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⑧たとえば、主人と使用人


背後で聞こえた主人の声に、アリスは思わず足を止めた。しかし既に閉じた扉を再び開ける事もできなくて、その場から動けないでいた。そのためエディがどのような反応を示したのか、何と返答したのかわからないまま自室のベッドへ戻る事になった。

 

 一応横にはなったものの、まだまだ長い夜になりそうだった。レスターの声がまだ耳に残っていて、アリスは仕方なく考えを巡らせる。

 エディの両親は既に亡くなっていると勝手に思い込んでいたが、よくよく思い出してみれば一度もその話が出た事はない。彼は何も語ろうとはしなかったし、親代わりの家令は聞いてはいけない、と子供の頃のアリスに言い聞かせた。


 侯爵家当主のレスターに連絡を寄越したのは領地の屋敷の家令か侯爵夫人のいずれかだとして、どちらも人柄からして信憑性の薄い情報をそのまま伝えるような事はありえないだろう。

 

 それからあの、大勢の目の前で実力を見せつけた姿を思い出した。顔を隠していたとはいえ、エディを知っている人間なら彼だと見当がついたはずだ。そしてそれはアリス達ではなく、もっと別の人に見てもらいたかったからなのかもしれない。



「…………ちゃんと、どこそこの伝手を頼って働きに来ています、って自己紹介した方がずっと楽だよ、アリス」


 夢を見ているのか、小さなエディがアリスにそうアドバイスをくれた。そうかな、とアリスは首をひねったが、彼はアリスが分かったと言うまで引かなかった。

 

 エディを尋ねてやって来た相手は貴族階級だと先ほどレスターが言っていた。もしそうだったならどうして彼は周囲に黙って、しなくていい苦労をしていたのだろう。しかし、あの頃には帰れない事情があったとしても、おそらく今なら大手を振って帰る事ができるのかもしれない。 


 もしそうなら、アリスがエディの事を好きになる前に、言ってくれたらよかったのに。言い出す勇気もないくせに、と辿り着いたのは自虐めいた答えである。

 







 翌朝、エディは屋敷からいなくなっていた。ロバートによるとまだ日の昇らないうちに馬を借りて領地の屋敷へ向かったらしい。何の理由かは、曖昧な笑みではぐらかされたそうだ。同時にレスターもいないらしく、置いて行かれた従僕達は手持ち無沙汰なまま、こちらに残ったカークが指揮を執って、書類仕事に取り掛かっていた。何人かは領地に戻るよう指示が出ているらしく、慌ただしく馬を走らせた。



昼過ぎになると、アリスはトリーを探して、屋敷の中を歩き回っていた。午後から家庭教師の先生がお見えになるのに、ほんの少し目を離した隙に部屋からいなくなっていた。よくいる場所を見回ってみたものの、書斎にもテラスにもいない。外へ出るには門番をどうにかしなければならないので屋敷の敷地内にいるのは間違いないとは思う。次に向かった先の厨房の出入り口では、顔を出した途端に追い返された。


「お嬢様はここにはいないよ!」

「はあ、わかりました。見かけたら教えてください」


 すごすごと引き返して中庭を見に行ったところで、しかしよく考えれば怪しい事この上ない。というか、おそらく厨房にいたのだ。今頃は皆で笑っている頃だろう。まったく、とアリスは踵を返そうとして、先ほどそこで働いていた人と行き会った。


「あ、アリス! いたいた、トリー様がお部屋でお待ちよ」

「やっぱり!」

「ごめん、だってご主人様には逆らえないからさ」

 

 アリスが彼女の部屋へ行くと、ご令嬢は何事もなかったように椅子へ腰かけていて、優雅に手招きしてくる。 


「お兄様と懇意の商会の方が持って来て下さったそうなの。でも自分は一旦領地に帰って、いつ戻るかわからないから、悪くなる前に食べなさいって。お義姉様と子供の顔が急に見たくなった、とおっしゃっていたけど」


 お兄様ったら、と肩を竦めている彼女の前には、くし形に切り揃えられたモモが並んでいる。彼女の一番好きな食べ物で、領地でもよく料理長が仕入れていた。


「私に申しつけて下されば」


 主人が階下まで行かずとも、アリスやその辺の使用人に言付ければそれで済んだのに。トリーはちらりと部屋の中へ視線を走らせて、こちらに向かい側に座るよう促した。そして部屋の中に他には誰もいない事を確認して、口を開いた。


「……自分で剥いてみたかったの。料理長に横で教えてもらいながら、私が切ったのよ。……ちょっと思うところがあって」

「……は、はあ」


 アリスは思わず、彼女の白い指先に視線を走らせたが、幸いにもナイフの切っ先を誤ってしまったような跡は見受けられなかった。しかし自分で調理する高貴な令嬢をアリスは見聞きした事はない。どちらかと言えば眉を顰められそうな行為にも思えたが、トリーの誇らしげな顔を見ると、全て些細な事に感じられた。モモは柔らかいので、初めての難易度はそれなりだったろう。


「アリス、一つ食べてみて」

「……いえ、私は」


 アリスはトリーの有無を言わさぬ圧力に屈して、失礼しますとフォークを握った。端の一切れを口に入れると、なんともお上品な味が口に広がる。


「どう? 何か感じる?」

「私が市場へ行っても、これと同じモモは出て来ないと思います」


 アリスの味の感想はお気に召さなかったらしい。そうじゃないとばかりに首を振って、声を潜めて再びしゃべり始めた。


「このあいだ、お義姉様と一緒に食事をしている時に、お兄様の話になったんだけど……」



 トリーの義姉となった現在の侯爵夫人は、世の中の多くの高貴な貴族令嬢と同じように、政略上の相手としてレスターに嫁いだ。本人の耳に入ると気分を害されるかもしれないが、誰に似ているかと言われると雰囲気だけならレスターに一番似ている。


 それが朝、目を覚ました妻に、夫が手ずから紅茶を淹れ、そしてリンゴを用意してくれたらしい。くるくると器用に皮を剥いて、それをもらって口にした時に、何とも言い表せない幸せな気持ちになったと義理の妹に語ったらしい。

 

「……それを聞いて、ちょっと真似をしてみようかなって。私も多分、そろそろ話が出ると思うの。この間も一日ちゃんと外にいられたし。慣れの問題だと思うの、これからは」


 お皿の上を眺めながら、トリーが呟いた。小さな声だったが、いつも自分の将来について口を開く時のような憂鬱な色は感じられない。この間のエディの試合を観に行ったことで、多少は体力的な問題に自信が持てるようになったのだろう。


「……ねえ、エディ君とお食事に行ったって、本当?」

「ええ、まあ。食事は美味しかったですよ、もちろん」


 それはそうと、とトリーは話題を切り替えた。今度はアリスが目を泳がせる番である。続きを促す主人に、どう説明したものかと言葉を探す。


 エディが本当に貴族の子弟だった場合、アリスにはもう一緒にはいられない。一緒に仕事をする事を労うのも、何かと親切に助言をくれる事も、さらっと仕事を手伝ってくれて、それから楽しい話をする事も期待してはいけない。使用人の分をわきまえて、向こうからの了承を得るまで顔を上げない。レスターやトリーが相手であれば当たり前の礼節を、エディにまで必要となると、それはひどく寂しくて、悲しい事のように感じられた。


「……エディは……どうなんでしょうね。ちょっとよくわからなくなってしまって。困っています」


 どう頑張っても後ろ向きな言葉しか出て来ない。何とも言いようのないアリスの返答に、トリーはいつもと違う何かが引っ掛かったらしい。もう一切れどうぞ、とこちらに皿を勧めた。


「……え、いやしかし……」

「一緒に食べて、美味しいって言えたら気分も変わると思うの」  


 アリスは仕事中だからと遠慮したが、結局トリーにねだられるまま、口に入れてしまった。まだひんやりと冷たい果肉の甘さと瑞々しさが広がる。まだ見習い時代に料理長が、これが一級品だと豪語しながら切れ端を、アリスとエディの口の中に放り込んでくれたのを思い出した。


「美味しゅうございます、すごく。とっても」

「他の人には内緒ね、贔屓は良くないってお兄様はいつも言うから。……それでも、アリスは特別だから」


 あのね、とトリーが話を続ける。改まったように一度席を立ち、わざわざアリスの横に座り直した。白く開いた手の指を、数えるように一つずつ折り曲げた。


「……先日の付き添いのお礼。それから、いつも寝るまで傍にいてくれる分。ずっと前に痣が痒くて眠れなかった時に、朝になるまで服の上から優しく叩いてくれた分」


 トリーがしみじみと言うように、明けないのではないかと錯覚するような長い夜が何度もあった。月明かりと夜明けの色が混ざった淡い光が窓から差し込む時間まで、どうしてやる事もできないままアリスは主人の泣き言に耳を傾けていた。


 その声は今、それからそれからと逆にアリスを元気づけるように明るい調子で紡がれる。


「……ここで全部あげると、カゴの中身を全て開けないといけなくなるから、また今度でゆるしてね」

「……私には過ぎたお礼でございますよ、お嬢様」


 あんなに小さかったトリーが、アリスの胸中を察して、何か背中を押すための言葉を探してくれていた。

 

「それからアリスは、お兄様が二人にした話を覚えているかしら? あの、初めて二人で手品を見せてくれた日に」



 見習いエディと二人で投げたコインは、一度たりとも裏を出したりはしなかった。あの日の庭園の東屋で披露した手品はちゃんと成功したのである。すごいじゃないか、とレスターの感心した称賛、肩を竦めているカーク、はしゃぐトリーの声をはっきりと覚えている。


「『お屋敷で一番高価な物は何か』でしたね」


 そしてレスターから講評代わりに、謎かけのような問いが寄越された。出題者が満足する答えは、顔を見合わせる見習い二人の横でカークが挙げた、玄関ホールの舶来の壺でもなく、主人の寝室の湖の絵画でもないそうだ。


「……覚えているなら良かった。それを忘れてはダメよ」

「こちらでしたか。トリー様、家庭教師の先生がお見えですので、ご準備を」


部屋がノックされ、何をしているのやら、と言わんばかりの呆れた視線が、仲良く並んでモモを食べていた主従に注がれた。ちょうどカークが、手に書類の束などを抱えて呼びに来たのだ。


 カークはようやく慰霊祭が終わって主人と主役が王城から帰還したのに、肝心の彼らがまたすぐに出て行ってしまった。そのため後始末や各所からの問い合わせを全て背負い込む事になったのであんなに機嫌が悪いのだ、などと他の使用人達がひそひそしていた。

 最近何やら悩んでいるらしいとの噂だが、流石に主人の前ではいつも通りである。アリスは慌てて立ち上がろうとしたのを、トリーが視線で制した。これは、何か余計な事を思いついた時の目だった。


「……カークは覚えている? 屋敷で一番高価な存在についての、お兄様の見解」

「……それは、人件費の話を皮肉っておっしゃられたんですよ」


 詳細を省いたトリーからの問いかけに、カークも長々と語りはしないがやはり記憶にはあるらしい。懐かしむようで、どこか苦々しいような返答だった。


「またあなたはそうやって、話をつまらない方向へおさめようとするんだから。……私が女主人になったら、お兄様の方針を受け継いでやらせていただきますからね」


 どこの女主人になるつもりかを明言しなかったので、アリスはその発言を素通りしたが、カークは違ったらしい。ばさばさ、と彼が抱えていた大量の羊皮紙の束が床に落ちたが、それどころではないようだった。カークはトリーを凝視している。いつもの一歩下がった冷静な眼差しではなく、珍しく動揺の色を隠せないでいた。


「……その話は、一体誰が」 

「お兄様が、本人が話したいそうだからそれまで待つようにって。それだけだから、そんな顔しなくたっていいと思うけど。まだ正式に、私が将来どこへ嫁ぐのかって侯爵家当主が明言したわけじゃないんだから」


 一方のトリーは言いたい事を口にして、さっと視線を外す。よそ行きのご令嬢の顔になって、先生がいらっしゃってるんだったわ、とわざとらしく上品に付け足した。そこへ、床に散らばった書類は無視して、カークがテーブルのすぐ傍へ来た。


「お待ちください、まだ話は終わっておりません」

「カーク、家庭教師の先生をお待たせするのはよろしくないでしょう?」


 今のカークが相手だと、トリーの方が余裕があるように見えた。しかしよく考えれば、そもそもの上下関係から考えれば当たり前の話かもしれない。


「そんなものはいくらでも待たせておけばいいんです。……そこの侍女、手品でも何でも先生の足止めをしてくるように」

「……仕方ないわ、アリス、お願い。どうせあなたも近いうちに話が行くと思うから、今は気にしないで」

「承知いたしました。ではまた。失礼いたします。トリー様、頑張って下さいまし」

「あなたならきっと上手くやれるわ。アリス、また後でね」

 

 アリスは指示通りに、二人を置いて部屋を後にした。どのような話をしたのかについては、きっと近いうちに可愛い主人が話をしてくれるだろう。いつもねだられる側なので、たまには聞き役に徹するのもきっと楽しいに違いない。


 それよりも先生の足止めを考えなければならない。本当に手品を見せて機嫌を損ねるのはまずいだろう。しかし花を愛でる女性らしい一面もある事を思い出し、中庭の鉢植えでも紹介しようかと、アリスは階下へと急いだ。

 


 部屋を出て階段を降りて行くと、まだ新米とわかる侍女が二人急ぎ足で上がって来るところに行き会った。アリスに気が付くと、安堵したような表情で話しかけて来る。どうやらシーツの保管場所がわからなくなったらしいので、場所だけ教えてアリスも階下へ急いだ。お礼の言葉を述べながら廊下へと駆けて行く二人分の駆け足は、アリスの記憶にある見習い時代と重なった。



「この屋敷で一番価値があるのは、使用人である。そこの二人、いや三人か。くれぐれも忘れないように。それからトリーもだ」 


 レスターの優しい声がよみがえる。あの日は意味が理解できずに、何かの言葉遊びの一環なのかと後でエディと延々話し合いが続いたが、それらしい屁理屈は出て来なかった。


「あの大きな壺より綺麗な絵より、使用人の方が高価なんですって。どういう意味なんでしょう?」


 食堂でも引き続き、疑問を解消するべく小さなエディとアリスによる議論は続いたが、納得できる結論には辿り着けなかった。周りで夕食をとっていた大人達はへえ、とかほお、とかニヤニヤしながら悩む子供達の髪をくしゃっとやっては自室へ引きあげて行った。一番最後にやって来た親代わりの家令に聞いてみると、大人らしくしっくりくる解釈を用意してくれた。


「頼りにしているよ、という事さ」



 それを思い出せ、とトリーは言うのである。あの時と同じように、主人の称賛と期待と敬意が背中を押してくれるような気がした。

 

「壺や絵にできなくて、自分達にできる事は?」

「動ける、喋れる、……だから何だって言うんだろう?」


 子供の頃のエディが、横で首を傾げていた。それこそが答えだったと、大人に、一人前に近づいた今ならレスターの意図を汲み取れる。亡くなった両親の無償の愛情、家令をはじめとしたたくさんの親代わりが見守ってくれて、主人からの信頼を得て、それからずっと隣に居続けてくれたエディの事を思った。

 

 アリスもエディも既に、一人で生きていけない子供ではなかった。もうここへ帰って来ない可能性もないわけではない。しかしアリスには、たとえ別れの言葉になったとしても、必ず伝えなければならない事があるはずだった。  

 

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