13 春と風のはじまり
「『イリュ・ドゥーテ・クランダル・カータラ』」
静かな声が、再びモルテ・テステ渓谷に響き渡る。多少ぎこちなさはあるものの、先刻よりはなめらかな詠唱だった。
それを唱えた張本人は、地上――谷を見下ろす岩場で息を吐く。疲労の色をにじませて顔を上げたヒワは、すぐにぎょっと目をみはった。真正面にいる少年が、頭を抱えてうずくまっていたからである。心なしか、顔色も悪いようだった。
「エルメルアリア!?」
「あー……大丈夫。急に体が重たくなったんで、びっくりしただけ」
精霊人の少年は、暗い声で答えて、ひらひらと手を振った。ヒワは、考えるまでもなく、彼の異変の理由に思い当たる。
「あ、そっか。制限をかけたから……」
「そういうこと。ま、すぐに慣れるだろ。つーか、慣れなきゃやってけないし」
細く息を吐いたエルメルアリアは、余裕ぶってそんなふうに言う。しかし、顔色の悪さばかりはごまかせない。アルマジロも憂いの視線を彼に注いでいた。
思わずうつむいたヒワに、エルメルアリアが鋭い一瞥をくれる。
「勘違いするなよ。これは太古の昔から存在する世界の仕組み――その結果だ。あんたはたまたま、仕組みのほんの一部分を操作する権利を借りてるだけ。用が済んだら、いじくったものを元に戻す義務がある」
精霊人の言葉は厳しい。ただ、そこに少女を傷つけるような鋭さはなかった。
「なんにせよ、制限なしでオレが魔力を垂れ流してたら、えらいことになるからな。内界の精霊たちを無駄に騒がせちまうし、下手したらこの一帯に嵐を呼ぶかもしれないし」
大げさな言葉を聞いて、ヒワは弾かれたように顔を上げる。その足もとで、アルマジロが丸まっていた。
『そぎゃんことになーですか?』
「なるぜ。だから、これでいいんだよ。天地内界を守るためにも、必要なことだ」
緑の瞳が、じっと少女を見つめる。彼女は、こみ上げた苦味をのみくだしてうなずいた。それを見て、エルメルアリアも満足そうに笑う。
「よし。それじゃあ、取り残されてる魔物がいないか見て回ろう。そいつらを送還したら、ここでの仕事は本当に終了だ」
「うん。頑張ろう」
『わしもてごしますけんね』
「てご……?」
『あ、お手伝いってことです』
ヒワは、両頬を押さえて気合を入れた。アルマジロもやる気満々とばかりに体を伸ばす。彼らを見たエルメルアリアは、白い歯を見せて笑った。
※
〈穴〉がふさがれる際、かなりの数の魔物が吸い込まれている。にもかかわらず、三十ほどの魔物がいまだモルテ・テステ渓谷に居座っていた。
順番にそれを見つけ出していったヒワたちは、すみやかに彼らを送還した。と言っても、送還自体はエルメルアリアがやってくれている。制限解除の必要がない今、ヒワはせいぜい足を引っ張らないように気をつけることしかできなかった。
もどかしさは、もちろんある。しかし、胸を焼くような焦燥は感じなかった。今はこれでいい。素直にそう思う。
『――おぞい気配はなーなりましたね』
アルマジロが、ぴくぴく耳を動かす。ヒワもうなずいた。
彼の言う気配のことはあまりわからない。ただ、今までより空気が澄んだように感じていた。
ひと息ついたエルメルアリアが、腰に手を当てて宣言する。
「天外界の魔物、送還完了。これで、周辺の町を魔物が襲うなんてことは、そうそう起きなくなるはずだ」
「あっ。じゃあ、ジラソーレも、もう大丈夫?」
「おう。新しい〈穴〉が開かない限りはな」
さらりと不穏な一言が付け足されたが、ヒワは聞かなかったことにした。ようやく肩の力を抜く。そこで、アルマジロが二人を見上げた。
『お二人には、えらいお世話さんになーました』
訛りはあるが、言いたいことはわかる。ヒワはぺこりと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。そばにいてもらえて、心強かったです」
「気にすんな。オレらも仕事で来ただけだ」
ヒワの隣で、エルメルアリアが胸を張る。アルマジロはそれを見て、嬉しそうに目を細めた。
『今度、このへんにおいでますときは、声かけてください。できーことがあれば、てごしますけん』
「そのときはよろしく頼む」
エルメルアリアが溌溂と返すと、アルマジロも甲羅を見せつけて笑った。
ひとしきり笑って挨拶も済ませた後。エルメルアリアが高く飛びあがった。透き通った緑の衣とレース飾りが、西から赤く染まりはじめた空に輝く。
「じゃ、帰るか。ヒワ」
「うん。ところで……やっぱり飛ぶの?」
「当たり前だろ。飛ばなきゃ日が暮れちまう」
「うええええ。そうだよねえ」
ヒワは、鞄を抱えてがっくりと肩を落とす。慰めのつもりか、アルマジロが少女の足に鼻先をこすりつけた。
※
たいへん刺激的な空中散歩を終えて、ヒワは無事帰宅した。薄汚れている彼女に家族は訝しげな目を向けてきたが、なんとか笑ってごまかした。しかし、ごまかしきれていなかったらしい。果汁を入れていた小瓶を洗っている間じゅう、コノメの視線が付きまとっていた。
荷ほどきののち、早めの夕食とお風呂を済ませると、ヒワは迅速に部屋へ引っ込む。――そうしなければいけない気がしたからだ。
ベッドの上で気だるさを訴える腕と足を揉んでいると、窓が鳴る。
「ヒワ」
「うわびっくりした」
そう言いつつも、ヒワはすぐに窓を開けた。窓の外に張り付いていたエルメルアリアは「別に必要ねえのに」と言いながら部屋へと入ってくる。
「どうだった?」
「周辺に天外界の魔物の気配はなし。〈穴〉の嫌な魔力も、今は感じられない」
「そっか。よかった」
精霊人の報告を聞いて、少女は顔をほころばせた。
ヒワが家族と過ごしている間、エルメルアリアはジラソーレの町とその周辺を見回ってくれていたのだ。疲れているはずなのに申し訳ない、と落ち込むヒワをよそに、エルメルアリアはすすんで外に飛び出していった。どのみち、〈銀星の塔〉に報告するために詳細な情報が必要なのだという。
「ヒワはどうだったんだよ」
「え?」
突然呼びかけられて、ヒワは首をかしげた。すると、エルメルアリアが、彼女の前に着地する。
「自分の目で見て、オレの言ったことが少しは理解できたか?」
ヒワは目を瞬く。出会った次の日の会話を思い出して、頬をかいた。
「とりあえず、きみがでたらめ言ってたわけじゃない、っていうのはわかったよ」
「おい。でたらめ言ってると思ってたのかよ」
唇を尖らせたエルメルアリアに、ヒワは「ごめんって」と手を合わせて見せる。それから、ふっと顔を曇らせた。
「あとは、うん。〈穴〉がよくないものだってことも実感したよ。多重世界の細かい仕組みとか、理論的なこととかは全然知らないけど……あれを放っておいたらまずい、っていうのはわかる」
どろりとした闇と、原色の光を内包した〈穴〉。あれが天外界へ繋がっているということが、ヒワにはいまいち信じられない。あれに飛びこんだら最後、どことも知れぬ異空間に飛ばされて、戻ってこられなくなるのではないか。そんな、茫漠たる恐怖があった。
小さな部屋が静まり返る。時計の針の音と、外から響く子供の笑い声だけがその場を包んだ。
しばし後、静寂を破ったのは、ヒワだった。
「――ねえ、エルメルアリア」
「なんだ?」
再び浮き上がったエルメルアリアが、小首をかしげる。ヒワは、少年そのものの相貌をじっと見た。
「きみさえよければ、これからも契約を続けたいと思う」
緑に輝く瞳が見開かれる。ヒワは、わずかに身を乗り出した。
「それでね。わたし、一緒に〈穴〉をふさいで回りたい。危険な仕事をきみ任せにはしたくない。……いい、かな?」
エルメルアリアは、一瞬すごく驚いたような顔をする。それから、まじまじとヒワの顔をのぞきこんだ。たっぷり十秒そうした後、しかつめらしく腕を組む。
「一緒に動くっていうんなら、ある程度指揮術を使えるようになってもらわねえとな。少なくとも、防御結界くらいは張れるようになれ」
「わ、わかった。勉強する。あと、体力もつける」
「そりゃ結構」
渓谷で酷使した腕をさするヒワを見て、エルメルアリアが悪戯っぽく笑う。彼は空中で一回転したのち、再びヒワのもとに下りてきた。
「契約を続けることについて、異存はない。無茶しない、指揮術を習得する。この二点を守ってもらえるなら、一緒に〈穴〉をふさいで回るのもやぶさかじゃない」
「うん」
「というわけで――改めてよろしくな、ヒワ」
にっ、と。それこそ無邪気な子供のように笑って、エルメルアリアが手を差し出す。ヒワは顔を輝かせて、その手を握り返した。
「うん。よろしくお願いします、エルメルアリア」
二人は軽く握手を交わす。直後、エルメルアリアが考え込むように眉を寄せた。
「エラ」
小さく開かれた口から、音がこぼれ出る。
それを聞いて、ヒワは目を瞬いた。
「……え?」
「オレの親友が、オレのこと、そう呼んでくれるんだ」
語る少年は、心なしか嬉しそうだ。
ヒワは、短い名前を口の中で何度か繰り返す。そして、思わずほほ笑んだ。
「いいね。かわいい愛称だ」
「ヒワはオレの契約者だからな。特別に、この名で呼ぶことを許してやろう」
誇らしげに胸を張ったエルメルアリアを見て、ヒワはつい吹き出した。彼が突然言い出したことの意味をおぼろげながらも察して、笑いが抑えきれなくなる。ひとしきり喉を鳴らした後、その名を舌で転がして――音にした。
「それじゃあ、ありがたく。――これからよろしくね、エラ」
「おう」
二人は、悪戯を企む子供のように笑いあった。それから、どちらからともなく手を挙げる。
控えめなハイタッチの音が、静かな部屋に、ひとしずくの明るい色を落としたようだった。
(第一章 春と風のプロローグ・完)
アルマジロさんの言葉注
そぎゃんことになーですか?:そんなことになるんですか?
てご:手伝い
おいでます:いらっしゃる