97 噂の種
二日後、ソーラス院の薬学実験室。生徒二十人と教師一人が入ってもなお余裕があるその部屋で、霊薬学の実習が行われていた。
生徒たちの呟きと作業の音、そして異様な臭いが部屋に満ちる。霊薬の材料の多くは、魔物の体の一部や魔力を含んだ植物などだ。これらはとにかく、独特な臭いがすることが多い。そのため、生徒たちは実習中、口と鼻を薄布で覆っている。
ロレンスは作業に没頭していた。シラヌイツバメという魔物の肝を、複数の薬草と一緒に煮込んでいるところだ。今日中にこの作業が終われば、次の実習までに霊薬の素を寝かせておける。いい感じだ、とこっそりほほ笑んだ。
狙い通り、実習時間内に霊薬の素が完成した。それに魔力を流し込み、瓶に詰めて、棚の決まった場所に置いておく。ロレンス以外の生徒も、同じように動き回っていた。
布を外してひと息ついたロレンスは、手早く道具を片付ける。鍋以外を片付け終えたところで、教師が実習の終了を告げた。
緊張感から解き放たれた生徒たちが、おしゃべりしながら出ていく。そんな中、数人の少年少女がロレンスのもとへやってきた。
「グラネスタ。これ片付けといてくれよ」
「あ、私のもお願い」
彼らは当然のように、自分たちが使ったすり鉢や瓶、小鍋などを前に置いていく。ロレンスは、眉をひそめた。ただ、彼が口を開く前に、少年少女は実験室を出ていってしまう。棘のある笑い声が遠ざかった。
ロレンスは小さくため息をついた。しかたなく、瓶を収納棚まで持っていく。
ここ最近、ロレンスのまわりで変化があった。ヒワにも、シルヴィーにも、フラムリーヴェにも話していない。
一部の生徒が、ロレンスに対して嫌がらせをしてくるようになったのである。と言っても、今のように実習の片づけや書物の整理を押し付けられるといった内容だ。体を傷つけられたり、あからさまな暴言を浴びせられたりはしていない。それでもこのところ、ロレンスの心は常に曇天だ。
「ローレンスー。鍋、調理室に持ってっとくよ」
背後からなじみ深い声がかかる。ロレンスは驚いて振り向いた。トビアスが、鍋を重ねて抱えていた。
「……トビー? なんでいるの」
彼は、霊薬学を取っていないはずだ。疑問に対し、トビアスは当然のような顔で答えた。
「実験室の前を通りがかったら、やな感じの奴らが出てきたからさ。ロレンスの名前を出してたから、もしかして、と思った」
相部屋の少年は、得意げに笑う。ロレンスはそれを見て、肩をすくめた。
「ありがと。でも、俺も行くよ。すり鉢も調理室に返さないといけないし」
「あ、そっか。それなら一緒に行こう」
食事の誘いのような声掛けにうなずいて、ロレンスは手元に残った瓶を棚に入れた。
薬学実験室での片づけを終えると、二人は連れだって廊下へ出る。トビアスはロレンスに湿っぽい視線を向けた。
「おまえさあ。ああいうのは、きっぱり断らないとだめだよ。相手が調子に乗るだろ」
もっともだ。ロレンスは友人の視線から逃げるように、顔を背ける。
「頭ではわかってるんだけどさ。とっさに言葉が出なくて」
「……ま、しょうがないか。水に入ったことがない人に、いきなり泳げって言うみたいなもんだ」
ロレンスとしては物申したい例えであった。唇を尖らせた彼を見て、トビアスがにやりと笑う。
「霊薬学取ってる友達に、見張りでも頼んでおくか」
「……そこまでしなくていい……」
ロレンスはげんなりしたが、同居人も引かない。眉を上げて、にらんできた。
「状況を甘く見すぎ。このままだと、どんどん悪化するよ」
これも正論である。返答に窮したロレンスは、話題を微妙にずらすことにした。
「……そもそも、なんでこんなことになってんだろうな。俺、あの子たちに何かしたっけ」
心の中にくすぶっていた疑問を口に出すと、途端に足が重くなった。ロレンスは、眉を寄せて記憶を辿る。
グラネスタ家の子息で、ぱっとしない三男。そういう立ち位置であるから、ソーラス院入学当初から色々ささやかれていた。ロレンスの同級生は、嫉妬から、あるいは娯楽感覚で、好き勝手なことを言い立てる。しかし、それを本人にぶつけてくることはめったにない。何かあるとしてもその程度で、これまでは明確な嫌がらせをされることなどなかった。一部の生徒の態度が変わったのは、夏休みが明けて少し経った頃だ。
ロレンスに原因の心当たりはない。ただ、『やった方は忘れているが、やられた方は覚えている』ということもある。心当たりがないからと言って、自分に非がないとは言い切れないのだ。
ゆえに頭を悩ませていたロレンスに対し、トビアスが「それなんだけど」と切り出した。
「俺も気になって、軽く探りを入れてみたんだ。そうしたら……一部の生徒の間で、妙な噂が流行ってた。気分悪くなるかもしれないけど、聞く?」
気遣うように、問うてくる。ロレンスは、少し悩んでうなずいた。
トビアスがそっと顔を近づける。
「『グラネスタ家の三男坊が、恐ろしい魔物と契約した』ってさ」
ささやかれた、瞬間。ロレンスの背筋が凍った。
つかの間、足を止めてしまう。慌てて歩みを再開したロレンスは、トビアスに渋面を向ける。
「なにそれ、どこ情報?」
「情報源はわからない。でも、とにかく、おまえが魔物と契約したって話がじわじわ広がってるっぽい。『凶悪な魔物を禁忌の術で無理やり従わせてる』とか『父親に強い魔物と引き合わせてもらったんだ』とか、変な尾ひれもついてるし」
ロレンスは、黙っていた。何も言いようがない。
「馬鹿馬鹿しい。こんなこと言う奴に、エリゼオ卿の手紙を見せてやりたいよ」
「それは勘弁してほしい」
大げさにかぶりを振ったトビアスに、ロレンスは苦笑いする。しかし、どう頑張っても声が震えてしまった。
噂そのものは真実ではない。だが、噂の種となりうる出来事には、心当たりがある。
契約。どこから漏れた。
ロレンスは階段を上りながら、頭を高速回転させる。そして――はっとした。
嫌がらせが始まったのは、夏休みの後である。だとすれば、発端はそれ以前。夏休み中の出来事だ。
「王都で……誰か、見てたのか?」
休暇で王都を訪れた生徒もいたかもしれない。この秋に入学してきた人がいた可能性もある。誰かがあの大立ち回りを目撃し、事実確認をしないまま話を広めたとしたら。
冷たい汗が、背中を流れ落ちた。
「ロレンス? 何か言ったか?」
「あ、いや。何も」
トビアスが首をかしげる。ロレンスは慌ててあいている方の手を振った。
ほどなくして、調理室に辿り着いた。すり鉢や鍋を返却して、足早に部屋を出る。次もそれぞれ違う講義を取っているので、別れた。
ひとり階段を下りながら、ロレンスは頭を押さえる。
「最悪だ」
悲痛な呟きは、むなしく反響して、消えた。
悪いことはなぜか重なるものである。
翌日、トビアスの忠告が現実になった。
そのとき、ロレンスはソーラス院の廊下を歩いていた。ひとつの講義の後。この次の時間には、なんの講義も取っていない。つまりは、暇である。
フラムリーヴェと話でもするかと考えていたとき、前から男子生徒がやってくる。進路をふさぐように歩く姿に、ロレンスは眉をひそめた。なんとか避けようと足をずらしたが、あろうことかその生徒はわざとロレンスの前へ歩いてくる。果たして、二人はぶつかった。
ロレンスは衝撃を感じてよろめいた。辛うじて踏みとどまったが、ローブの下から杖が滑り落ちた。高い音が、跳ねる。
「あっ――」
「おいおい。何やってんだ、グラネスタ」
歩いてきた男子生徒が、しかめっ面で言う。その大声は廊下中に響き渡り、周囲の生徒の興味を引き付ける。
「人にぶつかった上に杖を落とすとか、どんくさいにもほどがあるだろ」
男子生徒は、芝居がかった仕草で杖を指さす。
「『杖をぞんざいに扱う者は精霊指揮士失格』だぜ。先生に言いつけちまおうかな?」
そう言われた瞬間、ロレンスの心の中で波が立った。目を細めて、息を吸う。
「ぶつかってきたのはそっちだろ」
「……あ?」
男子生徒の眉が跳ねる。明らかに剣呑な雰囲気だ。ロレンスはひるみつつも、さらに口を動かした。
「自分から仕掛けてきておいて、勝手なことを言わないでほしい。他人の杖を傷つけるなんて、それこそ大問題だよ」
そう言いつつ、杖を拾ってローブの下にしまう。瞬間、男子生徒が踏み出してきた。
「脅しのつもりか? いい度胸じゃねえか」
「事実を言っただけ」
一触即発の空気は、若者だらけの空間にあっさり伝播する。生徒の反応は十人十色だ。迷惑そうに眉をひそめたり、野次馬よろしく身を乗り出したり、はやし立てたり。
ロレンスは頭を抱えたい気持ちでいっぱいだった。
こうなるから、言い返したくなかったんだ。
心の叫びは誰にも届かない。生徒の中には、トビアスはもちろん、止めてくれそうな知り合いはいなかった。
男子生徒の方は、顔を真っ赤にしている。
「だいたいなあ。おれがぶつかったっていう証拠はどこにあるんだよ」
「証拠って……」
「できそこないの三男坊が、偉そうにしやがって」
悪態をついた男子生徒がロレンスの胸倉をつかむ。ロレンスが無意識のうちに肩をこわばらせた、そのとき。
「――そんなに証拠が欲しいなら、俺が証人になってやろうか?」
やけに陽気な声が、廊下を駆け抜けた。
生徒たちがどよめく。当事者二人は絶句する。この場の全員の視線が、廊下の南側に向いた。
青年が歩いてくる。朝日のような金髪の下で、青玉の双眸がきらりと光った。均整の取れた体を、他の生徒たちと同じローブが覆っている。ただし、その留め具はロレンスたちのものより華やかだ。
悠々と歩いてきた彼は、おもしろがるように二人をながめた。
男子生徒の体がぴくりと震える。右手がロレンスから離れた。ロレンスは数歩下がったが、視線は闖入者に釘付けになっていた。
「だいたいなあ。廊下のど真ん中で騒いじゃだめだぜ、基礎課程の後輩たち?」
「…………申し訳ありません」
ロレンスは深々と一礼した。それは、長い時間をかけて体に染みついた、くせのようなものだ。
対して男子生徒は、青ざめて口を開く。
「す、すみません。でも、こいつがぶつかってきて――」
「あー。いい、いい。そういう言い訳はいらん」
青年は飄々と『後輩』の弁解をさえぎる。偉ぶって腰に手を当てた。
「全部見てたからな。ぶつかったのは、君だろ。えーと……ダリオ・ベラーノくん?」
名を呼ばれた男子生徒は、忙しなく目と口を動かす。何か言おうとしているようだが、まともに声が出ていない。
ロレンスはつい青年をにらむ。青年もロレンスを一瞥したが、すぐ男子生徒に視線を戻す。
「わざとじゃなかったにせよ、ぶつかったことは謝らないとな。一歩間違えたら、お互い怪我してたぜ?」
「あ、えと、でも……」
「ん? それとも、わざとやったのか? それはなおさらよくないなあ」
動揺しきっている男子生徒をよそに、青年はロレンスの頭をぽんぽんした。ロレンスは、振り払いたい気持ちをぐっとこらえて無言を貫く。
「ベラーノ家のご子息なら、こいつが誰の弟か知ってるよな? 下手したらお家同士の問題に発展するぜ?」
にっこり笑った青年の言葉に、男子生徒はさらにおびえたようだった。哀れなほど顔が引きつっている。わなわなと震え、からくり人形のような動きで頭を下げた。
「すみません、でした」
消え入りそうな声で謝罪する。かと思えば、背を向けて走っていった。目陰をさした青年は「あら、行っちゃった」とのん気に呟く。
嵐は去った。廊下には居心地の悪い空気が漂う。野次馬と化していた生徒たちは、近くの人とあれこれささやきあっていた。
「ねえ。あれ、やっぱりレオルカ先輩だよね?」
「そうだろ。ロレンスのこと、弟って言ってたし」
「なんで専修課程の先輩がこんなところに……」
「さあ……」
好奇の視線が突き刺さる。だが、話題の中心であるレオルカ・グラネスタは涼しい顔だ。何事もなかったかのようにロレンスを振り返る。
「よ、ロレンス。……いつぶりだ? おまえが全然家に帰ってこないせいで、思い出せないんだけど」
「そう言われましても」
ロレンスは、うっそりと言い返した。その上で、問う。
「なぜ、こちらの棟に? 専修課程の生徒は、このあたりの教室に用はないと思うのですが」
「そりゃ、教室じゃなくておまえに用があるからな」
ロレンスは目をみはった。問いを重ねる前に、レオルカが彼の腕を引く。
「ちょっ――」
「立ち話する内容じゃねえし。ちょっと付き合え」
レオルカは、少年のような笑みを浮かべる。彼の手を振りほどく機を逸したロレンスは、そのまま引っ張られていった。




