1 世界と彼らの分岐点
たいへん、たいへん。こわいよ。たすけて。
そんな声が、草葉の音色と朝露の輝きに乗って聞こえてくる。
ポルメ林檎のお茶を淹れていたエルメルアリアは、その声を聞いて顔を上げた。しばらく耳を澄ませた彼は、腰に手を当てて、わざとらしくため息をこぼす。それから、地面を蹴って軽やかに飛び出した。
天を衝くほどの大樹の内部。それが、エルメルアリアの家だった。その樹は、人が暮らせるほど大きな空洞を持ちながらも、何百年とこの場所にそびえたっている。戸口としている洞から外へ出た彼は、声の方を目指して、文字通り飛んでいく。
周囲には、奇妙にうねった木々がたくさん生えている。その下では草花や光るキノコも背を伸ばしていて、一見するとただの森林のようだ。しかし、ここは立派な『人里』だった。
里の中心部には、木々をそのまま利用した家もあれば、人間たちの家屋と同じ形の家もある。家から出てきた人々は、近くの木から果物を採ったり、水汲みに出かけたりと、朝から動き回っていた。
その中に混ざって動いていた一人が、ふと上を見る。見られたことに気づいたエルメルアリアは、大きく手を振った。
「よう。おはよう」
「ああ、なんだ、エルメルアリアか。おはようさん」
深緑の髪を刈りこんだ男性が、明るく笑って叫び返す。背負っている編み籠を担ぎ直しながら、さらに話を続けた。
「今日はおでかけか?」
「あーまあ。ちょっと〈青嵐山脈〉の方まで」
男性は首をかしげていたが、エルメルアリアの視線の動きで行先を察したらしい。大げさにのけぞった。
「散歩にしちゃ遠いな。今日は巡回の予定はないはずだろ?」
「そうなんだけどさ。なんか精霊たちが騒いでるっぽいから。様子見てくる」
「はあー。気づかんかったわ。さすがだな」
「ま、オレは天才ですからなー」
ふふん、とエルメルアリアは胸を張る。男性は「違いない」と豪快に笑った。
男性と別れたエルメルアリアは、里の出口に向かう。その瞬間、背後からため息が聞こえた。
今日はずいぶんあからさまだ。彼は、気づかなかったふりをして飛び出した。
※
〈青嵐山脈〉は、里の北に伸びる雄大な山脈だ。その手前には、広くて深い森がある。エルメルアリアは、その森に飛び込んだ。
木々の狭間を通り抜け、道らしきところに出た瞬間、確信した。
たいへん、たすけて――その声は間違いなく、ここから響いている。
あたりを見回していたところ、鹿や猿、穴倉ネズミなど、森の動物たちが顔を出した。彼らはエルメルアリアを見ると、一斉に同じ方向へ駆けだす。逃げ出したというよりは、彼についてきてほしいようだった。
「おお? どうしたってんだ。あんたら、普段そんなに団結しないってのに」
エルメルアリアは目を丸くする。それでも、動物たちは黙って彼の方を見ていた。つぶらな瞳に負けたエルメルアリアは、大人しく動物たちについていくことにする。彼らの目線に合わせようと、地面に足をつけた。
――その瞬間、天地が揺れた。
「おわっ!?」
突き上げるような衝撃の後、細かな縦揺れが数秒続く。
エルメルアリアは、とっさに頭を抱えてうずくまった。動物たちの錯乱したような鳴き声や足音が、あたりを包む。ちらりと顔を上げたエルメルアリアは、細長く息を吸った。
「『静まれ』!」
彼が発した一声は、奇妙に反響して響く。それを聞いた動物たちが、揃って小さな少年を振り返った。表情が徐々に落ち着いて、威嚇行動も収まっていく。その様子を見たエルメルアリアは、立ち上がって衣の裾をはたいた。
「……もう揺れなさそうだな」
地面をにらんで呟いた彼は、動物たちに向かって軽く手を振る。
「ほれ。オレをどっかに連れていきたいんだろ。案内してくれ」
ひとときの沈黙の後、動物たちは静かに駆け出した。
彼らに連れられてやってきたのは、森の半ばにある、少し開けた空間だった。
木々をかきわけ、辿り着いた瞬間、エルメルアリアは柄にもなく立ちすくんだ。
「なんだこりゃ……?」
目の前に、巨大な穴が開いている。
しかも、土を掘ってできた穴ではない。
穴の中では何かが渦巻いている。最初は水かと思ったが、どうも違うらしい。どちらかというと、光だ。光の流れが、穴の中を行き来している。赤、青、紫、緑――ひとときごとに色を変える光が複雑に混ざり合っていた。
その流れを見ていると、寒気がしてきた。あるいは、何匹もの蟲が背中を這い回るような感覚に襲われた。
動物たちも穴を警戒しているようだ。あるものは毛を逆立て、あるものは低い声で吠える。
そして――エルメルアリアが追ってきた精霊の声の大元も、ここだ。
大半の精霊は目に見えない。だが、声の大きさや明瞭さでおおよその居場所がわかる。
精霊たちの声は、今までにないほどはっきりと、エルメルアリアの耳に届いていた。
たいへん、たすけて、こわい、こわいよ。
あながあいた。
さかいめに、あながあいた。
「境目に、穴――?」
『穴』にのまれた草葉の悲鳴と一緒に聞こえてきた、精霊の声。それを繰り返したエルメルアリアは、息をのんだ。
軽く地を蹴って飛び上がる。おそるおそる、穴の上まで飛んで――慎重に下降した。
近づくと、禍々しさがよくわかる。質の悪い魔力がぴりぴりと肌を焼いた。
呼吸を整えて、穴をのぞきこむ。のみこまれないよう注意しながら、光の流れを追う。
絶えず瞬き、目を刺す光。
その狭間に見えたのは――青い空だ。
それは、彼が今いる世界の下に広がる、もうひとつの世界の空。
「……まさか」
はっとして、エルメルアリアは顔を上げる。一息で穴から離れると、木立をにらんだ。
この森には様々な動物がすんでいる。中には、強大な力を持ち、衝動に任せてあらゆる生き物を食らう『魔物』もいる。万が一、彼らがこの穴に飛びこんだら――
「まずいぞ、これ」
乾いた呟きが、暗い木立に吸い込まれていく。
しばししかめっ面で滞空していたエルメルアリアは、あるとき、弾かれたように振り返った。
しゃらしゃらしゃら。自然にない音が響く。銀色に輝く鳥が、空を旋回し、木々を突っ切って、エルメルアリアのもとに飛んできた。
「……使い鳥か」
顔をしかめたエルメルアリアの眼前に、鳥が下りてくる。その場で忙しなく羽ばたいた使い鳥は、やはり銀色のくちばしを開いた。
『選ばれし精霊人諸氏に告ぐ。大至急、〈銀星の塔〉に参られたし。大至急、〈銀星の塔〉に参られたし』
甲高く、平坦な声を聞きながら、エルメルアリアは眼下の穴を見下ろした。
エルメルアリアは、〈銀星の塔〉からの呼び出しが大嫌いだ。が、今回ばかりは行くしかあるまい。ため息をついて、使い鳥の額を指で弾いた。
「わかった、わかった。特別に全速力で行ってやるから、感謝しろよ」
意識して尊大に告げると、使い鳥はエルメルアリアのまわりをぐるりと飛ぶ。それから、来た道を戻っていった。
エルメルアリアも高度を上げる。すると、森の動物たちが不安そうな声を上げた。つぶらな瞳を向けてくる者たちを見下ろし、エルメルアリアはにっと笑った。
「悪いな、オレはこれからお仕事だ。――大丈夫。きっとあれに関することだぜ」
あれ、と言いながら奇怪な穴を指さす。その意味がわかったのか、動物たちはぴたりと黙った。エルメルアリアは彼らに手を振り、銀色を追って飛び出す。
小さな体を包む風は、やけに生ぬるく、熟れた果実のような匂いがした。