76歳編
Ⅲ 七十六歳ー1
庭に置いた鉢植えの朝顔が濃い藍色の花を咲かせている。縁側に座ってその花を見て目を細めた。
後ろで戸の開く音がした。
「あら、姉さん起きてたの」
「うん。目が覚めちゃってね」
妹のキサが服やタオルを持ってきた。
「朝ごはんは?食べれそう?」
「うん。今日は調子が良いの。普通に食べれそう」
朝顔に朝日があたり藍色がより鮮明に見えた。
キサがトレイにのせた朝食をベッド脇のテーブルに置き、自分の分もさらにその横のテーブルに置いた。
「今日はいい天気ね」
「本当。朝顔もきれいでしょ」
「あら本当ね。気づかなかったわ。きれいね~。そういえば、今日の夜はどうする?」
「何が?」
「何がって、今日は誕生日でしょ」
「あ~、そういえば」
「姉さん。そんなことも忘れちゃったの?なにか欲しいものはありますか?」
「七十六にもなって誕生日もないでしょ」
「いいえ。こういうのはしっかりやっておくのが大事なんですよ」
「じゃあ昼までに考えておくわ」
「わかった。元気そうだけどあんまり食べてないね。下げてもいい?」
「うん。ごめん。おねがい」
キサは庭の物干し台にシーツを干している。私はベッドに座ってその様子を眺めていた。その後ろ姿に声をかける。
「また、どこかに行きたいね~」
「そうだね。元気になったらね」
「どこがいいかな~」
「あんまり遠くないところだよ」
シーツのしわを伸ばしながら答える。
「やっぱりパリかな。もう一度行きたいね」
「姉さんはパリが好きだねー。何回行ったっけ」
キサが縁側に空のかごを置いて座った。
「十回は行ってるね。やっぱりオシャレだね~」
「七十六でもオシャレが要るの?」
「女の子はいつまでもキレイでいたいの。知らないの?」
「ごめん。私は女ということを忘れていました」
笑いがこぼれる。
「・・ありがとうね」
「何?急に」
「パリに行けたのもキサのおかげだよ。パリのことを、渋田以外の世界のことをキサが教えてくれたから行けたんだよ」
「姉さんががんばったからだよ。それに姉さんのおかげで私もパリに行けたんだし。こちらこそですよ」
二十歳のころ将来の不安から世界が壊れそうになった。その時、キサに助けてもらった。私の世界はこの家と渋田しか無かった。事件後、キサが持っていた本で世界のことをいろいろ学んだ。学校の勉強などまるでしてこなかった。歴史や物理、特に地理を勉強した。学んだ地域には行けるようになった、そこで妹と二人で行きたいところを選んで、学び、それから親に頼んで旅行に行った。
今では世界のほとんどの場所に行けるはずだ。世界の隅々まで旅をするには年をとりすぎてしまったが。
「渋田にも行きたいね」
「人が多いですよ」
「それが渋田でしょ」
「姉さんは変わらないね」
「そうだ。パポパを食べたいわ」
「パポパ? あー、昔流行ったやつね。紫芋の」
「紫芋って言っちゃ台無しでしょ。パポパはパポパなんだから」
「はいはい。じゃあ買い物の時に見てみますね」
そう言って立ち上がると妹は部屋から出ていった。いつも通りなら風呂のそうじだろう。横になり目を閉じると風呂をそうじする音が聞こえてきた。そして眠った。
父と母の夢を見た気がする。目を覚ますと昼もだいぶ過ぎてしまっていた。最近はよくあることだ。父と母は私たちが結婚しないと最後まで嘆いていた。親不孝だったかなと思う。しかし、私には妹がいた。キサがいてくれることが一番だった。だから、イケメンの黒田さんとも別れた。その後も言いよられることが多々あったがすべて断った。妹もまた、私のことを大切に思ってくれていた。薬剤師の仕事に就き家計を支えつつ、私の勉強にも付き合ってくれた。妹に助けられたことを数えればきりが無い。
体を起こして枕元にあった写真立てを手に取る。家族4人でハワイに行った時の写真だ。思春期を過ぎると両親とも旅行に行くようになり、たくさんの楽しい思い出をつくった。ふっと笑みがこぼれたが、咳の発作が出た。写真を戻し体を横にするすぐに妹が駆け付けてきて背中をさすってくれた。
「大丈夫?」
「うん。もう大丈夫。ありがとう」
少し息が落ち着いた。妹はまだ不安そうな顔をしている。
「ああ、パポパはあった?」
急な話の変化に妹は目をパチクリさせてから
「さすがに無かったわ。でも紫芋はあったから、その煮物で良い?」
「えー。それはないでしょう。私は紫芋が食べたいんじゃないの」
「もう、いろいろ言いません。パポパなんて五十年以上前にちょっと流行っただけでしょ。もうどこにもありません」
そういって二人で笑ったが、また咳が出た。
薬を飲んで落ち着くと、庭の朝顔が目に入った。朝は藍色だった花がピンク色になっていた。私の大好きな色だ。
私がじっとみているのに気づいたのか妹が
「朝顔。きれいね」
と、言った。時間も夜に近づき空もピンク色に染まり始めていた。
「ただいまー」
玄関から父の声がした。部屋に入ってきた父は五十代ぐらいだろうか。妹と顔を見合わせる。
「カナ。今日の調子はどうだい?」
「あんまり無理しちゃダメよ」
後ろから母が顔を出した。その手には、私が大好きだった特製オムレツがあった。自分より年下の両親と四人で食卓を囲み団欒を過ごした。
「結婚相手はいないのか?」
「もう。この年で結婚できる訳無いでしょ」
「お父さんたら、変なこと言わないの。・・でも二人とも幸せなの?」
「うん」「うん」
姉妹の声が重なった。
「ならいい」「ならいいわ」
父母の声も重なった。妹と目を合わせて微笑んでいたら、父母の姿が消えていた。
「まさかまたママのオムレツが食べられるとはね」
「本当にね」
妹が皿を重ねていると、
「お、いたいた」
「カナちゃ~ん」
クミとモモが庭にいた。高校の時の姿だ。
「久しぶり~。元気~?」
「まあまあね。もうすぐお迎えって感じ」
「またまたー。そうそう。そこで会ったから一緒に来た」
と、後ろには黒田さんがいた。あの時のまま、イケメンだ。手には見たことのある紙袋を持っていた。
「久しぶり。相変わらずきれいだね」
「何、おばあさんを口説いてるの?まあ、上がって」
「あ~。キサちゃんも元気~?」
「モモさんも変わらず元気そうで何よりです」
「そうそう、お土産があるんだよね。黒田さん」
「ええ。カナが好きだったパポパを持ってきました」
また、妹と顔を見合わせる。
「どこに売っていたんですか?私もかなり探したんですけど」
「えっ? いつもの店にありましたよ」
あの店は三十年も前になくなったと思うけど。
「・・そうでしたか。ありがとうございます。早速出しますね」
妹が紙袋をもってキッチンへと向かうとクミとモモも手伝うとついていった。黒田さんと二人きりになった。
「気まずいですか?」
黒田さんが聞いた。
「この年になると、大体のことは平気になるものよ」
「前も聞いたけど、なぜ僕と別れたんですか。あの頃は忙しくて確かにあまり連絡もしませんでしたが、それは・・」
「あきたの」
「はい?」
「飽きたのよ。イケメンに」
しばらく呆然としたあと,黒田さんはふっと笑った。
「そうですか。それならしょうがない」
「しょうがないのよ」
「変わらないですね」
「前よりいい女よ」
二人で笑っているとパポパがもどってきた。みんなで食べたパポパは昔と変わらず甘すぎた。一口しか食べられないけど。
庭をみると朝顔がしおれ始めてていた。空はピンクのままだが。部屋はまたキサと二人になっていた。
「お姉ちゃん、横になれば」
「そうね」
ベッドに寝ると咳が出た。キサが優しく背をさすってくれる。
「私が死んだら、キサも消えちゃうのかな?」
「たぶんね」
「そうか。何とかならないのかね」
「私のことはいいですよ」
「・・ありがとうね」
「何が?」
「いろいろ」
「お姉ちゃんだもん」
「キサは幸せだった?」
「お姉ちゃんはどうだったの?」
「私は、・・キサに助けてもらって一緒に旅行して、本当に幸せだった」
「お姉ちゃんが幸せならそれが一番幸せ」
「そう、・・ありがとう」
七十六歳ー2
「キサは幸せだった?」
「お姉ちゃんはどうだったの?」
「私は、・・キサに助けてもらって一緒に旅行して、本当に幸せだった」
「お姉ちゃんが幸せならそれが一番幸せ」
「そう、・・ありがとう」
姉の手が私の手から落ちた。
「お姉ちゃん・・」
もう一度手を握るが、握り返してはくれなかった。ずっと一緒だったのに。
安らかに眠る顔を見つめていると姉の体が透け始めた。いよいよ本当のお別れだと思った。最後に頬を撫でて
「お姉ちゃん。ありがとう。バイバイ」
姉が消えていくのに合わせるように空の色が無くなっていく。世界も終わるのだと思いながら姉が消えるのを見守った。
姉との別れと、命を守れなかった悔しさで泣いたまま眠ってしまったようだ。目が覚めると外はだいぶ明るくなっていた。そして、驚いた。
なぜ私は生きているのか。外をみると空は真っ白だった。明るく感じたのもそのためだ。時計を見れば深夜三時だ。世界はどうなったのか? 近所の様子をみようとして、家の外の門から出られないことが分かった。家の敷地の外は無かった。空も地面も何もない。出ることすらできなかった。
家の中は電気もガスも使えるいつも通りの様子。2階の自分の部屋に行く。姉の介護を始めてからはほとんど入っていない。部屋には姉とともに学習したたくさんの本がならんでいる。この部屋はずっと変わらなかった。
◆◆◆
灰色の男は目の前の腰の高さほどのチェスの駒を見ていた。
『白のクイーン』
表面はきわめてなめらかで自ら光っているかのように光沢を持っていた。
暗い灰色に覆われているこちらの世界に似つかわしくない駒が終わりを迎えようとしていた。
駒の頭頂部のパーツから光沢が失われ、砂となっていく。男は無表情にそれを眺めていた。
◆◆◆
この五十年考えていたことがあった。姉がこの世界の創造主なら私が知っている知識、私が姉にこの部屋で教えた事ももともと姉が創っているはず。なのにこの部屋で姉と学ぶと世界は広がっていった。この部屋にある知識は姉が創ったものではなかったのではないか。では、誰が創ったのか。姉が亡くなり、世界が消え、私とこの家が残っている。
「そうか・・・私も」
創造主だったのか。私の世界はこの家だったのだ。なんと狭い世界なのか。姉の気持ちが分かったような気がした。
打ちひしがれていると
「ただいまー」
高校生の姉が帰ってきた。
「お腹すいた。きさバア、夜食作って」
「お姉ちゃん」
「もう、電車もないし、歩くしかなかったんだから。腹ペコよ。あ、でも軽いものにしてね。太るから」
「・・・え? うん、はい」
戸惑いを隠せない。
「いいの。キサは私のことを死ぬまでたすけてくれれば」
はっとして聞く。
「守れたかな? 助けられたかな?」
「んー、いいんじゃない。お腹すいた」
思わず笑ってしまった。この姉はもしかしたら私が創ったのかもしれない。たぶんそうだろう。
「パポパがあるけどどうする?」
「太るのイヤって言ってるでしょ!・・でも食べる」
「はいはい。ちょっと待ってね。冷蔵庫からとってくるから」
また、この姉を守っていけるのだ。
◆◆◆
今や砂山となった白の女王の駒は風に吹かれてその細かい砂塵を減らしていた。
灰色の男は無表情にその様子を眺めていたが、異変に気づいた。砂山の中に何かある。かき分けて手にとると、それは手に乗るほどのサイズのチェスの駒だった。
『白のナイト』
男は小さくなった砂山の横に駒を置いた。男が立ち上がった時、強い風がふき、女王の砂は飛ばされていった。気づくと、騎士の駒が砂の跳んでいった方向を向いている。
そして、一マス前に進んだ。




