⑦たとえば、評価と見直し 2
「仮面の騎士に乾杯!」
「仕事上、やむを得ずのね」
アリスの少々声を潜めた祝杯の合図に、エディが苦笑いしながら応じた。紹介してくれたお店はお洒落な雰囲気で、二人は他に客のいない二階席に案内された。一階では華やかな黄色のドレス姿の若い女性が、ゆったりと落ち着いた曲調のピアノを披露している。
エディはもうお酒は口にしても差し支えない年頃だが、護衛として万が一の事態があると困るので飲まないようにしているらしい。アリスと同じ、季節の手絞り果物ジュースである。
「ご主人様に言われたんじゃなきゃ、あんな事はやらないって。それが理由の一つ」
「レスター様がどんな指示を出したって言うの」
「高貴な人々は面倒くさいのだ」
アリスはあの仮面についての経緯を尋ねたが、エディは答えをはぐらかした。観客席からでは随分乗り気の様に見えたが、肩を竦めてグラスに口をつけているところを見ると、多少は恥ずかしい思いをしていたのかもしれない。
「じゃあ残りの理由は?」
「アリスが喜ぶと思って」
「それ本気で言ってる?」
エディが真顔で答えて、どこからかその仮面を取り出した。アリスの記憶にある、あの手品師とほとんど同じ造りに思えて懐かしくなった。借りて試しに目に当ててみると、思ったほど視界の邪魔になる事もない。
「あげる。今だったら高く売れるかもよ」
随分気前の良い事を言い出したエディにアリスが感激していると、ちょうど料理が運ばれて来たため、アリスは慌てて臙脂色の仮面をしまい込んだ。向かい側の当人は特に慌てるでもなくニヤニヤしながらこっちを見ている。スープと前菜を運んで来た品の良いコック姿の男性はこの店のオーナーを名乗って、エディにはあの試合を観ていたよ、と親し気に付け加えてから戻って行った。
「……知り合いなら先に言ってよ、エディ。これは売らないよ、領地のみんなにも見せびらかしてやる」
二人は早速食事を開始した。このドレッシングは魚介系、スープの出汁は野菜もかなり使われている、と意見交換しながら口に運んだ。領地の屋敷で侯爵一家の食事を提供している料理長のアンガスは、見習い達にあれこれと世話を焼いて、自分の作った自慢の一品も味見をさせながら毎回詳しい説明を付け加えていた。二人は意外と舌が肥えているのである。
「そう言えば、何かもらえそうだった? レスター様からのお小遣い以外に」
爵位だ領地だ賞金だ、とそんな噂が立っていた事を思い出したアリスは、メインの子牛のワイン煮込みをあらかた食べ終えた同期に聞いてみた。彼は周囲を見回して、誰も聞いていない事を確認してから話し始めた。
「王城で近衛にならないか、とは言われた」
「……すごいじゃない」
近衛と言えば王の傍に侍る騎士である。アリスは思わず食事の手を止めた。
「ご主人様が即座に却下してくれたよ。『お菓子をもらっても付いて行かないように』って釘まで刺されてさ。小さい子供じゃないんだから。別に、誰もなりたいなんて言ってないのに……」
僕って信用ないのかな、と少し落ち込んでいる。レスターがたまに小さい子に言い聞かせるみたいになるのはおそらく、子供の頃から仕えているのでしょうがないのかもしれない。
「大体、審査厳しそうじゃん。あちこちの貴族からお坊ちゃんが選抜されて集まるなんて、考えただけでも面倒くさそう。カークさんみたいな家柄でも相当大変だろうな」
大変そうなのはアリスも同意ではあるが、誰も聞いていないと思って言いたい放題である。エディなら任命されれば役目自体はできない事もないような気がするものの、レスターが許さなければ実現はないだろう。
「それで、しばらく領地でほとぼりが冷めるまでは大人しくしてなさいって。ほら、カークさんがいよいよ自分の街に戻って家督を継ぐから、その手伝いをするようにって」
それでカークがピリピリしているわけだ、とアリスは納得した。昔から使用人として屋敷に留まっているが、彼には継ぐ家と役割があるのである。侯爵領内の事とはいえ、今後は少しばかり顔を合わせる機会も減っていく事になるだろう。アリスの可愛い主人が寂しがるかもしれない。
「家に戻ったら、婚約者さんとかいらっしゃるのかしら?」
「……カークさんに、明確な婚約者はいない。ご実家の規模からして、狙っている女性はかなり多いらしいけど。トリー様って何もおっしゃってない?」
「……トリー様?」
「……ごめん、今のは忘れて」
よくわからなかったが、忘れて欲しいと言われればアリスはその通りにする以外にない。あっさり頷くと、そういうところがのんきだ、とエディがまた納得のいかない言い方をした。しかし、デザートの季節のフルーツ盛り合わせの中から、アリスの好きな一切れを寄越して来たのでうやむやになる。
「……月並みかもしれないけど、アリス達が持っていた燭台の灯りが星みたいで綺麗だったな。あれはずっと忘れないと思う」
「うん、私も久しぶりにちゃんとお父さんお母さんの事をしっかり思い出せた気がする。エディ、ありがとうね」
しんみりと話している頃にはもう食事も終わりかかっていた。ちゃんと記憶しておいて、領地に戻ったら料理長に報告しなければならない。アリスはもう一度出された食事を思い返していると、エディが口を開いた。
「……それで、さ。どうだった? ちょっとは僕の事、見直した?」
「……見直す?」
何を言いたいのか、アリスにはよくわからない。今更見直す程、エディの評価は低くはない。まだ褒める言葉が足りなかったか、と改めて考えを巡らせた。子供の頃からずっと隣にいて、仲良くやって来た家族同然の存在で、最近は少々、一緒にいて落ち着かない事もある。
見直すも何も、アリスはエディの事をずっと尊敬している。侯爵家の他の上級使用人達はほとんどが傘下や血縁のあるそれなりの家の出身であって、自分達とは最初の位置がそもそも違う。それでもエディはレスターの信頼を勝ち取り、数日前の式典のように期待に応える働きなんて、同じ事を要求されたとしても、とてもできはしない。
しかしエディの、やや緊張しつつも期待に満ちた眼差しを向けられると戸惑ってしまう。アリスには最低限の学しかないので、貴族であるレスターや国王陛下の方が、ずっと素晴らしい祝福と称賛の言葉を贈れるのに、と思った。
「……すごいのを通り越して、何だかエディじゃないみたいだったよね」
アリスは小さい頃より侯爵家に仕えているため、身分という壁に関しては理解しているつもりである。エディはいつでも隣にいてくれる気でいたが、今回の観戦で、むしろ彼も種類は違えど主人であるレスターやトリーのように、決して相いれない場所にいるような気がしてしまった。
「……明日も早いんだっけ?」
「そうでもないよ。トリー様の時間に合わせて動いているから」
エディは頑張ったご褒美の一つとしてお休みをもらい、アリスは可愛い主人が目を覚ます前に支度をしておけば事足りる。昔のように、日が昇る前に起きなければならない生活ではなくなった。
一応アリスは所見を述べたのだが、エディの返事はそうか、と短く釈然としなさそうな声であった。どうも変な空気になったまま二人は店主にお礼を述べて来た道を引き返す。そこまで遅い時間ではないものの、流石に人影はまばらになって来ていた。ちょうど店を出て来たばかりの酔っ払い達の賑やかな笑い声が通りにこだましている。明日の予定をアリスが答えながら使用人用の出入り口へ向かったが、既に鍵が閉まっていた。
勝手口なら空いているはず、とエディが言うのでそちらへ向かうと、まだそちらは明かりがついていた。まだ翌日の仕込み中だろうかと扉を開けると、その場にそぐわない声が掛けられた。
「……楽しい話は終わったのか?」
粗末なランプの光が、使用人達の食堂とは無縁のはずの人物を照らしている。見た目だけならいかにも怜悧な貴族然としたレスターが、一緒に飲んでいたらしい御者のロバートを座らせてワインを口にしていた。ご老体はすっかりできあがった様子でおかえり、と機嫌良くグラスを掲げた。
「……少し話がある。その前にロバートを部屋へ」
ここで一体何を、と尋ねる前にアリスとエディは素早く仕事に頭を切り替えて姿勢を正す。レスターはロバートの介抱を命じた。卓上にはグラスと、いかにも高価そうなラベルのワインが空になっている。
「……いやー、久しぶりに美味しいお酒が飲めて嬉しいよ。みんな立派になっちまってなあ。旦那様もお嬢様もカークも、アリスもエディもあんなにチビだったのにさ」
「……旦那様と何を話していたの? おじいちゃん」
エディがロバートに肩を貸し、アリスはとりあえず食堂の扉を開けて男性使用人の居室への道を作った。その背後で何やら、最年長の使用人の主張が始まった。
「老いぼれとはいえ、レスター様の一番の理解者の座は早々譲らんぞ。大昔から、塞ぎこんでいらっしゃる時は話の分かる奴らに声かけて、馬車に乗っけてわーっと走れば……」
「飲み過ぎじゃない? 足元気を付けてよ……」
なるほど、主人は遠出が好きになるわけだ、とアリスは納得した。エディが呆れ声で老人を窘めている。長生きしてよ、そうだそうだと二人の声が重なると、ロバートが空いた方の腕で目元を拭ったのは見なかった事にした。この御者に、二人は働き始めた頃からお世話になっている。酔っぱらいを彼のベッドまで送ってから、なるべく急いでレスターの下へと戻った。
「……お楽しみのところを悪かったな」
食堂で待っていたレスターは特にそうは思っていない様子で言った。相当飲んでいるはずだが、ロバートとは違ってあまり変化は見られない。いえ、と二人は恐縮して頭を下げる。
「アリスもご苦労だった。トリーもこれで自信がつくだろう。長い間支えてくれた事を感謝する。今後も、しばらくはそばに付いてやって欲しい」
「……もったいなきお言葉にございます」
直々の称賛にアリスはいたく感激し、更なる忠誠心が湧いて来るのを感じた。次はエディだが、とレスターが続けた声に、アリスは使用人としての長年の勘は働いて、その場を辞す事にした。わざわざ二人の帰りを待っての話ならば、アリスが軽々しく聞くのは良くないという判断である。
扉を閉める直前に主人の、いつも通りの感情の伝わりにくい声が聞こえた。
「自称、お前の御両親を名乗る男爵達が領地の屋敷に、今すぐにでも会いたいと尋ねて来ているそうだが、どうする?」