16 焔の華
ロレンスと会った翌日の朝。ヒワ・スノハラは通学路を早足で歩いていた。
「やっぱり……きつい……」
口を開けば弱音がこぼれる。そんな彼女を赤い髪の友人が励ました。
「いいよいいよ。様になってきてる」
「そ、そう、かなあ」
「そうそう。息が上がりにくくなったと思わない?」
「言われて、みれば……?」
ヒワは顔をしかめる。一方、彼女に歩調を合わせているシルヴィーは「ほら、あと少し!」と声を張り上げた。
遅刻しそうなわけではない。むしろ、時間には余裕がある。通学路をわざわざ早足で歩いているのは、ヒワの体力づくりのためだった。
モルテ・テステ渓谷から帰った翌日、ヒワはすさまじい筋肉痛と疲労感に襲われた。その日はほとんど動けず、のちの数日間も後引く痛みに苦しむはめになった。
筋肉痛が完全に収まった後、これではいけないと一念発起した。今後、エルメルアリアと大陸西部を駆けずり回ることになるのだ。体を鍛えなければならない。
まず、シルヴィー・ローザに相談を持ち掛けた。彼女は趣味の一環でランニングや筋力トレーニングに取り組んでいる。多少助言がもらえるかもしれない、と考えたのだ。
ヒワの話を聞いたシルヴィーは、真剣な表情でいくつか質問をした後、こう言いだした。
「よしわかった。さっそく明日からトレーニング開始ね」
「はい?」と聞き返したヒワに、彼女は言い募った。
「あんたがあたしと同じことをしても潰れるだけ。それじゃあ意味がない。できることから一個ずつやって、習慣化しなきゃね。さしあたり……通学時間を上手く使おう」
茶色の瞳が爛々と輝いている。助言どころか、自分も一緒にやる気だ。ヒワは何も言えなくなり、シルヴィーの導きに従って体力づくりを始めたのだった。
最初にシルヴィーが提案したのは、家を出る前に柔軟体操をしたうえで、普段より足を高く上げ、大股で歩くこと。体育の授業以外で運動をしてこなかったヒワにとっては、これだけでもきつかった。
どうにか慣れると、今度はその歩幅と足の高さを保ったままで歩調を上げるよう指示された。結果、通学路を早歩きすることになったわけである。
「慣れたらランニングに移行しよっか。ってまあ、それはまだ先のことだけどね」
「当分先、だと思う……」
息を荒らげながらも、ヒワは足を動かす。歩幅と速度を保ちつつ、もちろんほかの人や物にぶつからないよう気を配る必要もあった。シルヴィーが付き合ってくれてよかった、とヒワは本気で思う。自分一人でやっていたら、どこかで周囲に気が回らなくなって、事故を起こしていただろう。
やがて、学校が見えてきた。周囲の生徒に好奇の視線を向けられながらも、二人の少女は歩みを止めない。運動部の練習を思わせる掛け声をかけ合いながら校門をくぐった。
「便利よねえ、それ。塩分補給にもなるし」
学校の裏手。登校してきた生徒たちや先生の目を避けて、少女たちは体を休めていた。ヒワが家から持ってきた軽食を頬張っていると、シルヴィーがそんなことを言う。
「それ……って。ああ、おにぎりのことか」
軽食は、小ぶりなおにぎり二個だ。塩むすびと梅干入りのものがひとつずつ。ヒワは梅干しがあまり得意ではないのだが、「運動のお供なら梅干し一択」と母に無理やり持たされた。……何も入っていない塩むすびをさりげなく持たせてくれたのは、ヒワ以上に梅干し嫌いな姉である。
「あたしも糖分補給に取り入れてみたいんだよね、オニギリ。でも、うちはお米なんてないからさあ」
「この辺じゃ手に入りにくいもんね。うちは意地でも常備してるけど」
「スノハラ家のお米への執念はなんなのさ……」
そんな会話をしつつ、ヒワはなんとか梅干しおにぎりをのみこんだ。水で口直しをしていたところで、シルヴィーが話題を変える。
「そういえば、昨日ロレンスに会ったんでしょ。例の話、した?」
ヒワは水を吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。嚥下して、うなずく。例の話とはもちろん、『変な感じ』のことだ。
「ああ、うん。魔物が襲ってきたことに関係あるんじゃないかって」
「そっかあ。本当にそうだとしたら、すごいことよね」
「すごいこと?」
「だって、ヒワはそういう前兆みたいなのがわかるってことでしょ」
石段に腰かけ、足をぶらぶらさせているシルヴィー。ヒワは塩むすびを手に取り、まじまじと彼女を見つめた。
「前兆って……そんな大げさな。たまたまでしょ」
「そうは言うけど」
シルヴィーは、あきれ顔でヒワの方に身を乗り出す。
「こういうこと、一度や二度じゃないでしょうが。地震の夢を見た、って言った日の昼に地震が来たこと、あったでしょ。校外学習中に、西の方から変なにおいがするってあんたが言ってたら、そっちの方に珍しい魔物がいたこともあったし」
ヒワは、声を詰まらせた。彼女が挙げたのは、どちらも中学時代の出来事だ。言われるまで忘れていた。
「それだってたまたまだよ……きっと。多分」
言い訳がましく呟いて、ヒワは塩むすびを頬張った。唇を尖らせたシルヴィーから、わざと目を逸らす。
少し前なら考えすぎだと笑い飛ばしていただろう。しかし、『当代最高の精霊指揮士』と契約してしまった今では、それもできなくなってしまった。
補給と雑談に夢中になっていたヒワたちは、近くの木の上から小さな少年が見守っていることにも、上空を赤と黒の影が横切ったことにも、気が付かなかった。
※
少女たちがそんなやり取りをした日の、夕刻。ロレンスはひとり、町を走っていた。今度の召喚学の講義で使う道具を補充していたら、思いのほか時間がかかってしまったのである。
ソーラス院の鐘が鳴るまでに戻らなければ、夕食抜きだ。それだけは避けなければと、ロレンスなりに全力疾走している。しかし、走ることに不慣れな体はすでに悲鳴を上げていた。
走るどころかよたよたと大股で歩くだけになったところで、ようやくソーラス院の影が見えてきた。
そのとき、知らない声が少年の耳を撫ぜる。
『見つけた』
ロレンスは、弾かれたように振り向いた。しかし、声の主らしき人物はいない。それどころか、人影のひとつも見当たらなかった。
ソーラス院の周辺がこれほど閑散としているのは珍しい。ロレンスが疑念に顔をしかめた次の瞬間、正面が真っ赤に染まった。
「うわっ!?」
ロレンスは、思わず叫んで飛びのいた。踏ん張り切れずに尻餅をつく。青い瞳が、赤色を――炎の色を映し出した。
空中で炎が燃えている。ひとところに留まっていて、燃え広がる様子はない。指揮術だとしても奇妙である。ロレンスが見ている前で、炎は花のような形をつくり――ぱっと弾けて消えた。
夕闇に吸い込まれる火の粉のむこうで、また別の赤が宙に舞う。それは、髪の毛の色だった。ほとんどが赤く、毛先にかけてだんだんと黄色くなってゆく長髪。それこそ、炎の色だ。
その髪の持ち主は、炎に代わって現れた。それで何をするでもない。静かにたたずんで、ロレンスを見つめている。
「――こんばんは」
しばしの沈黙の後、その人――女性は淡々と挨拶した。続けて、なめらかにお辞儀をする。物々しい金属の音が響いた。
ロレンスの方は放心状態である。状況を把握しようにも、頭が回らない。そのせいか、挨拶よりも先に疑問が口から滑り出た。
「だ……だ、れ?」
問いながらも、彼の感覚は答えを告げている。
人間ではない。かといって、実体を得た精霊でもない。その中間の存在だ。
小首をかしげた女性は、それから丁寧に一礼する。
「フラムリーヴェと申します。天外界の〈真朱の里〉より参りました。契約していただける精霊指揮士を探しておりまして……たった今、適性者を見つけたところです」