94 別れの前
翌朝。ヒワとエルメルアリアは、ネーベルによくよくお礼を言って、家を辞した。
「レナさんとコノメさんによろしくお伝えください。道中、お気をつけて」
ネーベルは、笑顔でふたりを送り出してくれる。ヒワの隣に居続けた『正体不明の少年』については、最後まで詮索しなかった。
ネーベル宅のすぐ近くで、ノクスたちと合流する。朝ぼらけの町を歩きながら、昨日のことを整理した。ヒワに抱かれたエルメルアリアが腕を組む。
「今回、観測結果が曖昧だったのは、〈精霊の輪の会〉の連中が古臭い結界で〈穴〉を隠していたから。連中があそこで〈穴〉を広げる儀式をしていたのは、誰かに何かを吹き込まれたから……ってことか?」
「おそらく。そしてその『誰か』は、ケイユ山麓の岩場におった奴であろう」
ゼンドラングが、珍しく渋い顔をした。
ヒワは息をのむ。半歩前で、コーエンがわずかに眉を上げたが、深く尋ねてはこなかった。
他方、ノクスは顔をしかめて相棒を見上げる。
「まじかよ?」
「まじだ。白いローブの連中の命を刈り取った、あの闇。間違いなく奴の魔力であった」
己の鼻を指さしながら、ゼンドラングが断言する。
「せめて顔だけでも拝んでおきたかったな」
エルメルアリアが口惜しそうに呟いて、細い指を顎にかける。
「それと、もうひとつ気になるのが――〈穴〉から出てきた魔物」
「うむ。様々な世界の魔物が混じっておった」
精霊人たちのやり取りを聞いて、人間たちはまばたきした。
「あり得るのか、んなこと?」
「わからん!」
ゼンドラングが自信満々に答える。やや身を乗り出していたノクスが、つんのめった。「おまえなあ!」と怒鳴る契約者を、大男はいつも通りにあしらう。その目は同胞を見ていた。
エルメルアリアは、ため息をひとつつく。
「そうだな。例えば〈穴〉の内部、世界の境目で『他世界へ繋がる道』のようなものがいくつも合流していれば、いろんな世界の魔物が出てきてもおかしくない。あとは……誰かが各世界から魔物をかき集めてきて、まとめて〈穴〉に放り込んだとか」
さすがにこれは滅茶苦茶か、とエルメルアリアは肩をすくめる。だが、誰も彼の推測を笑わなかった。今回の件には、確かに人の思惑が絡んでいたのだ。〈穴〉を巡って人間や精霊人が暗躍しているとしても、もはや驚かない。
「なんにせよ、オレたちがヒューゲルでできることは、もうない。〈精霊の輪の会〉の捜査は、人間の仕事だしな」
エルメルアリアの言葉に、ゼンドラングがしかつめらしくうなずく。それから彼は、思い立ったように契約者を見た。
「そういえば、ノクス。フォンゼルの坊主には連絡したのか」
「した。警察に上手いこと話を持っていって、捜査に乗り出すってよ」
「うむ、そうか」
ゼンドラングは当然のように相槌を打つ。一方、ヒワは顔を曇らせた。
「そう簡単にいくものなんでしょうか」
「あやつなら心配いらん。本当に上手いことやるであろう」
ゼンドラングが白い歯を見せる。ヒワの心配を吹き飛ばすように。少し顔をほころばせた彼女の腕の中で、エルメルアリアが目をすがめた。
「マッテオといい、フォンゼルといい……支部長になる奴って、なんでああなんだろうな」
そのぼやきはきっと、ヒワの耳にしか届いていない。ヒワは町並みに視線を投げつつ、顔も知らないフォンゼル・ゾンネンシュトックに思いを馳せた。
その後、一行は精霊人の力を借りてラヴェンデルに戻った。そこで解散する予定だったのだが、ノクスが思いがけないことを言い出す。
「てめえらがきちんと出国するまでついていく」
これには、ヒワたちのみならず、ゼンドラングも目を丸くした。短い沈黙の後、彼がやや身をかがめる。
「珍しいな。おぬしがそのようなことを言い出すとは」
ノクスは、けっ、と言ってヒワたちの方をにらんだ。
「こいつらが危なっかしいからだよ。飛び立つ前に騒ぎに巻き込まれたら、尻ぬぐいすんのは俺らなんだ」
だったら最初から見張っておいた方がいい、というわけである。
エルメルアリアは露骨に嫌そうな顔をした。一方で、ヒワは肩から力が抜けるのを感じていた。相変わらず不機嫌そうな先輩に、そっと頭を下げる。
「ありがとう、ございます?」
ノクスは小さく顎を動かした。
話がまとまったところで、コーエンが帽子を取って一礼する。
「では、私のお仕事はここまでですね。ありがとうございました」
ヒワも、背筋を伸ばして頭を下げる。
「こちらこそ、本当にお世話になりました」
「いえいえ。ここまで刺激的な旅は久しぶりでしたが……楽しかったですよ」
コーエンは輝かんばかりの笑顔で言う。ヒワの微笑は引きつった。――皮肉ではなく本心だろうと、わかってはいるけれど。
それから、コーエンは右手を差し出してくる。ヒワはすぐに応じた。
全員と握手を交わした後、案内人は彼らに少し顔を近づける。
「貴重な経験をさせていただきました。精霊人の皆様とヒューゲルを飛び回った、だなんて、一生の自慢になりそうです」
無邪気な子供のようなささやき。それを聞いて、四人全員が目をみはった。
「もちろん、誰にも自慢しませんがね」
コーエン自身はけろりと言って、片目をつぶる。
ヒワは思わず前のめりになった。
「き……気づいてらっしゃったんですか?」
「自由自在に空を飛ぶ人や、町を出入りするたびに大きさが変わる人なんて、人間にはいないでしょう?」
案内人は爽やかに笑う。唖然としている契約者たちのそばで、「確かにな」と精霊人たちが声を揃えた。
「気づいてたんなら言ってくれよ。余計な気遣いせずに済んだのに」
エルメルアリアが唇を尖らせる。コーエンは「申し訳ありません」と帽子をかぶり直した。つばの下で、灰色の瞳がきらめく。
「確信が持てなかったのですよ。――私、指揮術はからっきしですので」
そうして、案内人は一行に背を向ける。「それでは、お元気で」と手を振り、颯爽と去っていった。
ヒワたちは呆然と見送る。手を振り返してはいたが、心はふわふわしていた。コーエン・シュミットの姿が雑踏に消えると、顔を見合わせる。
「……どこまで本当なんだ、あれ?」
「さあ……」
ノクスはしかめっ面だ。ヒワは、首をかしげるしかなかった。




