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春風のサーガ  作者: 蒼井七海
第六章 表と裏のフォーリン・トリップ
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93 たとえ弱くても(1)

 キーファ近郊、木立のすぐ外。淡い青空に、泥のような闇をまとった人物が浮いている。黒髪を風になびかせた彼は、腕組みをして木立を見下ろしていた。


 彼が見ているのは、木々などではない。その奥にある建物だ。精霊姫を祀る社殿。いつの間にか忘れられた場所。自らが送り込んだ瘴気と魔力の塊、そしてそれから逃げる人々をながめている。


 ふうん、と呟いて。漆黒の瞳がきらりと光る。


「あのおチビちゃん、生きてたのか。ま、精霊が見殺しにするわけもない」


 その瞳が映すのは、魔動車のかたわらを飛ぶ小さな精霊人(スピリヤ)である。華奢な肢体を観察した彼は、子供のように唇を尖らせた。


「ずいぶんと自我が強くなっちゃって、まあ。そんなだから僕に逃げられるんだぞ?」


 しかも、何を思ったのか知らないが、貴重な星の魂を――〈銀星の(あるじ)〉になりうる器の輝きを、硬い殻で覆っている。自我の芽生えによって、ただでさえ見えにくくなっているというのに。


 もったいないと、多くの同胞は思うのだろう。彼としては面白ければなんでもよいのだが。


 瞳が動く。人間などよりよほど遠くを見通せる目は、魔動車の中にいる者もしっかりと捕捉していた。彼の興味を引いたのは、後部座席に座る二人である。


「てかあいつ、いつぞやの面倒そうな奴じゃん。おチビちゃんたちとも手ぇ組んでたんだ。思ったより厄介な状況だな、うん」


 言葉とは裏腹に、声は弾んでいる。彼は舌なめずりして、目を細めた。


「あー。ちょっかいかけてえ。ぐっちゃぐちゃにしてーえ。でも今は、あの無能共の死体をどうするか、ミレイに相談しないとなあ」


 彼は、心底惜しそうに木立に背を向ける。飛び立つ直前、指を鳴らした。


「じゃ、あとは適当にやっといてよ。僕の魔物たち」



     ※



 泥人形をはじめとする地下魔界の魔物たちは、その後もしつこく追ってきた。精霊人(スピリヤ)たちが都度撃退したのと、コーエン決死の運転によりなんとか追跡を振り切り、キーファの城壁が見えるあたりまでやってくる。低木の陰になっているところに、魔動車がゆっくりと停車した。


「……もう来ませんかね?」


 コーエンが恐る恐る外をうかがう。身をかがめたゼンドラングが、うなずいた。


「心配いらん。嫌な臭いはかなり遠ざかった」

「そうですか。それはよかった」


 コーエンが胸をなでおろす。魔動機関エンジンを切って、後部座席を振り返る。


「荒い運転になって申し訳ありません。お加減、問題ありませんか、お二人とも?」

「……問題しかねえ……」


 座席の端にしがみついていたノクスが、息も絶え絶えに答える。ヒワに至っては、荷物を抱えてうなだれていた。


 それを見て、コーエンは頬をかく。


「あはは……本当すみません……」

「ま、生きたまま食われるよかましだ」


 ノクスがうっそりと答えて、尻の位置を直す。本当に気にしていないのか、単に精魂尽き果てたのか、いつものように噛みつくことはない。


 その頃になってようやく、ヒワも顔を上げる。小動物のような灰色の瞳と、視線がぶつかった。


「そうだ。行ったそばから緊急事態で、お声がけする時機を逸しておりましたが……ご無事で何よりです。ヒワ様、エラ様」


 ヒワはしきりにまばたきする。声が聞こえたのか、エルメルアリアも窓からひょっこり顔を出した。


「このたびは、こちらの注意不足で本当に申し訳なく」

「い、いえいえ! こちらこそ、ご迷惑をおかけしました!」


 深々と頭を下げた案内人に、ヒワは慌てて両手を振る。謝罪合戦をしていると、ノクスが鼻を鳴らした。


「今回はどこぞの新米のせいだろ。勝手に怪しい奴の誘いに乗るから、こうなるんだ」


 刺々しい一言は、少女の胸を容赦なくえぐった。初対面のときとは違った意味で。身を震わせたヒワは「すみません……」と蚊の鳴くような声で謝罪する。


 エルメルアリアが口を開きかけたが、その前にゼンドラングが割って入る。


「そう不機嫌になるでない、契約者殿。別の考え方もできるぞ」

「別の考え方?」

「ヒワたちが体を張ってくれたから、早く〈穴〉のもとへ辿り着けた!」


 どうだ、と彼は白い歯を見せる。ノクスは目を丸くした後、苦すぎる珈琲でも飲んだかのような顔をした。


 コーエンが苦笑する。それから「お怪我はありませんか?」と尋ねた。ヒワは小さく、はい、と答える。エルメルアリアは、


「この通り、ぴんぴんしてる」


 と胸を叩いた。


 どこか得意げな精霊人を見て、コーエンがいつものように目を細める。運転席と助手席の間に落ちた帽子を拾って、頭に乗せた。


「それならよかった。では、ひとまずキーファに向かいましょう」


 再び車を走らせる。小川を見ながら進み、なだらかな丘の上にある城壁の方へ。小さな門をくぐってすぐ、魔動車用の駐車場に車を停めた。精霊人たちの制限をかけ直して、車から降りる。ここからは徒歩だ。


 キーファは小さな町である。家の数より木々の数の方が多そうだ。緑の狭間からかぼちゃ色の屋根がのぞく様は、さながら童話の世界だった。


「のどかだぁ……」


 ヒワは呟く。ここに魔物を連れ込まなくてよかった、と心の底から思った。


 彼女の前を行くコーエンが、案内人の笑顔で振り返った。


「ではでは、今夜のお宿を探しましょう。……と、言いたいところですが、キーファにはいわゆる宿がないのですよねえ」


 え、とヒワは顔をこわばらせる。その隣でノクスが、見ればわかるだろうと言わんばかりに鼻を鳴らした。コーエンはそのどちらをも見ていながら、どちらにも気づいていないような態度で腕を組む。


「泊めていただける方の当てはあるのですが……この大所帯となると、さすがに厳しいと思われます」


 ゼンドラングが大きな頭を傾ける。


「では、おぬしと契約者たちだけそこに泊めてもらうというのはどうだ。わしらは城壁の外で野宿でも構わんぞ」


 彼に同調するようにエルメルアリアがうなずく。コーエンはさすがにびっくりした顔で二人を見つめた。たちまち、眉間にしわが寄る。


「むむむ……いえ、それはいけません。お客様を城壁の外に追い出すなど、案内人の矜持が許しません」

「そういうものなのか?」


 ゼンドラングは不思議そうにまばたきした。


 何かあると自分たちが外に出ようとするのは、精霊人共通らしい。ヒワとノクスは、知らずあきれ顔を見合わせていた。いち早く我に返ったノクスが、ぷいっとそっぽを向く。


 声が飛んできたのは、そんなときだった。


「まさか……スノハラ先生のところのお嬢さん?」


 いきなり呼ばれたヒワは、相棒を抱きしめたまま振り返る。そばを通り過ぎようとしていた男性と目が合った。瞬間、相手の碧眼が輝く。


「やっぱり! 妹さん――ヒワさんですね。大きくなって」

「え、ええ……?」


 少なくとも、すぐには思い当たらない人物である。だが、『スノハラ先生』などという呼び名が出てきた以上、父トウマの関係者であることは明らかだ。戸惑っているヒワに、四方から視線が突き刺さる。


「知り合いか、ヒワ?」


 エルメルアリアが尋ねてくる。ヒワは困った。肯定もできないが、否定もできない。


 そうしていると、男性が「ああ」と苦笑した。


「失礼しました。さすがに覚えていらっしゃらないですよね。きちんと会ったのは、先生方がこちらに渡っていらっしゃった直後ですし」


 彼は手持ちの鞄から紙束を取り出し、そのうちの一枚を差し出す。名刺だ。


「改めまして。アルド・ネーベルと申します」


 その名乗りを聞いたヒワは、あっ、と目をみはった。幼い頃に一度だけ見た『優しそうなおじさん』の顔が男性に重なる。


「ネーベル先生! わ、すみません……!」


 ヒワは名刺を受け取りながらも縮こまる。顔から火が出そうだった。しかし、当のネーベルはまったく気にしていない。穏やかな笑みを浮かべたまま、他の三人にも挨拶する。それが済むと、さりげなく尋ねてきた。


「ところで、みなさんはどうしてキーファに? 観光ではなさそうですが……」

「あー。えっと。用事でヒューゲルに来たんですけど……ちょっと、色々あって……」


 上手い言い訳が思いつかなかった。ヒワはしかたなく言葉を濁す。一行の様子を見たネーベルは、何かを察したらしい。そうですか、と相槌を打った。そこで、コーエンが口を開く。


「成り行きでこの町に入りましてね。今夜の宿をどうするか、相談していたところです」

「ああ。宿、ありませんものねえ」


 いささか申し訳なさそうに、ネーベルが目を細めた。それから、ふむ、と顎をなでる。


「よろしければ、うちも使ってください。一人二人であればお泊めできますよ」


 思いがけない提案に、一行は顔を見合わせる。コーエンが「でしたら」と大げさに両手を合わせた。


「ヒワ様とエラ様は、ネーベル先生のところに泊めていただくのがよいでしょう」

「え、わたしたちだけですか?」

わたくしどもは、先ほどお話した『泊めていただける方』のところへうかがうということで」


 ほがらかな提案に、珍しくノクスがうなずいた。


「その方が気楽だな」

「わしはどこでも構わんぞ。この図体が迷惑にならんところならな」


 そんなことを言って、ゼンドラングが己の頭を叩く。今の彼は人間並みに縮んでいるとはいえ、それでも大柄なのだった。


 頬を引きつらせたヒワは、改めて案内人を見る。


「ほ、本当にいいんですか?」

「もちろん。どのみち、私は魔動車を返しにいかなければなりませんし」


 あの魔動車は借り物だったのか。精霊人とその契約者の顔が、呆れとも驚きともつかぬ色に染まった。

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