15 精霊指揮士の卵たち
「ソーラス院……いつ見ても立派だなあ」
ヒワ・スノハラは、黒い柵のついた門の先にそびえる建物をながめながら、そんなことを呟いた。広い敷地の中でひときわ目立つ、城館のような建物。それが、ソーラス院の名を冠する、精霊指揮士たちの学び舎だった。
休日であるにもかかわらず、ローブをまとった少年少女が絶えず出入りしている。時には、現役の精霊指揮士と思しき大人の姿も見えた。
友人の一人と会うときはいつもここで待ち合わせをするのだが、そのたびに座りの悪さを覚えるヒワであった。いつも堂々としているシルヴィーが隣にいればまだましなのだが、今日は家の用事があるらしく、不在である。
気まずさを堪えて待つこと、しばし。人の波の中に、見慣れた色のローブと綿のような黒い頭を見つけ、ヒワは目を輝かせた。
「ロレンス!」
精いっぱい背伸びをして手を振ると、向こうも気が付いたらしい。おぼつかない足取りで人だかりを抜け出し、走ってきた。
「や、ヒワ。久しぶり……だよね?」
「うん。ごめんね、なかなか予定が合わなくて」
ヒワが顔の前で両手を合わせると、ロレンスは苦笑した。
「気にしなくていいよ。そういうときもある」
そよ風のような声音でそう言った彼はしかし、少し疲れているようにも見える。ヒワは首をかしげた。
「あの、余計なお世話かもしれないけど。何かあった?」
尋ねると、ロレンスは奇妙なうめき声を上げてから、手を振った。
「気にしないで。父さんから手紙が届いただけだから」
「……なるほど」
ロレンスは、両親と折り合いが悪いらしい。比較的付き合いの短いヒワでも、そのことは把握していた。精霊指揮士界隈では有名な家らしいので、色々あるのだろう。
二人はどちらからともなく歩き出す。歩く速度も歩幅も似ているので、互いに気をつかうことなく、自然体でいられる。
しばらくは、常と変わらぬ世間話に花を咲かせた。互いの学校生活のことや、試験のこと。最近食べたもののこと。そして、商店街の魔物襲撃事件の話も、少し。
それらが一段落すると、ロレンスがふと真面目な表情になる。
「あ、そうだ」
「ん?」
「シルヴィーから聞いたけど……ヒワ、前に『変な感じ』がしたんだって?」
ヒワは、あ、と声をこぼす。
魔物襲来の現場に居合わせ、彼女の日常が一変したあの日。一瞬だけ異様な感覚を覚えていた。今ならある程度原因が推測できるが、元々はロレンスに相談しようと考えていたのだった。
『原因』については、関係者以外には漏らさぬようにと言い含められている。そもそもが、彼女の『相棒』が所属する〈銀星の塔〉からの指示らしい。ゆえに、ソーラス院の学生相手といえど話すわけにはいかないのだ。ヒワは曖昧に笑った。
「あれねえ。いきなり魔物が来たのと関係があるかも、って考えてるんだけど」
「……うん、そうだと思う」
「……あ、やっぱり?」
ロレンスは深刻な顔でうなずいた。それを見ると、ヒワとしても表情を引き締めざるを得なくなる。
「ほら、この『多重世界』って、文字通りいくつもの世界が重なっているでしょう。その世界はそれぞれ、目に見えない薄い壁のようなもので隔てられている、とされているんだけど」
「……うん」
「この壁は動きやすくてね。たまに、一部がちょこっとずれることがあるんだ。これを『境目が揺らぐ』っていうんだけど。精霊指揮士の中には、境目が揺らいだときに、地震のような衝撃を感じる人がいる。ヒワが感じたのも、その類のものじゃないかな」
境目が揺らぐ。その言葉を胸中で繰り返したヒワは、顔を曇らせた。『揺らぐ』ことはあっても、『穴が開く』ことはなかったのだろう――今までは。
「商店街に出た魔物は、こっちの世界にはいないはずのもの――なんて話も出てたもんね」
「うん。ただ、なんでそんな魔物が出たのかは、さすがにわからない。よその世界の魔物が天地内界に渡ってきたなんて事例は、太古の神話以外に聞いたことがないし」
ゆったりとした口調で語ったロレンスは、そこで顔をしかめる。
「父さんなら何か知ってるかもしれないけど、訊いたところで教えちゃくれないだろうな」
見習いたちには〈穴〉のことは知らされていないのだ。ヒワは、とてつもない罪悪感に襲われた。
「あんまり役に立てなくてごめん」
「いいよ。それだけわかれば十分。ありがと」
頭をかく友人に対してほほ笑んでいる間にも、胸がきりきりと締め付けられる。その痛みをごまかすために、話題を逸らした。
「あ、そうだ。もうひとつ訊きたいことがあるんだけど」
「ん? なに」
眠そうな顔で首をかしげた少年に、ヒワは恐る恐る問いを向ける。
「エルメルアリア、って知ってる?」
その瞬間、ロレンスが目をみはった。
友人の変化を目の当たりにして、ヒワは少し後悔する。ああ、スイッチを押してしまった――と。
「もちろん知ってる! 精霊指揮士の間じゃ常識だよ!」
「そ、そうなの……?」
ロレンスは、今までの様子からは想像もつかないほど明瞭な声を上げて、身を乗り出す。やや引いているヒワに構わずまくしたてた。
「〈天地の繋ぎ手〉の二つ名を持つ精霊人で、当代最高の精霊指揮士、神話以来の精霊使いともいわれている。風を操ることが得意だというけれど、実際はあらゆる精霊と交信してあらゆる指揮術を使えるらしい。その力で天外界だけでなく天地内界の危機を救ったこともある。中でも、『ユース共和国の魔物軍討伐』と『マラディナ山の雨風呼び』は国の記録にも残るほどの偉業で――」
早口で繰り出される言葉の数々に、ヒワは窒息しそうになった。シルヴィーがいればすぐさま首根っこをつかんで止めてくれるのだが、赤い救世主はやはり不在である。
幸い、ヒワが窒息する前にロレンス自身が気づいて口を押さえた。
「はっ! ごめん。つい興奮して……」
「いや、いいよ。本人からじゃ聞けない話もいっぱい聞けたし」
「え?」
「あ、えと、なんでもない」
混乱のあまり余計なことを口走ってしまった。頭を高速回転させたヒワは、先ほどの早口語りの中から、印象に残った話を引っ張り出す。
「天地内界も救った……って言ってたけど、精霊人がこっちに来ることもあるんだね」
「うん。内界の国から要請があれば、来るみたい」
そのときには、やはり誰かと契約したのだろうか。そんな思いが浮かぶと同時、胸に鋭い痛みが走る。ヒワは首をかしげた。一瞬の痛みがどこから来たものなのか、わからなかった。
ますます頭を傾けた少女の隣で、少年が青い瞳を輝かせる。
「とはいえ、それも一時的なことだからね。エルメルアリアに限らず、精霊人にはめったに会えないものなんだ。俺も一目でいいから見てみたいとは思うけどね」
「……あ、ああ、うん。そうだね」
無邪気にあこがれを語る友人に、なんと返すべきかわからず、ヒワは苦笑いする。すぐ後、ロレンスが不思議そうな表情をしたのでつい身構えたが、彼が発したのは彼女の予想とは少し違う言葉だった。
「にしても、ヒワが精霊人の話を振ってくるとは思わなかった。とうとう精霊指揮士に興味持った?」
いつも通りの眠そうな顔がヒワを見る。彼女は頬をかいた。
「精霊指揮士になるつもりは、まだないけど。ちょっとだけ気になったというか……そんな感じ」
曖昧な答えに対し、ロレンスは物言いたげな顔をした。しかし、深く追及はせず、つかみどころのない相槌を打つ。小さくない秘密を抱えたヒワにとって、その対応は何よりもありがたかった。
※
ロレンスと指揮術談義をした後、人の少ない食堂で昼食をとった。散歩がてら周辺を見て回り、ソーラス院に面した通りで解散した。
今、ヒワは、昼と夕方の境にある町を一人でそぞろ歩きしている。
この後は、特に予定がない。宿題も終わっている。家に帰って本でも読もうか――などと考えていたところで、左の頬を風がなでた。ただし、自然の風ではない。
ヒワは少しお腹のあたりに力を込めて、人目につきにくい道へと入った。やはりひと気のない建物の軒先で、上を見る。視線の先にやわらかな光が灯った。
「ヒワ。今戻った」
「おかえり、エラ」
ヒワは、自然に笑みを浮かべて『契約相手』を出迎える。
古い物語から飛び出してきたかのような、美しく、小さな少年。エラことエルメルアリアは、得意げな表情で胸を反らした。
「〈銀星の塔〉への報告、ばっちり終わらせたぜ。〈穴〉をふさいだ方法についても報告書にまとめたから、ほかの精霊人にも伝達されるはずだ」
「す、すご……」
「内界に入り込む魔物の送還もしなきゃだから、オレたちは任務続行だけどな」
モルテ・テステ渓谷から帰った後、彼は一度、故郷である天外界に戻っていた。そこで済ませたというあれこれの報告を聞いて、ヒワはうなってしまう。
契約者の反応を見て、エルメルアリアは上機嫌になった。
「当然だ。オレは天才だからな」
ふふん、と嬉しそうに鼻を鳴らす姿は、まるで見た目通りの子供だ。ロレンスがこれを見たらどんな顔をするだろう、と考えて、ヒワは苦笑する。
しかし――彼が飛びぬけた力を持っているのは間違いない。当代最高の精霊指揮士、神話以来の精霊使いとはよく言ったものだ。先の冒険では、ヒワもその力にずいぶん助けられた。
ヒワが友人の言葉に思いを巡らせていると、エルメルアリアが訝しげに顔を近づけてくる。
「おい、ヒワ。ひとのことじろじろ見て、どうした」
「あ、ごめん」
はっと顔を引っ込めたヒワは、言葉を選んで答える。
「エラって、本当に有名人なんだなあって」
「なんだ。今さら気づいたのか」
有名人と言われた当人は、当然のような態度で宙返りする。「今さらって」とヒワはつい呟いたが、それ以上言い募ることはしなかった。奔放に見える彼の言動にも、少しは慣れたつもりである。
「ま、オレの武勇伝は追々聞かせてやるとして――」
「それ、わたしが聴く前提なんだ」
「今はほかの〈穴〉の話をしよう」
「そっちは聞きたい」
世界の境目に開いたという〈穴〉。主に天外界と天地内界を無秩序に繋いでしまった〈穴〉のうちひとつは、エルメルアリアが先日ふさいだ。しかし、それで終わりではない。
真剣な顔になったエルメルアリアは、〈銀星の塔〉で聞いたという大陸西部の〈穴〉の大まかな位置を契約者に伝えた。淡々と挙げられた地名を聞いて、ヒワは顔をしかめる。
「どれもこれも絶妙に遠いなあ」
「別に距離は問題じゃねえさ。飛んでいけばいいんだから」
「ええ……。気が進まない……」
刺激的な空中散歩を思い出したヒワは、げんなりと肩を落とす。一方のエルメルアリアは、別のことに対して顔をしかめていた。
「問題は、〈穴〉の位置関係と、数だ」
「今わかってるだけでも……十か所? だよね? 見事にばらけてるし」
「ああ。オレたちだけじゃ手が回らない。いくらオレが天才でも、体はひとつしかないからな。今後も新しいのが見つかるだろうし」
加えて、ヒワは一般学校の学生だ。周囲の人々に怪しまれないためにも、ある程度今までと同じ生活をする必要がある。その上で大陸西部の各地を飛び回らなければならない。
「ハードなんてものじゃない……」
「やっぱり、しばらくはオレだけで〈穴〉をふさぎにいくか? いやでも、それだとヒワの訓練にならねえしな」
エルメルアリアは、腕を組んでうなっている。ヒワは罪悪感を覚える一方、胸の中心に温かいものを感じてもいた。彼の契約者として活動することを認めてもらえたような気がしたのだ。
ヒワも自分なりに頭をひねり、思いついたことを口に出す。
「ほかに契約した人たちはいないの?」
「今のところ、報告は上がってない」
エルメルアリアはかぶりを振る。ひとつにまとめたプラチナブロンドの髪が、さらさらと揺れた。
「こっちに来た精霊人は、力のある奴ばっかだからな。契約者探しも一苦労だろうよ」
「うーん。そっかあ。ほかの人と協力できればいいな、って思ったんだけど……」
ふむ、と呟いたエルメルアリアが遠くを見やる。
「そうだな。せめて、ほかの精霊人と接触して、状況を聞けるといいんだけど……」
呟きが途切れた瞬間、両目が鋭く細められる。ヒワはその意味を尋ねようとしたが、エルメリアリアに先を越されてしまった。
「とりあえず、オレたちで一個一個潰していくしかない。今後の計画を立てようぜ」
「……うん、そうだね」
ヒワは、表に出し損ねた問いをのみこんで、うなずいた。