日替わり定食
「いらっしゃいませ」
水曜日はたくさんのお客さんが来店してくれる。もっとも常連のお客さんが大半なんだけど。
「お冷をどうぞ」
「ありがと。いつものやつお願い。あやちゃん」
「日替わり定食ですね」
常連客の佐藤さんはいつもカウンター席に座り、注文したものができるまでスポーツ紙を読む。お昼はいつも日替わり定食を頼む。決まった習慣だ。ところが今日は新聞を広げていない。
「あやちゃんは今何歳なの?」
「なんですかその下手なナンパ文句は。今年で24ですよ」
「恋人はいるの?結婚は考えてんの?」
すると厨房から日替わり定食を持った父が現れた。
「なんだトシ。うちの一人娘にセクハラか?いくらお前でもゆるさんぞ」
「違う違う。うちの娘が結婚するってんだ。俺なんも聞いてねぇのに」
父が日替わり定食を佐藤さんの前に置く。父と佐藤さんは子どもの頃からの長い付き合いらしい。
「そらぁ女の子だからな。来るときがくれば結婚するだろ」
「だからよぉ。あやちゃんまで居なくなったら俺、寂しくて。結婚しないよね?」
佐藤さんが悲しそうに私を見てくる。
「すぐには結婚しませんよ。ていうか今彼氏いないですし」
「てことはいずれあやちゃんも居なくなっちゃうの。いやだあ」
今がお昼で良かった。これが夜でアルコールが入った場だと思うと考えたくない。
……彼氏。……結婚。
はっ!今日は水曜日だ。時刻は13時前。そろそろあの人が来るはず。
ガラガラ。引き戸が開く音がする。
…来た!
「いらっしゃいませ」
スーツ姿の男性はいつも通り無言で会釈をし、引き戸を閉めて入店する。
その男性はいつも一番奥のテーブル席を一人で座る。そしていつもスーツ姿だ。
「お冷です」
「ありがとうございます。日替わり定食をお願いします」
「日替わり定食ですね。かしこまりました」
男性は月、水、金曜日の13時頃に一人で来店してくれる。日替わり定食を頼むことが多いが、カキフライ定食やざるそばを食べることもある。
爽やかな短髪で髭はない。肌も綺麗で肩幅が少し大きめで、身長は170前後、年齢は30前半だと予想する。
私は厨房に行き、日替わり定食を両手で持つ。日替わり定食は人気なため、あらかじめ作り置きしてある。箸をお盆に乗せて男性の元へ配膳する。
「おまたせしました。日替わり定食です。もしかしたらちょっと冷めてるかもしれないです。希望なら出来たてを用意しますが」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ。猫舌ですし、いつも温かいお味噌汁が美味しいです」
男性の笑顔を見た私は、自分の鼓動が速まるの感じる。
男性は猫舌なんだ。男性は味噌汁をお味噌汁と言うのか。男性は食べる前に茶碗の位置をしっかりと並べかえる人。
そして男性は姿勢を正し、手を合わせていつもの言葉を発する。
――いただきます。
男性が初めて来店してくれた日は雨の日だった。私はいつも通りの接客をし、テーブルを拭いていた。そして聞こえてきたのだ。
――いただきます。
はっとした。振り向くと一番奥のテーブル席にスーツ姿の男性が一人で座っていた。
この店では「ごちそうさん」というお客さんは多いものの、「いただきます」というお客さんは親子連れ以外あまりいない。
私は「いただきます」という言葉を聞いて、はっとしたのは人生で初めての経験だった。なんて暖かく血がかよった言い方なのだろう。
命をいただくことへの敬意、美味しい食べ物がある幸せ、料理をしてくれた人への感謝の気持ちを、いただきますのたったひらがな6文字で表して良いのだろうか。それ以上の言葉を創る必要があるのではないか。
もしその言葉があるとするのであれば、男性はその言葉を体現している。
それくらいに惚れた。
私はたったひらがな6文字で男性に惚れたんだ。
「あやちゃんまた来るわ。お金、置いとくね。ごちそうさん」
「ありがとうございました」
佐藤さんが店を出る。
私は佐藤さんの食べ終わった食器をお盆ごと下げる。お茶碗にはご飯粒が残っている。いつものことだ。
ーーごちそうさまでした。
振り返ると男性と目が合う。胸が締め付けられる。
「お勘定をお願いします」
「はい」
私は男性の元に駆け寄る。
「日替わり定食一つで850円になります」
男性は鞄から長財布を取り出し、財布から千円札を一枚を出す。その所作一つ一つについ、見入ってしまう。そして手が綺麗だ。浮き出た血管が私を軽く興奮させる。
男性から千円札を受け取った私は、レジスターから百円玉一枚と五十円一枚を手に取り男性に渡す。
渡す時に男性の手が一瞬触れた。
「お釣りは150円です」
「ありがとうございます。また来ますね」
お釣りを受け取ると男性はいつも通りに店を去った。
私は男性の食べ終えた食器を下げる。
ご飯粒一つない。いつものことだ。
昼の営業時間を終えて、私は母と肩を並べて食器を洗う。
「お母さん、ご飯粒残す男性ってどう思う?」
「食事はその人の本性が出る。ダメよ。そんな男」
「じゃあ猫舌の男性は?」
「いいんじゃない?猫舌なら。味噌汁をお味噌汁って言う男ならもっといいと思う」
顔がぱっと熱くなる。
母がニヤニヤしながらこちらを見ている。
何歳になっても母には勝てそうにない。