17 〈浄化の戦乙女〉
紫水晶のごとき視線が、まっすぐにロレンスを射抜く。彼は唖然として、女性の顔を見つめた。
「契約……適性者? 誰が……俺が?」
目を白黒させたロレンスは、あえぐように呟いた。肺が縮まり、呼吸が乱れるのを感じながらも、疑問を相手にぶつける。
「天外界から来たってことは、精霊人、ですよね。契約ってことは、魔力の制限を解除する必要がある」
「はい」
「ってことは、それだけの大ごとが起きてるってことだ。何、しにきたんですか。それに、なんで俺が……」
矢継ぎ早に質問していたロレンスは、しかし途中で口をつぐむ。女性――フラムリーヴェが目を見開いたことに、気づいたからだ。
数秒ロレンスを見つめた彼女は、それから眉間にしわを寄せる。
「……申し訳ありません。少々気が急いていたようです。あなたは、ソーラス院の学生ですね?」
「あ。はい」
「学生には話すなと精霊指揮士協会から言われていたのですが……。あなたは適性者ですので、例外でしょう」
フラムリーヴェの呟きを聞き取って、ロレンスは顔を引きつらせる。精霊指揮士を束ねる団体が学生に伏せる案件ということは、「ヤバい話」なのではないか。そうは思ったが、一度口にした質問を取り消すことはできなかった。
フラムリーヴェは、やはり淡々と、そして理路整然と状況を説明してくれた。今、多重世界の境目に多数の〈穴〉が開いていること。そのせいで魔物などが好き勝手に世界を行き来してしまっていること。自分たちは事態の収拾と調査のために派遣されたのだということ。
ロレンスも、見習いとはいえ精霊指揮士だ。そこまで聞けば、彼女が契約者を探している理由にも見当がつく。しかし、納得できるかどうかは別だ。
「なんだそれ。境目に〈穴〉が開く? 聞いたことがない」
ようやっと立ち上がり、吐き捨てた彼に、フラムリーヴェがうなずいた。
「我々や、〈銀星の塔〉にとっても前代未聞の事態です。かのエルメルアリアが契約なしでの調査を止められている……と言えば、深刻さは伝わるでしょうか」
「待って今超大物の名前がさらっと出てきた」
とうとうロレンスは頭を抱えた。それはつまり、『超大物』ですら解決できない大問題、ということだ。
「……まあ、それなら契約が必要になるのはわかります。けど、なんで俺なんですか?」
ため息まじりに問うと、フラムリーヴェは首をかしげる。
「なぜ、と言われましても。あなたと私の相性がよかったからですよ」
「相性……?」
ロレンスは大急ぎで記憶を辿った。
確かに、通常の『契約』でも相性はそれなりに重要視される。植物を扱う指揮術が得意な人は植物系の魔物と契約しやすく、風の指揮術を得意とする人は、鳥型のものや風を操る魔物と契約しやすい。そういった具合だ。しかし。
「あなたは――多分、炎と親しい精霊人ですよね? 俺、炎の指揮術は苦手なんですけど……」
「なるほど。そういう話ですか」
フラムリーヴェはあっさり納得した。その上で、こう続ける。
「精霊人と人間の契約において、得意分野はあまり重要ではありません」
「そ、そう……なんですか?」
「はい。ここで言う相性とは、性格や価値観、また生まれ持った魔力の質、人間であれば引き付けやすい精霊の種類。そういった要素すべてをひっくるめたものです。『人』として波長が合う、といったところでしょうか」
ロレンスは、あんぐりと口を開けてフラムリーヴェを見た。相手はほとんど表情が動いていないのだが、なぜか得意げに胸を張っているように見える。
「私はこれまで長期の契約したことがありません。それに、波長が合う人間と出会うことも多くない。今回も、こちらへ来てからあなたを見つけるまでに二か月を要しました。ぜひ契約していただけると助かるのですが……」
フラムリーヴェの言葉は、決して鋭くない。しかし、どことなく詰め寄られているように感じて、ロレンスはたじろいだ。
「それは……俺も、〈穴〉とやらについては気になるけど……」
脳裏に一人の友人の顔がよぎる。商店街を――彼女を襲った魔物たちが、本当に天外界から出てきたものたちだとすれば、見て見ぬふりはしたくない。が、現状に対する戸惑いと、まったく別の問題とが、彼をためらわせていた。
「精霊人との契約とか……父さんや兄貴たちに知られたら、えらいことになる……」
青ざめたロレンスの呟きを聞いたのかどうか。フラムリーヴェは、目を狭めて腕組みをした。少しの間うつむいていたが、やがて、くっと顔を上げた。
「では、お試し期間を設けましょう」
「へ?」
「ひとまず、私と契約してください。そして、日常生活を送りながら情報を集め、実際に〈穴〉の調査にも出かけましょう。その結果、活動を続けてもよいとあなたが思えば契約続行。難しいと判断された場合は、その時点で契約解除。期間は今日から一か月。これでいかがでしょう」
思いがけない言葉に、ロレンスは呆気にとられる。先ほどからまともに頭が働いていない。
「契約って、そんなあっさり解除できるものなんですか」
「できます」
フラムリーヴェは、きっぱりと答えた。
「確かに、魔物相手の契約であれば複雑な儀式が必要です。しかし、それは意思疎通が難しく、魔物側に複雑な指揮術を扱う能力が備わっていないためです」
それらができる精霊人との契約であれば、解除も続行も難しくない。彼女の言葉から裏の意味を読みとったロレンスは、盛大に顔をしかめた。
紺藍の闇が迫る。
悩む時間は、短かった。
「わかりました。契約、しましょう。……とりあえず、一か月だけ」
ロレンスが低い声で念を押すと、フラムリーヴェは口の端を持ち上げる。
「ありがとうございます」
そうささやいた彼女の声は、確かに、先ほどまでよりやわらかかった。
大急ぎでソーラス院へ移動した二人は、建物から離れた場所で契約を結ぶことにした。
「えーっと、契約の詠唱は……確か、共通語やアルクス語でもいけるはず……」
ぶつぶつと呟くロレンスを見て、フラムリーヴェがしきりにまばたきする。
「詠唱とは、力あることばを唱えることです。そこに魔力が宿り、精霊たちを引きつけることができれば、簡単な文言でも詠唱になりますよ」
「……理論としてはそうですけどね。それが難しいから、人間は定型文を作るんですよ」
ロレンスは精霊人をじろりとにらむ。それからすぐ、言葉を組み立てる作業に戻った。一方のフラムリーヴェは、ひるむことも怒ることもなく「なるほど、人間なりの工夫なのですね」などと呟いている。
「……よし。これで大丈夫なはず」
少ししてロレンスが手を叩くと、フラムリーヴェは彼の前に移動した。流れるような足運びである。表情の乏しい女性に凝視されたロレンスは、鼓動が速くなるのを感じながらも口を開いた。
「我、ロレンス・グラネスタは、天地万物の精霊の導きに従い、天外の民、フラムリーヴェと契約を結ぶ。その力を世の理のもとに制し、その身命を我が名にかけて守ることを誓う」
一言一言、慎重に紡ぐ。そのたびに精霊たちが声を上げ、場の魔力が高まった。それを熱と音のない振動で感じたロレンスは、いつの間にか閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。建物の明かりは遠いはずだが、精霊人の姿がほのかに赤く輝いて見えた。
フラムリーヴェは、やはりにこりともせず、しかしなめらかに言葉を返す。
「詠唱を受諾いたします。私は〈浄化の戦乙女〉、真の名は、フラムリーヴェ。我が名にかけて誓います。この契約が続く限り、私はロレンス・グラネスタの剣となりましょう」
ロレンスは目をみはる。瞬間、魔力が一気に高まって――お互いの体の内に吸い込まれていった。
熱も震動も消え失せ、夜の風がロレンスの額を撫でる。大きく息を吐きだす彼の前で、フラムリーヴェが頭を傾けた。
「これでよろしかったでしょうか」
「……はい。よろしいです。でもちょっと待って」
ロレンスは、右手をまっすぐ前に突き出す。「なんでしょう」と言った女性を見て、ロレンスは恐る恐る確認した。
「あなた、今、〈浄化の戦乙女〉っておっしゃいました?」
「はい。五十年ほど前から、こちらの精霊指揮士の方々にそう呼ばれるようになりました。以後、主にこちらの世界で名乗らせていただいております」
よどみない答えを聞いて、ロレンスはとうとう頭を抱えた。
「聞いたことあるよ……。ソーラス院じゃ、そっちの名前で有名ですよ、あなた……」
「そうなのですか。光栄です」
「バレたら絶対目立つじゃん。やだよ。面倒だよ」
フラムリーヴェとの契約が嫌なわけではない。家族やソーラス院の生徒ににらまれるのが嫌なのだ。面倒事と争いごとはなるべく避けるのが、ロレンス・グラネスタの基本方針である。これは、その基本方針に反する由々しき事態だった。
一人で嘆いているロレンスに、フラムリーヴェが片手を差し出す。
「ご安心ください。元より〈穴〉の件は極秘事項です。私も目立たぬよう最善を尽くします」
「あ、はい……。そうしていただけると、とても助かります……」
ロレンスは、差し出された手に自分の手を重ねる。精霊人の手と腕が黒い鎧に覆われていることに、このとき初めて気が付いた。
「えーと。じゃあ、ひとまず、一か月間よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いいたします、ロレンス様」
フラムリーヴェの反応は、やはり淡白だ。その調子のまま、彼女は言葉を繋いだ。
「それと、私に敬語は不要です。指揮術上での位置づけとは言え、あなたが主人に当たりますので」
「ええ……。じゃあ、フラムリーヴェも様づけはよしてくだ……よしてほしい。指揮術上では主従かもしれないけど、精神的には対等なんだから」
ロレンスが眠そうな顔で返すと、フラムリーヴェは軽く目をみはった。明らかな揺らぎは、しかしすぐにいつもの無表情にのまれてしまう。
「わかりました。では、ロレンスとお呼びしましょう」
フラムリーヴェは流れるように頭を下げる。
その瞬間、彼女がほほ笑んだように、ロレンスは思った。