2 日常の終わり
脳天からつま先までを、ひどく揺さぶられるような感覚があった。
突然の衝撃に息をのみ、ヒワ・スノハラは反射的に顔を上げる。振り仰いだ先にはしかし、何も変わったものはない。大きな窓の先に広がる空も、その下の町並みも、すべてがいつも通りだ。
淡々と歴史を語る先生の声が、妙に遠く聞こえる。ヒワは首をかしげた。今の衝撃はなんだったのだろう。考えたが、当然答えは出ない。
「――スノハラさん!」
鋭い声が、少女の頬をぴしゃりと叩いた。
ヒワは慌てて前を向く。瞬間、眉をつり上げている先生と目が合った。
「は、はいっ!」
「この条約の基本理念はなんでしたか? あなたの言葉で教えてください」
どの条約の話だろう、と慌てたヒワは、とっさに黒板に目を走らせる。返事をして立ち上がるまでの間になんとか答えを突き止めた彼女は、一部の生徒の笑声から逃げるように口を開いた。
※
「ヒーワ!」
「ぐえっ」
歴史の授業の後。ふらりと教室から出たヒワの背中に、誰かが飛びついた。振り返った彼女が見たのは、元気に跳ねた赤い髪。そして、澄ましたように笑う少女の顔だ。
「シ、シルヴィー……」
数少ない友人の名を呼ぶと、彼女はヒワの肩から手を離して、豊かな胸を張った。
「あんた、授業中に呆けてたでしょ」
「うえっ。気づいてた?」
「あんなの誰だって気づくって」
シルヴィー・ローザは、たじろいだヒワを肘で小突く。
「なんかあったのー? 普段はともかく、授業中によそ見なんて珍しいじゃん」
「普段はともかく、は余計だよ」
「事実っしょ」
低い声で反撃したヒワだが、さらなる反撃を食らって撃沈した。シルヴィーに明るく断言されては、もう何も言い返せない。しばらく床をにらんだのち、授業中に感じたことを思い出す。
「……なんか、変な感じがしてさ」
「変な感じ?」
「うん。地震、とも違うけど。こう、突き上げられるというか、下から殴られるというか、そんな感じ」
ヒワのたどたどしい説明を聞いて、シルヴィーは腕を組む。
「何それ? あたし、全然わかんなかったよ」
「だよね……」
やはり気のせいだったのだろうか。ヒワはため息をついて、壁にもたれかかった。固まって談笑する女子生徒や、彼女の知らないカードゲームの話題で盛り上がる男子生徒たちの動きをなんとなく目で追う。屈託のない笑顔がまぶしかった。
「――もしかしたら、精霊指揮士界隈で何かあったかな。あとでロレンスに聞いてみよっか」
喧騒を割って、爽やかな少女の声が響く。え、とこぼしたヒワは、隣の友人を仰ぎ見た。
「……ひょっとして、さっきの話? 真面目に考えてるの?」
「当たり前でしょ。それともなに、ヒワは冗談で言ったの?」
「冗談ではない、けど」
ヒワが眉を寄せると、シルヴィーは反対に白い歯をこぼした。
「んじゃあ真面目に考えたっていいじゃん。あんたのそういう感覚、馬鹿にできないんだから」
「そうかなあ」
「そうよ。だからロレンスも、ちょくちょくあんたを勧誘すんでしょ」
もう一人の友人の名を出され、ヒワはますます渋面になる。目には見えない、けれど確かに存在する『精霊』に関わる界隈にいる彼は、出会った頃からヒワをそちら側に引き入れたがっている。彼曰くヒワは適性があるらしいのだが、本人はいまいちわかっていなかった。
「……それじゃあ、まあ、会ったらね」
ロレンスなら、この『よくわからない話』も真剣に聞いてくれるだろう。そう思って、ヒワは曖昧に答えた。しかし、シルヴィーは得意満面で人差し指を立てる。
「ちょうどよかった。今日、あいつと会う約束してんの。ヒワも来るでしょ」
ヒワは目をみはる。明るい黄緑色の瞳が、友人の顔を映し出した。反射的にうなずきかけて、固まる。ひとつ、用事を思い出したのだった。
「あー、ごめん。今日、買い出し頼まれてるんだった」
「あら、そうなの? じゃあ無理かあ」
「うん。ほんとごめんね」
ヒワがしょんぼりしていると、シルヴィーがその背中を思いっきり叩いてくる。景気のいい音が廊下に響き渡った。幸い、生徒たちはおしゃべりや読書に夢中で、誰も気にしていない。
「そんなに気にすんなって。さっきの話は、ちゃんとあたしから聞いとくからさ」
「……ありがと」
痛みに顔をしかめていたヒワは、それすらも友人の気遣いだとわかって、不器用にほほ笑む。シルヴィーはまた胸を張って「どーいたしまして!」と答えた。
※
放課後。友人に会うというシルヴィーと校門前で別れて、ヒワはその足で商店街を目指した。荷物の重さを考えると、家に学生鞄を置いていきたいが、いったん帰ってまた外出するのも面倒だ。買い出しに必要なだけのお金は持っているので、直行することにした。
アルクス王国南東部の町、ジラソーレ。昔から行商の中継地のひとつであり、今もなお国内外から人が集ってにぎわう町だ。同時に、精霊指揮士の町としても知られていて、彼らのための研究施設と巨大な学校は町の象徴となっている。
精霊が吐き出す強大なエネルギー・魔力を操る『指揮術』の使い手。それが精霊指揮士だ。ヒワのような人々から見れば、遠い世界の存在のようでありながら、案外身近な人々でもある。それは、彼らが町でよく見る道具の開発にも携わっているからかもしれない。馬車に混じって魔力で動く車が行き交い、大きな通りには指揮術で明かりがつく街灯が立ち並ぶ、この町に暮らす者ならではの感覚。ヒワもいつの間にか、それに染まり切っている。
ちょうど、ヒワの行く先にある街灯の下に精霊指揮士の若者が数人集まっていた。彼らは貴石をあしらった杖を持っているのですぐにわかる。
街灯の光源に使われている石が、チカチカと光を点滅させていた。石が劣化して魔力を集められなくなったか、石にかけられた指揮術が狂っているか、どちらかだろう。若者たちはその修理に駆り出された、というところか。
「こんにちは」
ヒワが街灯の前を通り過ぎようとしたところで、精霊指揮士の一人が声をかけてくれる。丸顔とアーモンドのような瞳、金色の巻き毛が印象的な少女だった。
「こ、こんにちは。……あの、お疲れ様です」
驚いたヒワは、それでも小声で挨拶を返す。少女は「ありがとう」とほほ笑んだ。ヒワはぺこりと頭を下げて、足早にその場を去る。
「いよーっし! がんばろー!」
「おまえ、ほんと現金だな。さっきまで『めんどくさい』って愚痴ってたくせに」
「いいじゃん現金だって! がんばりたくなるじゃん。ならない?」
「いやまあ……なるけどな」
背後から、そんな会話が聞こえてくる。ヒワは思わず笑いをこぼした。知らず、足取りが軽くなる。
西から吹いた強い風が、彼女の髪とスカートを撫で上げた。
石と木を組み合わせた建物が密集する通りを抜ける。旅行客向けの商店や公共施設よりも民家が増え、家々の間隔が空いてきたところに、突如としてアーチ状の門が現れた。それが商店街の入口だ。
商店街には、精肉店から仕立て屋まで、様々な店が軒を連ねている。生活に必要なそれらを求めて、常に人々が集まってくるのだ。夕食の準備にはまだ早い今の時間にも、パンの袋を腕いっぱいに抱えた男性や学校帰りと思しき少年少女など、多くの人が行き交っていた。
人混みの一部となったヒワは、母から託されたメモを片手に目的の店を回る。青果の店から始まっていくつかの店を回り、最後に乾物や調味料を扱う商店に顔を出した。
四十代に差し掛かろうという店主の男性は、ヒワを見ると、目を丸くした。
「おやっ。今日はヒワちゃんが買い出しかい?」
「はい。姉も両親も忙しいので」
「そうかそうか」
豪快に笑った店主にほほ笑み返して、ヒワはそっと入店する。メモを見ながら品物を探していると、すぐに店主が目当ての物を出してきてくれた。
「先生はまた東に行ったんだったか」
店主の言葉に、ヒワは目を丸くする。
「……よくご存じですね」
「向こうの肉屋の主人がな、パルマの牛飼いと知り合いなんだよ。んで、時々話が回ってくる」
「なあるほど」
彼が『先生』と呼んだのはヒワの父だ。仕事の関係で外に出ていることが多く、今は遠く離れた町にいる。
「それなら、まあ、ヒワちゃんたちも頑張んねえとだな。――ほれ、これでいいかね?」
「はい、大丈夫です。すみません、揃えてもらって」
目の前には、きっちりと袋に入った調味料や干物があった。ヒワは慌てて頭を下げる。「いいって」とこれまた豪快に笑った店主に代金を渡して、袋を受け取った。
「そういえば、かみさんが今朝、コノメちゃんに会ったってよ」
「へ?」
「なんか菓子あげたらしいから、あとで分けてもらいな」
退店間際に投げつけられた話題に、ヒワはあっけにとられてしまう。姉の得意げな顔を思い浮かべながら「そうします」と言って店を出た。
店を出て、まっすぐ門の方まで戻る。人通りが増えて、歩きづらくなってきた。そんな中でしかし、ヒワはふと足を止める。
「あれ……?」
重い荷物を抱え直しながら、空を仰ぐ。
青の中に、ほのかな黄金色が差し込む空。いつもと変わらぬその空が――揺らいだ。
ヒワは首をかしげ、目を凝らす。その瞬間、頭の奥を揺さぶられるような感覚があった。思わず頭を押さえる。
「なんだよ、これ――」
少女の悪態を、轟音がかき消した。
突き上げるような衝撃。今度は気のせいではない。天地が揺れて、あちこちで悲鳴が上がった。
ヒワは、反射的に空を見る。自分のまわりではなく、上を見たことに、深い理由はなかった。そして、見たことをすぐに後悔した。
空が翳っている。雲ではなく、生き物の影によって。
ヒワは最初、鳥の群れかと思っていた。しかし、違う。
いや、鳥型のものもいるが、それだけではないのだ。地上に生きる様々な獣を混ぜたような何かが、降ってくる。
「は……?」
地面が何度も揺れる。それは、異形の獣たちが降り立った衝撃によるものだった。
大地に降り立った獣たちは、凍りついている人間たちを見て、低くうなる。
最初に落ちてきた獣――猿のような体を持ちながら、大木の枝ほどある角と、遠目からでもわかる黒いかぎづめをもっている――が、ぐるりと周囲を見渡した。両目が陽光を反射して、禍々しく光る。
その姿を見て、ヒワは獣たちの正体を察した。気だるげな少年の顔が脳裏によぎる。
「魔、物」
その声に反応したかどうかは、わからない。
だが――猿の魔物は、確かにヒワの方を見た。




