーヴェだった。
「魔物の魔力回路と精神に干渉して、強制的に眠らせたのでしょう。……確実に効く超強力な催眠術、と言えばわかりやすいでしょうか」
付け足された例えを聞いて、ヒワは「うわあ」と声を漏らす。その隣でロレンスが頭を抱えていた。
「あの数の魔物にそれをやるとか……もう精霊の域に達してるじゃん」
「実際、彼は精霊寄りですからね」
険しい顔でフラムリーヴェが呟いた言葉の意味が、ヒワにはよくわからない。ただ、ロレンスが唖然としていたので、とんでもないことだというのは理解できた。
エルメルアリアがヒワのもとに下りてくる。
「ルートヴィヒへの言い訳を考えねえとな」
そんなふうに笑った彼は、いつものように魔物を送還した。
大量の魔物たちが天外界へ戻るのを見届けると、フラムリーヴェが前へ出た。
「では、〈閉穴〉は私が行いましょう」
エルメルアリアが不思議そうにまばたきする。
「いやあんた、初めてだろ。オレも一緒に――」
「だめです」
至極当然の提案を、しかしフラムリーヴェはぴしゃりとさえぎった。紫の瞳に射すくめられたエルメルアリアは、ゆっくりとヒワの方へ後退する。戦乙女の視線はすぐさまそちらへ流れた。しかし、見た相手は同胞ではない。
「ヒワ様」
「は、はい!」
「エルメルアリアの制限は、この術が終わるまで解いたままにしておいてください」
蛇に睨まれた蛙と化していたヒワは、思わぬ言葉に固まった。疑問の色を読み取ったのか、フラムリーヴェは淡々と続ける。
「大がかりな術を使った後に制限をかけると、精霊人の体にかなりの負担がかかります。少し時間を置いた方がいいのです」
「あ、ああ。なるほど。わかりました」
ヒワは素直にうなずく。しかし、直後に遠くない記憶がひらめいた。契約相手を振り返る。彼はわかりやすく目を泳がせていた。
「エラ! やっぱり負担がかかるんじゃん! すぐ慣れるとかなんとか、強がり言っちゃって!」
「強がりなもんか。あの程度、負担のうちに入らねえよ」
「へえええ? 〈閉穴〉の術は大がかりな術じゃないんですかあ!?」
感情のこもった反論は、奇妙に抑揚がついている。エルメルアリアはさすがに声を詰まらせた。
子供じみたやり取りを聞き、「そんなことだろうと思いました」とフラムリーヴェがため息をつく。彼女はそれから、呆けている契約者を呼んだ。
「ロレンス、制限解除をお願いできますか」
「ああ……うん。それこそ初めてだけど、がんばる」
我に返った少年は、杖を構えて踏み出した。小声で何かを呟いてから、細く息を吸う。
「『イリュ・ドゥーテ・クランダル・ウカータ
クランダーテ・イリューオ・デア・ロレンス・グラネスタ
アリイネラ・イリューア・デア・フラムリーヴェ』」
詠唱も、フラムリーヴェの方に流れる魔力も、小川のようだ。詰まることなくロレンスが唱え切った瞬間、その魔力が一気に高まって、フラムリーヴェの周囲に熱風が吹き荒れる。よろめいたロレンスの肩を、ヒワがとっさにつかんだ。
フラムリーヴェ本人はというと、世界の枷から逃れたことに何の感慨も示さない。少し手足の動作確認をしたかと思えば、すぐ〈穴〉の前に立った。
「おーい、フラムリーヴェ。何か手伝えることある?」
ロレンスが控えめに呼びかける。戦乙女は、普段と変わらぬ調子で振り返った。
「それでは、陣を描くのを手伝ってください。ロレンスの方が手慣れていると思いますので」
「了解。内容教えて」
ロレンスはためらいなくフラムリーヴェのもとへ駆け寄った。共同作業を始める二人を離れたところで見守るヒワは、ふと足もとに視線を落とす。心の中に暗雲が垂れ込めた。
「あいつはソーラス院の学生だ。比べても意味ないぜ」
それを察したのだろう。エルメルアリアが頬杖をついて、そんなふうに言う。ヒワは、顔を上げて、ほほ笑んだ。上手く笑えている自信はない。
「うん。わかってる……んだけどね」
ヒワは成り行きでエルメルアリアと契約しただけの素人だ。その事実は、どうあがいても変えられない。
友人の『勧誘』を受け入れていたら、違った未来があっただろうか。そんなことまで考える。――例えそうだったとしても、彼やほかの精霊指揮士と比較して落ち込むことは避けられないだろう。
結局、彼女はため息をつく。それを見ていたエルメルアリアが、ふいに背後から肩を叩いた。
「いたっ」
「気にすることねえよ。ヒワは今日、防御結界を張れるようになった。自分の術のくせに気づけた。ちゃんと前に進んでるじゃねえか」
エルメルアリアは、当たり前のような表情で言ってのける。ヒワは驚きに目をみはった。慰めてくれたことではなく、別のことに対する驚きだ。
「き、気づいてたの? わたしの術に、その、ムラがあるって」
「当然」
エルメルアリアは胸を張る。
凛とした女性の声が、聞き覚えのある文言を唱え始めた。大気と地面が熱を帯び、陽炎が立つ。静電気を思わせる破裂音が、かすかに、連なって響いた。
「帰ったら、改善策を考えないとな」
異質な空間の中にあって、緑の瞳が爛々と輝く。夢を語る子供のようなまなざし。それを見たヒワは、小さく吹き出した。
「そうだね。手伝ってくれると嬉しい」
「おう。任せろ」
いつかのように、手を打ち合う。その音は、二人以外の誰にも届かない。
少しして、フラムリーヴェの詠唱が終わった。ごう、と空気がうなり、〈穴〉が凄まじい勢いで収縮する。送還していない魔物たちが吸い込まれていくのを見て――精霊人たちが眉をひそめた。
「……あ? なんか、倒した覚えのない魔物が混じってなかったか?」
「本当ですね」
フラムリーヴェも、顎に指をかけた。
ヒワとロレンスは顔を見合わせる。二人ともが、銀髪の剣士と青い人魚を思い浮かべていた。精霊人たちも同様だったらしい。「まさか」と互いを見て――しかし、すぐにかぶりを振った。
「いえ。見てもいないことを考えてもしかたがありません」
「だな。仕事が減ってちょうどいい、ってことにしとくか」
エルメルアリアが澄まして言う。
ヒワたちも曖昧に笑って、〈穴〉が消える瞬間を目に焼き付けた。