11 伝えるべきこと
遠く、風の音が獣の咆哮のように響く。暗い視界の中で、ぱらぱらと乾いた音を立てて砂礫の塊が落ちてきた。
ヒワは細く息を吐く。それだけのつもりが、低いうめき声も一緒に漏れた。腕の筋肉がひきつって、小刻みに震えている。
モルテ・テステ渓谷の半ば。岩壁の突起に反射で手をかけたおかげで、ヒワはなんとか命拾いした。しかし、いつまで持つかはわからない。岩をつかむ手はすでに限界を迎えているし、谷の上にはまだ嫌な気配が漂っている。
「なんとか、上がって……いや、無理だけど……絶対、無理だけど……できる、ところまで」
ぶつぶつ言いながら、ヒワは腕を曲げようと試みる。しかし、疲労して痺れている腕は言うことを聞いてくれない。それでも力を振り絞って、両手を突起にかけていると、体が少し持ち上がった。
「やった! これ、で」
ヒワは、ほっと顔をほころばせる。しかし、さらによじ登ろうとしたところでその表情が凍りついた。
黒い影が覆いかぶさる。不気味にふたつの光が揺らめいている。山羊の魔物が、彼女の方をのぞきこんでいた。
彼はぐうっと頭を持ち上げると、この一帯に響くほどの大声で吠える。その声が尾を引いて消える頃、谷を駆け降りてきた。
「げっ!?」
ヒワは濁った声を漏らす。その間にも、山羊と彼女の距離が縮まった。圧迫感と、うなり声と、鼻息とがすぐそばに迫って、ヒワは声も出ないほどにすくんだ。
どうにかして逃げなければ。しかし逃げ場はない。二つの考えを行き来している間に――ずるりと指が滑った。
「あ」
ごつごつした岩の感触がなくなる。体が再び宙に浮く。山羊が大きな口を開いた。
今度こそ死ぬのだと覚悟して、ヒワはぎゅっと目を閉じた。せめて痛くないといいな、とも思ったが、この状況でそれは無理な願いだろう。少しでも苦しみを軽減しようと身構えたとき――今までと違う、爽やかな風が頬を撫でた。
「ヒワぁっ! 背中丸めろ!」
夏の嵐のような声が、渓谷に流れ込んでくる。迫りくる終わりに意識をからめとられていたヒワは、考える前に大きく息を吸っていた。言葉に従い背中を丸めると、不自然に吹いた風が下から彼女を包み込む。浮かされる格好となったヒワの体はくるりと回り、空中で立ち上がるような姿勢になった。視界がまともに開けるやいなや、ヒワは谷の上を振り仰ぐ。
「エ――エルメルアリア?」
「無事か? 無事だな、よし」
燕のように突っ込んできた小さな少年が、少女のまわりを無遠慮に飛び回る。傷がないことをひと通り確かめると、彼女の真正面で止まった。そのとき、送風機のような低音と聞き慣れない声とが同時に飛び込んでくる。
『エルメルアリア様! 後ろ、後ろー!』
「騒ぐな聞こえるわかってる!」
エルメルアリアは後ろを見もせず手を振った。浮き上がって固まった砂礫が、次々と魔物の体を打つ。谷を滑り降りていた山羊は、その衝撃で体勢を崩した。不自然に肥大化した蹄――いや、爪が岩を引っかき、山羊は谷底へ転がり落ちていった。
「おっと、そうはさせるかよ」
にやっと笑ったエルメルアリアが、山羊の方へと手をかざす。
「〈銀星の塔〉の名の下に、権限を行使する。門よ開け、魔の者どもを彼方へ還したまえ!」
空気を切り裂くような言葉が渓谷じゅうに響き渡る。山羊の真下に白く輝く門が現れ、童話に出てくる怪物よりも静かに彼をのみこんだ。
音もなく開いた門が、これまた音もなく閉まる。すべての音が消え去った渓谷を見下ろして、少年が小さく息を吐いた。ヒワは、その背中をじっと見つめる。色々と言わなければならないことはあるはずだが、言葉が上手くまとまらなかった。
ヒワがもごもごと口を動かしていると、その体が本人の意志に関係なく浮き上がり、横に滑る。
「えっ、うぇえ!?」
ヒワがうろたえて手足をばたつかせている間に、その体は渓谷の縁に運ばれていった。岩場の上に尻餅をついた彼女は、きょろきょろとあたりを見回す。すぐそばで鱗にも岩にも似たかたまりが動いていることには、気づいていなかった。
『あのさんがエルメルアリア様の契約者さん? 無事ですかいね?』
「――へ!? え、誰です!?」
文字通り飛び上がったヒワは、ちぎれそうな勢いで頭を左右に振る。『ここです、ここ』と響いた声に導かれ、自らの足もとを見下ろした。
アルマジロが片方の前足を上げている。つぶらな瞳としばし見つめ合ったヒワは、恐る恐るかがんだ。
「えーと。どちら様でしょう……?」
『あ、失敬。わしゃあこの渓谷にすむ地の精霊です。この獣のお身体を借りとる身ですけん、魔物じゃありません』
ご安心を、と頭を反らしたアルマジロを見て、ヒワは首をかしげる。
『先ほど、魔鳥に襲われとったわしを、エルメルアリア様が助けてごさいたんです』
アルマジロが誇らしげに告げたとき、空中に緑色の紗幕が舞った。話題にのぼっていた人物が帰ってきたのだ。ヒワは顔を引きつらせる。
「エルメルアリア――」
答えはない。しかし、悪意をもって無視しているわけではない。うろうろと泳ぐ緑の瞳がそれを証明していた。ヒワもさんざん迷って服の袖をいじった末に、ようやく彼を見上げた。
「あの、ありがとう。……ごめん」
「……ん。怪我がないなら、別にいい」
「……うん」
なんとか言葉を交わしたものの、ぎこちない。沈黙する二人を、アルマジロが不思議そうに見比べる。ヒワは、その動きを漫然と見ていたが、上から響いた「あのさ」という声を聞いて顔を上げた。
「さっきは、その……言いすぎた。悪かった、よ」
「え」
やや目を逸らしつつも謝罪を口にした少年。彼を見上げたヒワは、ぽかんと口を開けた。
「あと……ありがと」
空気に溶けるほどの声で紡がれた感謝の言葉に、ヒワはいよいよ硬直した。うろうろしているアルマジロのことは、もはや眼中にない。
「えっと……ど、どうしたの、急に?」
「どうもこうも。助けようとしてくれたのは、事実、だからな」
エルメルアリアは、頭をかいてそんなふうに言う。その目が一瞬アルマジロの方を見て、見られた側も驚いたように頭を動かしていた。
ヒワもそれを目撃していたが、彼らのやり取りの意味まではわからない。ただ、こみ上げてきた温かい気持ちを抱きしめて、ほほ笑んだ。
エルメルアリアが形のよい眉をひそめる。
「……言っとくけど! 指揮術も使えない奴が戦場に飛び出したのは許してないからな! 今後、自分の身を守れるようになるまでは、勝手なことするなよ!」
指をさされたヒワは、何度もまばたきした。それから小さく吹き出す。
「うん。わかった。今回はごめんなさい」
「わかればいいんだよ」
「――ありがとう」
「……礼を言われる心当たりがねえな」
少年は、ふん、と鼻を鳴らす。素直でない態度にまた笑いを誘われたヒワは、慌てて横を向く。その拍子にアルマジロと目が合って、結局笑い合った。
少し場の空気が緩んだところで、エルメルアリアが渓谷を見下ろす。
「しかし、さっきの奴はだいぶ我を忘れてたな……。魔力も濃いし、〈穴〉が近いのか?」
「あ。それなら」
ヒワは思わず挙手する。精霊人の視線を受けると、ひるんで肩を震わせた。
「あ。あの、確実な手掛かりとかでは、ないんだけど」
「いいよ。教えてくれ」
「う、うん」
うながされて、ヒワは口をこじ開ける。
「さっきの山羊さんに遭う前にね。なんか嫌な感じがしたんだ。今、落ち着いて考えたら――商店街を魔物が襲ったときと、ちょっと似た感じだったと思う」
「ほう」
エルメルアリアが眉を上げる。そのとき、アルマジロも丸くなった。
『確かに、このあたりにはおぞい魔力が満ち満ちとーますね』
「……今のヒワが感じ取れるってのは、相当だな。やっぱ目的地は近そうだ。問題は、魔力の出所だけど」
難しい顔で周囲を見渡したエルメルアリアは、最後に地面の巨大な『裂け目』をにらむ。ヒワも、恐る恐るうなずいた。
「なんとなく、谷の方から感じる気はするんだよね」
「となると、結局谷を下りなきゃいけねえってことか」
エルメルアリアが天を仰いでため息をついた。色白の顔にしわを刻んでいた彼は、少しして両手で頬を叩く。
「しかたねえ、行くか」
「うん」
「ヒワは大丈夫か? さっき落っこちかけた場所だけど」
さらりと尋ねられて、ヒワはひととき固まる。しかし、すぐに右の拳で胸を叩いた。
「普通に下りるなら大丈夫だと思う。……きみも手伝ってくれるんだよね」
「もちろん。任せとけ」
エルメルアリアが胸を張る。その得意げな表情に釣られて、ヒワも不敵にほほ笑んだ。
小さな精霊人の指揮術を使って、慎重に谷底へと下りていく。視界は徐々に狭まり黒くなる。ヒワは風に運ばれながら息を詰めたが、精霊人の少年が懸念したような恐怖は湧き上がってこなかった。
ヒワが谷底に足を着けると、エルメルアリアと二人で無事を確認し合う。それが済めば、あえて『気持ち悪い空気』を辿って歩き出した。
谷底は上の岩場と違って平坦だ。ただ、大小の石があちこちに転がっている。ヒワはそのひとつに足を取られてよろめいたが、なんとか体勢を立て直した。胸をなでおろしていたとき、横から声が飛ぶ。
『まくれんやーに気ぃつけてくださいね』
「あ、すみません。……って、え?」
何気なく答えたヒワは、ぎょっとして視線をずらす。左足のそばで、アルマジロがせかせかと歩いていた。
前を飛んでいたエルメルアリアが、あきれ顔で振り返る。
「あんた、なんでいるんだ」
『もちろん、お二人についてくためです。わしも、その〈穴〉とかいうのが気になってきましたし』
「あのなあ。遠足じゃねえんだぞ?」
少年は棘のある口調で続けたが、憑依精霊も退かなかった。
『心配ご無用です。身を守る方法は心得とりますけん。さっきは地元の者が相手だったんで、油断しましたけども』
得意げなアルマジロに、エルメルアリアが湿っぽい視線を向ける。その、にらみ合いと言うには気の抜けた戦いは、長く続かなかった。ヒワがおろおろと両者を見比べている間に、エルメルアリアがふいと顔を逸らす。
「これどうするよ、契約者殿?」
いきなり意見を求められたヒワは、荷物を意味もなく担ぎ直しながら答えた。
「えっと、まあ……危ないことにならなければいいかなと……。一緒に来てくれる人がいるのは、心強いし。あ、いや、人じゃないけど」
「それもそうか」と呟いて宙返りしたエルメルアリアは、アルマジロをじっと見下ろす。
「契約者のお許しも出たことだし、好きにするといい。ただし、仕事の邪魔したら承知しねえぞ」
『ええ、はい。ありがとうございます』
アルマジロは、嬉しそうにヒワの足もとについた。ヒワは曖昧に笑って歩みを再開する。そのときになって契約の本質を思い出した。エルメルアリアは今、『精霊指揮士の支配下に入っている』のだ。つまり、ヒワは名目上、彼の主人なのである。逐一意見や許可を求めるのは自然なことだ。――これまでがやや強引だっただけで。
「とはいえ、落ち着かないなあ……」
ヒワは頬をかいて呟く。幸い、それはエルメルアリアの耳に届かなかったようだ。前を飛ぶ少年の背中は、少しも揺らがなかった。
しかたなく彼を追いかけていたヒワは、ほどなくして違和感を覚えた。すぐそばを歩いていた動物の足音が聞こえなくなったのだ。足もとを見下ろしてみたが、あるのは変わらぬ地面と大小の岩だけである。
「あれ、精霊さん?」
「――ヒワ」
首をひねったヒワを、刃のような声が呼んだ。顔を上げると、滞空しているエルメルアリアの姿が目に入る。彼は、顔をやや上向けていた。
ヒワが問い返そうとしたとき、また別の音が響いた。太鼓にも似た低い音。それは徐々に近づいてくる。最悪の可能性を思い浮かべたヒワに、エルメルアリアが再び声をかけた。
「さすがに手を抜いてられねえ。そこで転がってる奴を抱えて、走れ」
「えっ。転がってる奴って――」
『わしです』
言葉の意味をはかりかねたヒワの足もとで、返答があった。彼女は思わずとびのいて、地面をにらむ。そうしているうちに、岩の中でもっとも小さなものが動いた。それで、ヒワも大体を察する。
「えーっと。もしかしてこれ、精霊さんですか」
『はい。このまま抱えてってください』
間違いなく、丸いものの下から声がする。迷っている暇はない。ヒワは意を決し、それを持ち上げた。予想外の重さがずしりと腕にのしかかる。下ろしてしまいたいのを堪えて、駆け出した。
音が一気に迫ってきたのは、そのときである。渓谷の左右から、馬に似た姿の魔物の大群が押し寄せてきた。いななきにはやはり、金属音のような音が混じっている。
ヒワは青ざめた。
「無理! 無理でしょこれ! 逃げきれないよ!」
「逃げ切るんだよ! 踏みつぶされて食い散らかされたくなければな!」
エルメルアリアの反論と、風の音が重なる。後退しながら指揮術で迎え撃っているのだ。「だから怖いこと言わないでよ!」と叫び返しつつも、ヒワは背後をうかがう。さすがに精霊人の安否が気がかりだった。
幸い、エルメルアリアは涼しい顔で魔物の群れを薙ぎ払っていた。渓谷は風通しがいいのか、次々と馬もどきが吹き飛ばされていく。さらに谷底の岩が刃物のように形を変えて、馬たちの股や上腕に突き刺さっていた。さらに谷の上から球状の岩が転がり落ちてきて、黒い軍勢を押し潰す。
ヒワは、いななきか絶叫かわからない声から必死に逃げた。耳をふさぎたいのを我慢して、アルマジロを抱く腕に力を込める。それが伝わったのか、丸い体がわずかに動いた。
『ヒワ様! なんかあーましたら、容赦なくわしを盾にしてくださいね!』
「え、ええ!? できませんよ、そんな……」
『せわあーません。頑丈さなら、魔物にも負けませんけん。いやあ、丸まれー子でよかったですわ』
アルマジロに強がっている様子はない。それどころか、どこか誇らしげだ。
「……わかりました。そんなことがないのが、一番ですけどね」
ヒワはうなずきつつもそう言った。
幸い、本当にそんな事態は訪れなかった。エルメルアリアの働きによって、馬の魔物たちは残らず伸されたのである。しかし、それで終わりではない。谷底を進む道中、絶え間なく魔物の群れが襲いかかってきた。そのたびにエルメルアリアが彼らを叩きのめして送還する。ヒワたちは逃げに徹した。
そんなことを繰り返して、一時間が経った頃。ようやくあたりが静まり返った。必死に息を整えているヒワのそばで、エルメルアリアが高度を下げる。さすがに疲れたらしく、大きなため息をついていた。
アルマジロを下ろしたヒワは、重い頭をなんとか持ち上げる。体がだるいのは、疲労だけのせいではない。あたりの空気がよどんでいるのだ。そうと気づいた途端に吐き気を催し、反射的に口を押さえた。
その足もとで、アルマジロが背中を丸めて震え出す。
『さ、さすがにしわいですよ。エルメルアリア様』
「だろうな。目的地はすぐそこだ」
『へ?』
「見ろ」
エルメルアリアは、谷をつくる岩壁を指さす。よく見ると、壁の途中にややくぼんだところがあった。
精霊人は、くぼみに向かってすいっと飛び出す。ヒワたちも、息をのみつつ後を追った。恐る恐るくぼみをのぞきこんだヒワは、つい「うわっ」と声を出す。
くぼみの先には、不自然な穴があいていた。しかも、岩壁に直接穴が穿たれているわけではない。空間が裂けている。そうとしか表しようがなかった。
裂け目の先では、濃い闇と原色の光が水のように流れ、うねっている。遠目に見ているだけでも目が痛くなりそうだ。だというのに、ヒワはそれから目が離せない。震える両手で、ズボンを握りしめた。
「これが――世界の境目に開いた、穴」
アルマジロさんの言葉注
あのさん:あなた
助けてごさいた:助けてくれた(くださった)
おぞい:怖い、恐ろしい
まくれんやーに:転ばないように まくれる:転ぶ
容赦なく:遠慮なく
しわい:しんどい、辛い