14 ロレンス・グラネスタの憂鬱
アルクス王国南東部の町、ジラソーレ。夏の終わりに咲く花を名前の由来に持つこの町は、古くからの交通の要衝である。過ごしやすい気候のおかげもあり、年中人の行き来が盛んだ。旅の途中、少し羽を休めるのにちょうどよい場所。少なくとも、一般人にとってはそのくらいの認識だろう。
しかし、精霊指揮士にとっては、羽を休める以上の価値がある町である。その理由はずばり、『ソーラス院』があるからだ。
大陸最高峰の精霊指揮士の学び舎にして、研究機関。多くの精霊指揮士見習いたちは、その場所に憧れる。ソーラス院で学びたい。あるいは、将来研究に携わりたい。そう夢見て勉学と鍛錬に励む見習いは少なくない。そして、実際にソーラス院へ入った者たちの熱意は、言うまでもなく。立派な精霊指揮士となるために、修行の日々を送っていた。
――中には、一見してその熱意がわかりにくい生徒もいるのだが。
ソーラス院の敷地の西側にそびえる学生寮は、石と木材を組み合わせた昔ながらの建物だ。男女で棟が分かれていて、いずれも四階建てである。
男子寮の広間は落ち着いた色調で統一されていた。装飾の少ない壁に、等間隔に並んだ指揮術仕掛けの照明が彩りを添える。その下では、チョコレート色の床板がつやつやと輝いていた。生徒たちがよく通る場所には、深みのある青色の絨毯が敷かれている。
その絨毯の上を、一人の少年が歩いていた。肩から足元までをすっぽりと覆うローブは、彼がここの生徒であることを示している。
その足取りは重く、表情にも覇気がない。手元の封筒を見ているようだったが、目の焦点が合っていなかった。もっとも、彼はいつもぼんやりしているので、外から機嫌や機微を推し量るのは難しい。
ただ――彼の今の気分は、間違いなく最悪だった。
「あっ。ロレンス」
広間に元気な声が響き渡る。少年は眠そうな顔を上げて、声の方を見た。同じくローブを羽織った金髪の少年が手を振っている。彼のそばには別の男子生徒も二人いた。
「これから昼飯食いにいくんだけど。おまえも来ないか?」
今日は休日だ。よって、昼食を外でとったり、遊びのために出かけたりする生徒も多い。
ロレンスは考え込んだのち、黒い頭を横に振った。
「いや。俺はいいよ」
「そっか。じゃ、また今度な」
変わらず元気な少年へ曖昧にうなずいて、ロレンスは部屋の方へ足を向ける。
「なあ。なんでいっつもロレンス誘うん? あいつ、まじで指揮術以外に興味ねえじゃん」
「えー? やっぱ繋がっときたいじゃん」
「ないわ。無理無理。何に誘っても来ないし」
「どうせ繋がるなら兄貴たちの方がいいよな」
「でもあいつ、幼馴染とか外の女子とかとはよく会ってるらしいぜ」
「そりゃあ、幼馴染からの誘いは断んねえだろ」
笑い声に彩られた内緒話には、悪意はないが棘はある。
ほぼ聞こえてるんだけどな、と胸中で呟きつつ、ロレンスは足を止めなかった。何くれとささやかれるのはいつものことだ。右耳から左耳へ、流してしまえばいい。
それよりも、今は、手に持っている封筒のことで頭がいっぱいだった。
昼食もとらずに部屋へ戻ったロレンスは、二段ベッドの下側に腰かける。同居人に対して「転げ落ちたら嫌だから下がいい」と言って、珍獣を見るようなまなざしを向けられたことを、未だに時折思い出す。
ともかく、ベッドでしばし体を伸ばしたロレンスは、ようやく手紙の封を切る。相変わらず、便箋が一枚だけだ。
これは、実家からの――正確に言えば、父からの手紙だ。ソーラス院で学ぶ子供たちは、試験の成績や生活ぶりを綴った手紙を定期的に出している。それに対する返信だった。
便箋に目を通す。と言っても、ロレンスの手紙に書いてある内容はいつも同じだ。
『此度の定期試験、魔物生態学の点数がやや低いようだが、まあ許容範囲と言っていいだろう。引き続き、勉学に励むように』
短すぎる手紙を読み終えたロレンスは、ため息をつく。
「もうちょっと書くことあんだろ、クソ親父」
悪態をつきながら便箋を封筒に戻して、ベッドの端に投げた。そのまま寝転ぶと、ぼす、とくぐもった音がする。
「手紙出さなかったら怒って催促するくせに、出したら出したで返事がこれだよ。なんのためにやってんだろうな。あーもう、面倒くさい」
天井をながめながら、誰にともなく呟く。これもまた、いつものこと。
両親はロレンスに期待していない。彼に求められるのは、ソーラス院で恥をかかない程度の成績を収めることだけだ。それが兄たちの面子を立てることにも繋がる、というのが親の弁である。
優秀な精霊指揮士として国中を駆け回る一番目の兄と、すでにソーラス院で優等生と名高く、附属研究所から声がかかっている二番目の兄。彼らに比べて、ロレンスはあまりに平凡だった。得意科目は霊薬学。炎や雷の指揮術を得意とする兄たちとは方向性がまるで違う。そのことも、両親としては気に入らないらしい。
精霊指揮士の名家・グラネスタ家において、心配やねぎらい、家族らしい愛情を求める方がおかしいのだ。ロレンス自身、とうにあきらめたつもりでいた。しかし、形あるもので現実を突きつけられると、途端に虚しくなる。
「あーあ」
ロレンスが意味もなく呟いたとき、部屋の扉が開いた。
「あ。ロレンス、部屋にいたんだ」
顔をのぞかせたのは、こげ茶色の髪をうなじのあたりでまとめた少年だった。覚えのある声に反応して体を起こしたロレンスは、青い瞳を『同居人』に向ける。
「トビー、俺に用事?」
「うん」
尋ねると、トビーことトビアスは丸顔に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「正門前に、おまえの彼女が来てたよ」
「は?」
ロレンスは、やはりぼんやりとした顔でトビアスを見た。
「彼女? なんのこと?」
「何って。しょっちゅう会ってるじゃないか。髪の短い、菜の花畑みたいな女の子」
トビアスは、時折不思議なたとえを用いることがある。今回のたとえは、面積の広い髪色の方ではなく、瞳の色の方を言っているのだ。そこまで考えて、ロレンスは人と会う約束をしていたことを思い出した。
「ヒワだ」
呟くと同時にベッドから飛び降りて、バタバタと支度をする。トビアスは、その様子をながめながら、のんびりと部屋に入ってきた。
「言っとくけど、彼女じゃないからな」
「えー。でもあの子、ジラソーレ高等学校の生徒だろ?」
「他の学校の女子イコール彼女って、それなんの法則だよ。ただの友達。幼馴染経由で知り合っただけ」
「じゃあその幼馴染が彼女か」
「……シルヴィーに聞かれたら殺されるよ」
自分も一緒に絞め殺されるから勘弁してくれ、などと思いながら、ロレンスは鞄を持ち上げる。
「じゃあ、ちょっと出てくる。夕方の鐘までには戻るから」
「はいはい。いってらっしゃい」
トビアスはにこにこ笑って手を振っている。そちらを見ないようにしながら、ロレンスは廊下を小走りで駆けた。
黒い雲に覆われていた心が、ほんの少し晴れた気がする。知らず、笑みをこぼしていた。