20 カント森林へ
四日後、ヒワたち四人はカント森林にほど近い町へやってきた。精霊人の力を借りて町の近くまで飛び、そこからは徒歩だった。
町に立ち寄ったのは、フラムリーヴェが言っていた「森林周辺での魔物の目撃情報」について詳しく調べるためである。
次の〈穴〉があるとされるのは、厳密にはカント森林周辺だ。モルテ・テステ渓谷の時と同じで、正確な発生地点はわかっていない。それを特定するのはヒワたちの仕事になるわけだが――魔物の目撃情報が〈穴〉の手がかりになるかもしれない、とエルメルアリアが言ったのだ。
「モルテ・テステで、〈穴〉に近づくにつれて凶暴な魔物が増えてただろ。あれと同じことがここらでも起きてるとしたら――」
「――魔物の発生数から〈穴〉の位置を絞り込める、ということですね」
「そういうこと」
話の続きを引き取ったフラムリーヴェに、エルメルアリアは不敵な笑みを向ける。契約者たちは、感心してこくこくとうなずいていた。
ちなみに、エルメルアリアは今、マントを身に着けてヒワの背にしがみついている。こうしていればおんぶされた幼い弟妹に見えなくもない、ということでこの形になった。精霊人としての誇りを持っているエルメルアリアは嫌がるのではないか――とヒワなどは思ったが、当の本人が楽しそうなので、安心したような物申したいような、複雑な気分になった。
フラムリーヴェの方はいつも通りロレンスの隣を歩いているが、鎧は衣服で隠されている。きっちり着込んでいるのは、やはりお古のローブだ。鎧以外の服に着替えることもできるらしいのだが、「これからカント森林に乗り込む以上、鎧は身に着けたままでいたい」という本人の希望を酌んだ形である。
石造りの家々と草木の緑が同居する町を歩く。建物の屋根は、ほとんどが遠目から見るとミルクティー色だ。だが実際は、茶色、珊瑚色、灰色など様々な色合いの瓦が使われているようだった。
時たますれ違う町民の表情は穏やかだ。せっせと荷物を運んでいたり、道の端で談笑していたり、家の扉を補修していたりする。
そんな人々を目で追いながらも、ヒワは少し困っていた。誰にどう尋ねれば情報を得られるのか、判断がつかないのだ。元々、自分から誰かに話しかけることは苦手である。緊張と罪悪感とで喉がカラカラになり、なかなか一言めを発することができない。ロレンスの方を見てみたが、彼も似たようなものらしい。心細そうな表情で、談笑する女性たちを見ている。
精霊人の二人に任せるわけにはいかない。否が応でも目立つからだ。ヒワは意を決して、四角い石に腰かけて往来をながめている男性に声をかけた。
「あ、あの、すみません。カント森林に行きたいんですが、どちらに行ったらよいでしょうか」
たったこれだけのことで、心臓が早鐘を打つ。内心で悲鳴を上げているヒワをよそに、男性はのんびりと彼女の方を見た。ぱちぱちと、目を瞬く。
「おやま、学生さんの旅行か何かかい? しかも兄弟連れとは」
「ま、まあ……そんなところです……」
エルメルアリアが、さっとヒワの後ろに顔を隠す。余計なことを言わない、言わせないためだろう。
ほほ笑ましそうにそれを見ていた男性はしかし、すぐに顔を曇らせる。
「しかしなあ……。こんなことを言うのは心苦しいんだが、カント森林はやめといた方がいい」
「え?」
「やばい魔物が出たって、今、騒ぎになってるんだよ」
ヒワは息をのむ。フラムリーヴェの言っていた通りだ。彼女の沈黙をどう取ったのか、男性は慌てて付け足す。
「魔物が出たっていう北側は立ち入り禁止になってるから、間違って入っちまうことはないと思うがね。それでも、いつもより危険なことには変わりない」
ヒワは思わず背中側を見た。しかめっ面のエルメルアリアと目が合う。少し考えてから、男性にほほ笑んだ。
「ありがとうございます。でも、とりあえず行ってみます。魔物が近くにいたら友達が教えてくれると思うので」
言いながら、体をひねる。恰幅のよい女性に話を聞いている少年の姿が見えた。男性はその視線を追って、おや、と目をみはる。
「ソーラス院の学生さんが一緒とは。こいつは、余計なお世話だったかね」
ロレンスは今日、服の上からソーラス院のローブを羽織っているのだった。いえ、と首を振ったヒワに、男性はからりとした笑みを向ける。
「そういうことなら、地図書いてやるよ。ちょっと待ってな」
「え、わ、ありがとうございます!」
男性は、広告らしき紙の裏に小さな地図を書き、それをちぎって渡してくれた。ありがたく受け取ったヒワは、男性に頭を下げて、もう一組と合流する。
ロレンスは、げっそりして戻ってきた。
「話しかけられそうな人探してたら、迷子か、って声かけられてさ……。すごかった……シルヴィーより押しが強かった……」
話しかけていたのではなく、話しかけられていたらしい。ヒワは苦笑しつつ、先の男性の話を二人に伝えた。
「やっぱり、魔物が出たあたりは立入禁止になってるんだ」
「そっちでも聞いたの?」
「うん。なんでも、協会から派遣された精霊指揮士が見張りについてるらしい」
言いながら、ロレンスは顔をしかめる。精霊人たちもそれぞれ険しい表情をしていた。
「面倒だな。〈穴〉のことを把握してる奴がいるならいいけど」
「期待しない方がいいでしょうね」
ため息をついたフラムリーヴェが、遠くを見やる。
「森の北側ですか。もう少し詳しい情報が欲しいところですが……」
「あ、じゃあ」
ヒワは、おずおずと手を挙げる。前に二人、後ろに一人の視線を感じつつ、裏紙の地図を掲げた。
「森を目指しつつ、できる範囲で聞き込みしてみるっていうのはどう?」
聞き込みが苦手なロレンスが、嫌そうに目を細める。一方、フラムリーヴェはしきりにうなずいていた。
「まあ、それがいいよなあ。あんまり時間ないし」
「ヒワ様に賛成です」
「じゃ、さくさく行こうぜ」
ひょっこりと顔を出したエルメルアリアが、声を潜めて言う。これが号令となって、四人――厳密には、三人と背負われている一人――は再び歩き出した。
※
カント森林で『未知の魔物』の目撃情報があったのは、先週のことらしい。町の猟師が遭遇し、その話が精霊指揮士協会に伝わったという。
「猟師さんは重傷を負ったものの命に別状はなし、と。天外界の魔物が相手だとすると、奇跡的だね」
ロレンスが、ふわふわした口調でまとめる。ヒワは真剣な面持ちでうなずいた。
最初に話を聞いてから、一時間弱が経っている。地図のおかげもあって迷うことなくカント森林に到着し、中へ踏み込んでいた。
森は、魔物が出ているとは思えないほど明るく澄んでいる。みずみずしい枝葉があちらこちらから伸びて空を覆い、葉の隙間から陽の光が差し込んで、きらきらと黄金色の粒をこぼしていた。空気は少し湿っていて、ほどよく涼しい。道ができているので、ヒワでも歩きやすかった。
演技から解き放たれたエルメルアリアが気持ちよさそうに飛んでいる。フラムリーヴェも鎧をさらけ出していた。軽やかに舞う小さな少年をながめながら、ヒワは町で聞いたことを思い返した。
「魔物が目撃されたのは森の半ばだけど、北の丘陵地帯の方から来てるんじゃないかって話だよね」
「ええ。〈穴〉は、森を抜けた先にあるのかもしれませんね」
「そうだね。今のところ、妙な魔力は感じないし。精霊の様子も……多分、普通だろうし」
あたりを見回したロレンスが、自信なさげに呟く。それを聞いて、ヒワはなんだかいたたまれない気持ちになった。ロレンスもまた、当たり前に魔力や精霊を感じられるのだ。
「魔力といえば。ヒワ、訓練の方はどうだ? 進んでるか?」
内心を見透かしたかのように、エルメルアリアが尋ねた。ヒワはぎくりと肩を震わせたが、平静を装って答える。
「指揮術が使われているときの魔力は、しっかり感じられるようになった……と思う。今はエラたちの魔力がぼんやりわかる程度だけど」
「ふむふむ。そっか。ま、最初はそんなもんか」
「むしろ順調な方だと思う。四日でそこまでわかるようになったんだから」
毎日練習につきあっていたロレンスが淡白に評した。「それは確かに」と相槌を打ったエルメルアリアは、なぜか誇らしげである。両手を後頭部のあたりで組んだ彼は、小さく旋回してヒワの方へやってきた。
「その調子なら、『あれ』渡しても大丈夫そうだな」
「あれ?」
首をかしげたヒワの上で、エルメルアリアは右手を振る。すると、手のひらほどの光の球が生まれて、弾けた。きらきらと輝いて散った光の中から、小さな杖が現れる。木を削って作られた素朴な品だが、先端につけられた若草色の石が彩りを添えていた。
呆気にとられているヒワの手を取ったエルメルアリアは、その上に杖を乗せる。ヒワは、ぎょっとした。
「こ、この杖って……」
「オレが昔、趣味で作った杖。ヒワに合わせて作った物じゃないから使いづらいだろうけど、しばらくは我慢してくれ」
「使っていいの?」
「いいから渡したんだろ」
ヒワは、杖と精霊人とを交互に見る。彼の言葉を何度も頭の中で繰り返し、かみ砕く。そうしてようやく、「ありがとう」と言えた。杖を両手で握ったヒワは、しかし途端に心細くなる。
「でもさ。わたし、まだ術を使う段階まで行ってない気がするんだよ」
「普通ならそうだな。けど、今はソーラス院の講義ほど悠長にやってらんないから――あとは実戦で鍛えてもらうことにする」
「うええ!? 正気?」
意地悪く笑ったエルメルアリアに、ヒワは非難の目を向ける。しかし彼は歯牙にもかけず、先頭へ戻ってしまった。
肩を落とす彼女の後ろで、ロレンスが眉を下げる。
「ソーラス院って、むしろ詰め込み教育で有名なんだけどなあ」
ため息まじりのささやきを聞いていたのは、フラムリーヴェだけだった。
エルメルアリアは、しおれる契約者をよそに機嫌よく飛んでいた。しかし、ほどなくして空中で静止する。追っていた背中が止まったことに気づいたヒワは、恐る恐る声をかけた。
「エラ? どうしたの?」
「……よかったな、ヒワ。さっそく練習の機会が巡ってきたぜ」
「えっ」
ヒワは青ざめる。エルメルアリアが高度を下げ、わずかに後退した。さらに、フラムリーヴェが静かに踏み出してくる。
張りつめた空気は、森のざわめきすべてをのみこんでしまったかのようだった。おかげで、茂みがわずかに揺れた音が、はっきりとヒワたちの耳に届く。
「ひっ――」
か細い悲鳴を上げて、ヒワは精霊人のむこうを見た。そして――拍子抜けした。
茂みの中から現れたのは、まだら模様の小さな鹿だ。人間たちに気づいて、ぴたりと動きを止めたところである。
「よかった。魔物じゃない――」
「いや」
空気と同化するほどのささやきを、鋭い一声が打ち消した。
「みんな、下がれ!」
エルメルアリアが身構える。すると、鹿がいきなり全身を震わせ、激しく鳴いた。
甲高く、それでいて濁った叫び。それに合わせて鹿の体がみるみる大きくなる。木々の背丈と並ぶほどの大きさになると、毛皮が剥がれ落ちた。鹿の体の下から、太い骨とその端々にぶらさがった泥のような物体が現れる。つぶらな瞳はどこにもなく、眼窩の中に青白い光が灯っていた。
後ずさりしていたヒワは、思わず顔を背ける。立ち止まりかけた彼女の腕を、ロレンスが引っ張った。そんな彼も、青ざめている。
「何あれ。やめてほしい。トラウマになりそうなんだけど」
切実な苦情はしかし、生物のものとは思えぬ咆哮にかき消された。