98 次男と三男
ロレンスには二人の兄がいる。
真面目で勤勉な反面、頑固で物言いがきついのが長兄セヴェリン。長兄に負けない才を持ちながら奔放で、誰にでも気さくに接するのが次兄レオルカ。
レオルカは、家族が見ていないところでは、ロレンスによく声をかけてくれた。魔力感知などの修練に付き合ってくれることもあった。
ロレンスも幼いうちはこの次兄に懐き、後をついて回っていた。だが――いつの頃からか、彼のことが苦手になった。
劣等感も理由のひとつ。だが、それだけでもない。
ロレンスは、レオルカが怖かった。
※
ロレンスが連れてこられたのは、学生寮の食堂だ。食事の片づけが終わった後から、次の食事の準備が始まるまでは、自習室として解放されている。講義のない生徒が本を読んでいたり趣味に没頭していたりすることが多い。だが、今は無人だった。
堂々と食堂に入ったレオルカは、窓際の日当たりがよい席を選ぶ。ロレンスをやや強引に座らせた後、自分も向かい側に座った。
「災難だったな。まあ飲めよ、ほら」
そう言って取り出したのは、陶器のカップと小さな瓶。瓶の封を開けて、その中身をカップになみなみと注ぐ。葡萄の香りが二人の間に漂った。酒精の匂いはしない。
「ぶどうジュースだ」
案の定、レオルカはそう言って、カップをロレンスの方へ滑らせる。ロレンスはそれを受け止めたが、すぐに口をつけることはしなかった。しかめっ面を相手に向ける。
「……ご用件はなんですか、レオルカ兄上」
冷たく言い放つと、次兄は悲しそうな顔をした。とてもわざとらしい。
なんだその顔は、といわんばかりにロレンスがにらみつけると、レオルカは左手を頬に当てた。
「昔みたいにレオ兄様って呼んでくれないのか?」
「いつの話をなさってるんですか。遠慮します」
「もしくは兄貴でも可」
「話聞いてます?」
「俺、兄貴って呼ぶのも呼ばれるのも、憧れてたんだよ。でもほら、セヴェリンはそう呼ぶと怒るからさあ。親父に似て頭固いよな。嫌になるぜ」
「話聞けっての!」
我慢の限界であった。ロレンスはついに声を荒らげる。だが、直後に顔をこわばらせた。レオルカが人の悪い笑みを浮かべたのだ。
「ほら、そうそう。その調子」
執拗にからかってくる兄に、ロレンスはかぶりを振った。
「用件を仰ってください」
ぴしゃりと言えば、レオルカは「ちぇー」と唇を尖らせる。だが、すぐに表情を引き締めてぶどうジュースに口をつけた。
「そんじゃーしかたないから単刀直入に訊くぞ。ロレンス、おまえ、何と契約した?」
しかたないからってなんだ、と言い返す準備をしていたロレンスは、中途半端に口を開けたまま凍りつく。思考停止しなかったのは、同居人のおかげだった。
「なん、ですか。突然」
辛うじて尋ねると、レオルカはカップを揺らす。
「おまえ、近頃噂になってるぞ。知ってる?」
「……寮の相部屋の子から聞きました」
「そりゃ結構。その噂が専修の方まで流れてきたんで、ほんとのところを聞きにきたんだよ。契約相手次第では放っておけないからな」
ロレンスは愕然とした。
彼らの数年上。基礎課程を終えて、より高度な学びへと進む専修課程の生徒。その多くは、学内行事のときくらいしか基礎課程の生徒と交流しない。にもかかわらず噂が耳に入ったということは、それが相当広まっているということだ。
「見たところ、契約が成立しているのは本当らしいな。問題はその中身だ。巷じゃ精霊をも喰らう邪龍だとか、東方で信仰されている火の魔物だとか、色々言われてるけど」
レオルカの言葉に、ロレンスはたじろいだ。カップを両手で包み込む。落ち着け、と己に言い聞かせ、細く息を吸った。
「……確かに、契約はしました。ですが、相手は噂で言われているような魔物ではありませんし、俺が無理やり従えているわけでもありません」
精霊人だと明言するつもりはない。知れば、レオルカは見せろ会わせろと迫ってくるだろう。理由はわからないが、次兄とフラムリーヴェを会わせたくない。それがロレンスの本音だ。
レオルカは顎をなでながら、探るような視線を向ける。ロレンスは負けじと顔に力を込めた。
「ついでに言うと、父さんもご存知です。ばれた、というのが正しいですが」
これが効果てきめんだった。レオルカは、目を丸くして身を乗り出す。
「なんだ。親父が把握してるのか。それを早く言えよ」
「……言いたくなかったので」
「気持ちはわかる」
からりと笑ったレオルカが、椅子にもたれて後頭部で両手を組む。
「あの堅物親父が知った上で放置してんなら、ほんとに問題ないんだろうな。で、俺に情報が回ってこないってことは……学生は知らねえ方がいい機密、ってわけ」
父親譲りの青い瞳が、鋭く光る。
「いい大人が、末っ子に何を背負わせてんだか」
冷たい視線。平坦な声。また、この表情だ。ロレンスは知らず、全身に力を入れていた。
レオルカはいつも飄々としていて、誰にでも笑顔で接する。だが時々、ひどく冷たい顔をすることがあった。決して気づかれぬよう、その氷のような視線を、家族や出会う人に向けている。
いつだったか、ロレンスはそれに気づいた。『そちら』がレオ兄様の素顔なのだと悟ってから、以前のように近寄れなくなった。いつか自分にも刃が向くのではないか。そう思うと、喉すら凍る。
それゆえ、ソーラス院に入る頃には次兄を避けるようになった。以降、まともに交流しないまま今日に至ったのである。
「――背負わされているわけではありません」
ひっそりとした声が、静寂を揺らす。
レオルカが目をみはった。ロレンスも、自分で驚いていた。なぜ言葉が滑り出たのかわからないまま、話し続ける。
「俺が自分で、背負うと決めたことです。父さんにはむしろ、余計なことをするなと止められましたが……」
へえ、とレオルカが身を起こした。机に肘をついて、弟をまじまじと見つめる。その目は獲物を狙う肉食獣のようだった。
「何? おまえ、親父とやりあったの?」
「やりあったというほどでは……。まあ、危うく対立するとこでしたけど……」
ロレンスがもごもごと答えると、レオルカは大げさに両手を挙げた。
「まじかよ。見てみたかったわ、その現場」
「現場に兄上がいなくてよかったと、心の底から思います」
冷たく返しても、次兄はまったく動じない。残り少なくなったぶどうジュースを呷る。そして、弟にやわらかなまなざしを向けた。
「変わったな。ロレンス」
次兄の言葉に、ロレンスは首をかしげる。
「……そうでしょうか」
「おうともさ。おまえが親父に口答えするなんて、今までじゃ考えられなかったよ」
レオルカは、からからと笑う。それを聞きながら、ロレンスも残りのぶどうジュースを飲み干した。
二人のカップが空になったところで、レオルカが立ち上がる。カップを手早く回収し、胸を張った。
「危険な契約じゃねーんなら、俺は深入りしないでおくわ。ついでに、潰せる範囲で噂潰しとく」
「噂を潰すって……そんなあっさりと……」
ロレンスは頬を引きつらせる。対するレオルカは、人の悪い笑みを浮かべた。
「このレオルカ様の影響力を舐めんなよ?」
調子のいい発言の裏に、抜き身の剣のような鋭さが潜んでいる。頼もしくもあり――やはり、恐ろしくもあった。
ロレンスが反応に困っている間に、レオルカは歩き出す。あいている方の手を、ひらりと振った。
「じゃ、俺は戻るわ」
ロレンスは、はあ、と曖昧な返事を返す。レオルカは、ちらと彼を振り返った。口もとに笑みが浮かぶ。先ほどとは違う、兄としての笑み。
「事情はよくわからんけど。がんばれよ」
ロレンスは今度、すぐにうなずいた。席を立つ。意を決して、息を吸った。
「……兄貴」
レオルカの足がぴたりと止まる。ロレンスは、構わず続けた。
「ジュース、ごちそうさま」
瞬間、レオルカが勢いよく振り返った。驚いたロレンスのもとに猛然と駆け戻ってきて、ずいと顔を近づける。
「ちょ、え? やべ、もう一回言って?」
ロレンスは盛大に顔をしかめた。
「言いません」
「そこをなんとか」
「あんまりしつこいと、一生敬語でいきますよ」
「くっ……! いつからそんな狡い奴になったんだ、ロレンス!」
「学校に戻るんですよね。急いだほうがよろしいかと思いますが」
いちいち反応が大きい兄に、弟が冷ややかな視線を注ぐ。
かしましい兄弟のやり取りが、ひと気のない食堂にしばし響き渡った。




