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春風のサーガ【第一部】  作者: 蒼井七海
第一章 春と風のプロローグ
11/67

11 伝えるべきこと

 遠く、風の音が獣の咆哮のように響く。暗い視界の中で、ぱらぱらと乾いた音を立てて砂礫の塊が落ちてきた。


 ヒワは細く息を吐く。それだけのつもりが、低いうめき声も一緒に漏れた。腕の筋肉がひきつって、小刻みに震えている。


 モルテ・テステ渓谷の半ば。岩壁の突起に反射で手をかけたおかげで、ヒワはなんとか命拾いした。しかし、いつまで持つかはわからない。岩をつかむ手はすでに限界を迎えているし、谷の上にはまだ嫌な気配が漂っている。


「なんとか、上がって……いや、無理だけど……絶対、無理だけど……できる、ところまで」


 ぶつぶつ言いながら、ヒワは腕を曲げようと試みる。しかし、疲労して痺れている腕は言うことを聞いてくれない。それでも力を振り絞って、両手を突起にかけていると、体が少し持ち上がった。


「やった! これ、で」


 ヒワは、ほっと顔をほころばせる。しかし、さらによじ登ろうとしたところでその表情が凍りついた。


 黒い影が覆いかぶさる。不気味にふたつの光が揺らめいている。山羊の魔物が、彼女の方をのぞきこんでいた。


 彼はぐうっと頭を持ち上げると、この一帯に響くほどの大声で吠える。その声が尾を引いて消える頃、谷を駆け降りてきた。


「げっ!?」


 ヒワは濁った声を漏らす。その間にも、山羊と彼女の距離が縮まった。圧迫感と、うなり声と、鼻息とがすぐそばに迫って、ヒワは声も出ないほどにすくんだ。


 どうにかして逃げなければ。しかし逃げ場はない。二つの考えを行き来している間に――ずるりと指が滑った。


「あ」


 ごつごつした岩の感触がなくなる。体が再び宙に浮く。山羊が大きな口を開いた。


 今度こそ死ぬのだと覚悟して、ヒワはぎゅっと目を閉じた。せめて痛くないといいな、とも思ったが、この状況でそれは無理な願いだろう。少しでも苦しみを軽減しようと身構えたとき――今までと違う、爽やかな風が頬を撫でた。


「ヒワぁっ! 背中丸めろ!」


 夏の嵐のような声が、渓谷に流れ込んでくる。迫りくる終わりに意識をからめとられていたヒワは、考える前に大きく息を吸っていた。言葉に従い背中を丸めると、不自然に吹いた風が下から彼女を包み込む。浮かされる格好となったヒワの体はくるりと回り、空中で立ち上がるような姿勢になった。視界がまともに開けるやいなや、ヒワは谷の上を振り仰ぐ。


「エ――エルメルアリア?」

「無事か? 無事だな、よし」


 燕のように突っ込んできた小さな少年が、少女のまわりを無遠慮に飛び回る。傷がないことをひと通り確かめると、彼女の真正面で止まった。そのとき、送風機のような低音と聞き慣れない声とが同時に飛び込んでくる。


『エルメルアリア様! 後ろ、後ろー!』

「騒ぐな聞こえるわかってる!」


 エルメルアリアは後ろを見もせず手を振った。浮き上がって固まった砂礫が、次々と魔物の体を打つ。谷を滑り降りていた山羊は、その衝撃で体勢を崩した。不自然に肥大化した蹄――いや、爪が岩を引っかき、山羊は谷底へ転がり落ちていった。


「おっと、そうはさせるかよ」


 にやっと笑ったエルメルアリアが、山羊の方へと手をかざす。


「〈銀星の塔〉の名のもとに、権限を行使する。門よ開け、魔の者どもを彼方あなたへ還したまえ!」


 空気を切り裂くような言葉が渓谷じゅうに響き渡る。山羊の真下に白く輝く門が現れ、童話に出てくる怪物よりも静かに彼をのみこんだ。


 音もなく開いた門が、これまた音もなく閉まる。すべての音が消え去った渓谷を見下ろして、少年が小さく息を吐いた。ヒワは、その背中をじっと見つめる。色々と言わなければならないことはあるはずだが、言葉が上手くまとまらなかった。


 ヒワがもごもごと口を動かしていると、その体が本人の意志に関係なく浮き上がり、横に滑る。


「えっ、うぇえ!?」


 ヒワがうろたえて手足をばたつかせている間に、その体は渓谷の縁に運ばれていった。岩場の上に尻餅をついた彼女は、きょろきょろとあたりを見回す。すぐそばで鱗にも岩にも似たかたまりが動いていることには、気づいていなかった。


『あのさんがエルメルアリア様の契約者さん? 無事ですかいね?』

「――へ!? え、誰です!?」


 文字通り飛び上がったヒワは、ちぎれそうな勢いで頭を左右に振る。『ここです、ここ』と響いた声に導かれ、自らの足もとを見下ろした。


 アルマジロが片方の前足を上げている。つぶらな瞳としばし見つめ合ったヒワは、恐る恐るかがんだ。


「えーと。どちら様でしょう……?」

『あ、失敬。わしゃあこの渓谷にすむ地の精霊です。この獣のお身体を借りとる身ですけん、魔物じゃありません』


 ご安心を、と頭を反らしたアルマジロを見て、ヒワは首をかしげる。


『先ほど、魔鳥に襲われとったわしを、エルメルアリア様が助けてごさいたんです』


 アルマジロが誇らしげに告げたとき、空中に緑色の紗幕が舞った。話題にのぼっていた人物が帰ってきたのだ。ヒワは顔を引きつらせる。


「エルメルアリア――」


 答えはない。しかし、悪意をもって無視しているわけではない。うろうろと泳ぐ緑の瞳がそれを証明していた。ヒワもさんざん迷って服の袖をいじった末に、ようやく彼を見上げた。


「あの、ありがとう。……ごめん」

「……ん。怪我がないなら、別にいい」

「……うん」


 なんとか言葉を交わしたものの、ぎこちない。沈黙する二人を、アルマジロが不思議そうに見比べる。ヒワは、その動きを漫然と見ていたが、上から響いた「あのさ」という声を聞いて顔を上げた。


「さっきは、その……言いすぎた。悪かった、よ」

「え」


 やや目を逸らしつつも謝罪を口にした少年。彼を見上げたヒワは、ぽかんと口を開けた。


「あと……ありがと」


 空気に溶けるほどの声で紡がれた感謝の言葉に、ヒワはいよいよ硬直した。うろうろしているアルマジロのことは、もはや眼中にない。


「えっと……ど、どうしたの、急に?」

「どうもこうも。助けようとしてくれたのは、事実、だからな」


 エルメルアリアは、頭をかいてそんなふうに言う。その目が一瞬アルマジロの方を見て、見られた側も驚いたように頭を動かしていた。


 ヒワもそれを目撃していたが、彼らのやり取りの意味まではわからない。ただ、こみ上げてきた温かい気持ちを抱きしめて、ほほ笑んだ。


 エルメルアリアが形のよい眉をひそめる。


「……言っとくけど! 指揮術も使えない奴が戦場に飛び出したのは許してないからな! 今後、自分の身を守れるようになるまでは、勝手なことするなよ!」


 指をさされたヒワは、何度もまばたきした。それから小さく吹き出す。


「うん。わかった。今回はごめんなさい」

「わかればいいんだよ」

「――ありがとう」

「……礼を言われる心当たりがねえな」


 少年は、ふん、と鼻を鳴らす。素直でない態度にまた笑いを誘われたヒワは、慌てて横を向く。その拍子にアルマジロと目が合って、結局笑い合った。


 少し場の空気が緩んだところで、エルメルアリアが渓谷を見下ろす。


「しかし、さっきの奴はだいぶ我を忘れてたな……。魔力も濃いし、〈穴〉が近いのか?」

「あ。それなら」


 ヒワは思わず挙手する。精霊人の視線を受けると、ひるんで肩を震わせた。


「あ。あの、確実な手掛かりとかでは、ないんだけど」

「いいよ。教えてくれ」

「う、うん」


 うながされて、ヒワは口をこじ開ける。


「さっきの山羊さんに遭う前にね。なんか嫌な感じがしたんだ。今、落ち着いて考えたら――商店街を魔物が襲ったときと、ちょっと似た感じだったと思う」

「ほう」


 エルメルアリアが眉を上げる。そのとき、アルマジロも丸くなった。


『確かに、このあたりにはおぞい魔力が満ち満ちとーますね』

「……今のヒワが感じ取れるってのは、相当だな。やっぱ目的地は近そうだ。問題は、魔力の出所だけど」


 難しい顔で周囲を見渡したエルメルアリアは、最後に地面の巨大な『裂け目』をにらむ。ヒワも、恐る恐るうなずいた。


「なんとなく、谷の方から感じる気はするんだよね」

「となると、結局谷を下りなきゃいけねえってことか」


 エルメルアリアが天を仰いでため息をついた。色白の顔にしわを刻んでいた彼は、少しして両手で頬を叩く。


「しかたねえ、行くか」

「うん」

「ヒワは大丈夫か? さっき落っこちかけた場所だけど」


 さらりと尋ねられて、ヒワはひととき固まる。しかし、すぐに右の拳で胸を叩いた。


「普通に下りるなら大丈夫だと思う。……きみも手伝ってくれるんだよね」

「もちろん。任せとけ」


 エルメルアリアが胸を張る。その得意げな表情に釣られて、ヒワも不敵にほほ笑んだ。


 小さな精霊人の指揮術を使って、慎重に谷底へと下りていく。視界は徐々に狭まり黒くなる。ヒワは風に運ばれながら息を詰めたが、精霊人の少年が懸念したような恐怖は湧き上がってこなかった。


 ヒワが谷底に足を着けると、エルメルアリアと二人で無事を確認し合う。それが済めば、あえて『気持ち悪い空気』を辿って歩き出した。


 谷底は上の岩場と違って平坦だ。ただ、大小の石があちこちに転がっている。ヒワはそのひとつに足を取られてよろめいたが、なんとか体勢を立て直した。胸をなでおろしていたとき、横から声が飛ぶ。


『まくれんやーに気ぃつけてくださいね』

「あ、すみません。……って、え?」


 何気なく答えたヒワは、ぎょっとして視線をずらす。左足のそばで、アルマジロがせかせかと歩いていた。


 前を飛んでいたエルメルアリアが、あきれ顔で振り返る。


「あんた、なんでいるんだ」

『もちろん、お二人についてくためです。わしも、その〈穴〉とかいうのが気になってきましたし』

「あのなあ。遠足じゃねえんだぞ?」


 少年は棘のある口調で続けたが、憑依精霊も退かなかった。


『心配ご無用です。身を守る方法は心得とりますけん。さっきは地元のモンが相手だったんで、油断しましたけども』


 得意げなアルマジロに、エルメルアリアが湿っぽい視線を向ける。その、にらみ合いと言うには気の抜けた戦いは、長く続かなかった。ヒワがおろおろと両者を見比べている間に、エルメルアリアがふいと顔を逸らす。


「これどうするよ、契約者殿?」


 いきなり意見を求められたヒワは、荷物を意味もなく担ぎ直しながら答えた。


「えっと、まあ……危ないことにならなければいいかなと……。一緒に来てくれる人がいるのは、心強いし。あ、いや、人じゃないけど」


「それもそうか」と呟いて宙返りしたエルメルアリアは、アルマジロをじっと見下ろす。


「契約者のお許しも出たことだし、好きにするといい。ただし、仕事の邪魔したら承知しねえぞ」

『ええ、はい。ありがとうございます』


 アルマジロは、嬉しそうにヒワの足もとについた。ヒワは曖昧に笑って歩みを再開する。そのときになって契約の本質を思い出した。エルメルアリアは今、『精霊指揮士(コンダクター)の支配下に入っている』のだ。つまり、ヒワは名目上、彼の主人なのである。逐一意見や許可を求めるのは自然なことだ。――これまでがやや強引だっただけで。


「とはいえ、落ち着かないなあ……」


 ヒワは頬をかいて呟く。幸い、それはエルメルアリアの耳に届かなかったようだ。前を飛ぶ少年の背中は、少しも揺らがなかった。



 しかたなく彼を追いかけていたヒワは、ほどなくして違和感を覚えた。すぐそばを歩いていた動物の足音が聞こえなくなったのだ。足もとを見下ろしてみたが、あるのは変わらぬ地面と大小の岩だけである。


「あれ、精霊さん?」

「――ヒワ」


 首をひねったヒワを、刃のような声が呼んだ。顔を上げると、滞空しているエルメルアリアの姿が目に入る。彼は、顔をやや上向けていた。


 ヒワが問い返そうとしたとき、また別の音が響いた。太鼓にも似た低い音。それは徐々に近づいてくる。最悪の可能性を思い浮かべたヒワに、エルメルアリアが再び声をかけた。


「さすがに手を抜いてられねえ。そこで転がってる奴を抱えて、走れ」

「えっ。転がってる奴って――」

『わしです』


 言葉の意味をはかりかねたヒワの足もとで、返答があった。彼女は思わずとびのいて、地面をにらむ。そうしているうちに、岩の中でもっとも小さなものが動いた。それで、ヒワも大体を察する。


「えーっと。もしかしてこれ、精霊さんですか」

『はい。このまま抱えてってください』


 間違いなく、丸いものの下から声がする。迷っている暇はない。ヒワは意を決し、それを持ち上げた。予想外の重さがずしりと腕にのしかかる。下ろしてしまいたいのを堪えて、駆け出した。


 音が一気に迫ってきたのは、そのときである。渓谷の左右から、馬に似た姿の魔物の大群が押し寄せてきた。いななきにはやはり、金属音のような音が混じっている。


 ヒワは青ざめた。


「無理! 無理でしょこれ! 逃げきれないよ!」

「逃げ切るんだよ! 踏みつぶされて食い散らかされたくなければな!」


 エルメルアリアの反論と、風の音が重なる。後退しながら指揮術で迎え撃っているのだ。「だから怖いこと言わないでよ!」と叫び返しつつも、ヒワは背後をうかがう。さすがに精霊人(スピリヤ)の安否が気がかりだった。


 幸い、エルメルアリアは涼しい顔で魔物の群れを薙ぎ払っていた。渓谷は風通しがいいのか、次々と馬もどきが吹き飛ばされていく。さらに谷底の岩が刃物のように形を変えて、馬たちの股や上腕に突き刺さっていた。さらに谷の上から球状の岩が転がり落ちてきて、黒い軍勢を押し潰す。


 ヒワは、いななきか絶叫かわからない声から必死に逃げた。耳をふさぎたいのを我慢して、アルマジロを抱く腕に力を込める。それが伝わったのか、丸い体がわずかに動いた。


『ヒワ様! なんかあーましたら、容赦なくわしを盾にしてくださいね!』

「え、ええ!? できませんよ、そんな……」

『せわあーません。頑丈さなら、魔物にも負けませんけん。いやあ、丸まれー子でよかったですわ』


 アルマジロに強がっている様子はない。それどころか、どこか誇らしげだ。


「……わかりました。そんなことがないのが、一番ですけどね」


 ヒワはうなずきつつもそう言った。


 幸い、本当にそんな事態は訪れなかった。エルメルアリアの働きによって、馬の魔物たちは残らず伸されたのである。しかし、それで終わりではない。谷底を進む道中、絶え間なく魔物の群れが襲いかかってきた。そのたびにエルメルアリアが彼らを叩きのめして送還する。ヒワたちは逃げに徹した。


 そんなことを繰り返して、一時間が経った頃。ようやくあたりが静まり返った。必死に息を整えているヒワのそばで、エルメルアリアが高度を下げる。さすがに疲れたらしく、大きなため息をついていた。


 アルマジロを下ろしたヒワは、重い頭をなんとか持ち上げる。体がだるいのは、疲労だけのせいではない。あたりの空気がよどんでいるのだ。そうと気づいた途端に吐き気を催し、反射的に口を押さえた。


 その足もとで、アルマジロが背中を丸めて震え出す。


『さ、さすがにしわいですよ。エルメルアリア様』

「だろうな。目的地はすぐそこだ」

『へ?』

「見ろ」


 エルメルアリアは、谷をつくる岩壁を指さす。よく見ると、壁の途中にややくぼんだところがあった。


 精霊人は、くぼみに向かってすいっと飛び出す。ヒワたちも、息をのみつつ後を追った。恐る恐るくぼみをのぞきこんだヒワは、つい「うわっ」と声を出す。


 くぼみの先には、不自然な穴があいていた。しかも、岩壁に直接穴が穿たれているわけではない。空間が()()()()()。そうとしか表しようがなかった。


 裂け目の先では、濃い闇と原色の光が水のように流れ、うねっている。遠目に見ているだけでも目が痛くなりそうだ。だというのに、ヒワはそれから目が離せない。震える両手で、ズボンを握りしめた。


「これが――世界の境目に開いた、穴」

アルマジロさんの言葉注

あのさん:あなた

助けてごさいた:助けてくれた(くださった)

おぞい:怖い、恐ろしい

まくれんやーに:転ばないように まくれる:転ぶ

容赦なく:遠慮なく

しわい:しんどい、辛い

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― 新着の感想 ―
アルマジロさんの方言はちゃんと知らないのですが、文脈とか流れからだいたいの意味が想像できるようになってて自然と読めちゃうマジック! ヒワさんは自分が戦闘要員ではないことを役にたてないと気にしていたけ…
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